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第一話

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 運転手のいないセダンの助手席に深く腰掛け、背伸びをしながら大あくび。鈍い音を立てて、彼の膝上に寝そべっていたタブレットが足元へ落下する。しかし、彼は片目をうっすら開けてそれを一瞥しただけで、構わず首を横に振った。その優美で勝気そうな目元には、うっすらコンシーラーの跡。

 あくびの余韻を引きずったまま、タブレットを拾う。車内灯を反射し、襟元のひまわりのピンバッジがきらりと光った。

「おはようございます、アヤ先輩。お待たせしてすみません」

 緩慢な仕草でタブレットを操作していたところ、運転席のドアを開け、屈んで顔を出した、温和そうな顔立ちの青年。にっこりと人懐っこい笑顔で笑い、そのまま運転席に乗り込んでくる。

「ん~、おはよ、シノ。いつも悪いな」

「とんでもないです。これ、処方箋です。いい加減定期健診に来てくれと、姉が」

 小さな紙の袋とペットボトルの水を差し出しながら苦笑いする、シノと呼ばれた青年。対するアヤと呼ばれた彼はやや引き攣った顔でハハハ、なんて誤魔化し笑いしながら受け取り、紙の袋の中身をあらため始めた。

「最近案件が詰まってましたからね……こうも働きづめでは、さしもの先輩でも流石にお疲れでしょう」

「いや、平気よ。働きすぎってより、アレ。いつものやつ。センセーには内緒な、前回のヒートから三カ月経っててさ。流石にちょっとダルいかな~って」

「三カ月!? それはまずいです。今日の案件を済ませ次第受診してください」

「怒られるじゃん……」

「当たり前ですよ、もう。貴方みたいなわからずやの患者を叱るのが姉の仕事です」

 唇を尖らせながら、カプセルを開封し、錠剤を水で流し込む彼の名は、雨川うかわ 文海あやみ。ごくりと上下した喉仏の動きに伴って、金具のついた伸縮性の高いチョーカーがぬめりと動く。今彼が服用したのは、万が一ヒートが起こった際の事故を防ぐため、一時的にフェロモンの効果を不活性化する薬剤だ。

 そして、彼のオーダーメイドのスーツの襟元に光る記章が表す通り、彼はれっきとした現役の弁護士。それも、国内では彼の他に存在しない、Ω男性の、さらには第二性トラブル専門の弁護士なのである。

 そして、彼の隣、運転席にて滑らかにセダンを発進させた、柔和で雅やかな美青年は、篠崎しのざき 音衣のえ。雨川と同様、その首には細身のチョーカーが嵌っており、彼もまた御多分に漏れずΩ男性だ。雨川の学生時代の後輩で、現在は雨川の専属パラリーガルとして、雇用主の全面的なサポートとバックアップを担っている。

 本日、彼らが請け負った依頼は、フェロモンハラスメント及び性加害未遂事件の示談交渉。雨川が弁護するのは、加害者として書類送検され、民事でも訴えを起こされた風俗店勤務の20代Ω女性だ。

 勝ち目など全くなく、なおかつ他の弁護士事務所では門前払いを食らって、ようやく雨川の事務所にたどり着き、依頼された案件である。

 雨川の事務所には、毎日のようにこういった完全に不利な事例が舞い込んでくる。依頼金もほぼサービス同然。なぜなら、こういったΩは大抵の場合社会的立場に恵まれず、支払い能力が皆無であることが殆どだから。

 なお、それは、被害者でも、加害者でも、変わらない。

 Ωへの常態的な権利侵害に歯止めをかけるため、第二性共同参画基本法が制定されてから、30年が経つ。しかし、なおも世間の差別意識やそれに基づいた社会構造は依然根強く蔓延している。

 どうしたって、Ωとして生まれた人間は、そんな社会の歪みに飲みこまれ、社会的弱者としての生き方を強いられて、苦しむ羽目になるのだ。

 雨川は、そんな世間にあって、第二性専門、それも、Ωからの依頼を格安で請け負う、受け皿として活動しているのだ。

「そういえば、先方が指定してきた場所……久裳ひさもグループの商業ビルに貸し会議室なんてあったんですね」

「ああ、貸し会議室という名目ではあるが、実態はVIPルームみたいなものらしい。久裳グループ傘下の企業の主要株主にだけ公開してる」

「それは……なかなかですね」

「うん、まあ、嫌だよね。書類送検されてる時点でまあ、作為的なものだったんだろうし……最近多いよな、こういうキナくさい案件。今時Ωを食い物にしてる風俗店なんか、どうしたってバックにはドス黒い闇が潜んでるし。先方の名前は聞き覚えないが、大方権威カネ持ちだ。気合入れていこう」

「心得ました」

 ハンドルを握り、まっすぐ前を見据えたまま、篠崎は力強く頷く。しかし、その横顔に悲壮感などは微塵も感じられず、むしろ弛まぬ信頼感に満ち溢れているようだった。

 それを受けた雨川もまた、頼もしいな、と思いながら頷いた。

 ただでさえΩという立場で弁護士をしているだけあり、さまざまな偏見の逆風に晒されている雨川。しかし、そんな社会にあってなお、ふたつの足で地を踏み、真っ向から理不尽へ立ち向かうことが出来るのは、心強い味方がいるからだ。

 雨川は力んでいた肩の力を抜き、リクライニングを倒してリラックスした。目的地まではおよそ8分ほど。束の間でも、こうして目を閉じるだけで、随分頭がすっきりする。

「さてさて……今日も、このケッタイな首輪を見て家畜みたいな目で見てくる連中の鼻をサクッと明かしてやりますかね」

「まあまあ、ほどほどに。先輩は凄い人ですけど、やみくもに敵を増やしていいわけでもありませんからね」

「でも、シノは味方してくれるだろ。俺にはシノみたいな頼もしい右腕がいるんだ。無敵よ、無敵」

 篠崎はクスリと笑った。しかし、どうしてか、その瞳の奥には、いくばくか、無力感をたたえているようにも見えた。

 雨川は、そんな彼の心中を感じ取り、その柳眉にほのかなもの悲しさをにじませながら、項の後ろの金具をチャリチャリと撫でたのだった。
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