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第三十八話

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 出だしからトラブルに見舞われたものの、何とかお茶を濁しつつ乗り切っているうちに、引退カウントダウン毎日配信生活を始めて10日が経った。

 ダンスレッスン、打ち合わせなどで事務所やスタジオに詰めっぱなしになり、配信ももっぱらその合間を縫って事務所の防音室で取るようになった。因みに現在進行形で3日家に帰っていない。

 そんな修羅場進行でゴリゴリと人間性を削りながら活動をしていれば、当然メンタルに余裕がなくなるし、ストレスも募るもので。

 端的に言うと、コウガくんと喧嘩した。毎日一度必ず取っている通話時間でのことだ。

 慣れないホテル生活にフラストレーションが溜まり始めてメンタルが荒んでいたコウガくんと、純粋に睡眠不足で人間として終わっていた俺が、最悪のタイミングでカチ合ってしまったのである。

「八女川……悪い……一本くれ……」

「ハッ!? うわ、珍し……というかお前顔色ヤバい、流石に一回帰って寝ろ」

「10分仮眠したから平気……顔色悪いのは別の理由だ……」

 眠気覚ましのために自販機へ向かったところ、通りがかりの喫煙室に八女川が入っていくのが見えたので、缶コーヒーを二本買ってそのまま突撃、コーヒー一本と引き換えに分け前をゲットする。煙草なんか吸うのはかれこれ数年ぶりだ。

「一回愚痴いいか……」

「どしたん」

「彼ピの寂しんぼのケアする余裕なくてさ……むしろこっちがケアして欲しいよ、とか思っちまって……」

「ああ、痴話喧嘩かよ」

「まあ普通に俺も悪いんだけどね……通話中十秒に一回は浮気疑われるしさ、んな暇ねえよって、つい大袈裟にキレちまったんだよ……そしたら、暇があったら浮気するんだねって泣きギレされて……俺も訳わかんなくて泣きたくなってそのまま電話切っちまって……」

「あの、お前、えぐいトロールかましたな……あの人そんなメンヘラだったのか……」

「メンケア必要なサインが分かりやすい子だし、素直だからちゃんと言えば納得してくれるんだよ。とは言え、かれこれ数日は顔合わしてねえからさ……冷静になって思うと、多分あの子不安と心配の境界線が曖昧になってるとこあるなって」

 あの子だって、本心で浮気を不安がっているわけではないはずだ。一日に三度は今何をしてるっていう報告メッセを写真と一緒に送っているし、事務所に詰めっぱなしで家に帰ってないから、ホテルにいてもらう意味無いかも、なんて話もしていた。

 体力クソ雑魚の俺に、浮気なんてする暇も気力もないことくらい分かっている。きっと彼は俺自身のことを心配してくれているのだ。寂しいという感情がその正体をぼやけさせて、浮気の不安なんてものに書き換えられているだけで。基本なんでも器用にこなす子なのに、心の整理だけはドのつくぶきっちょなのだ。

「かわいいやつなんだよ……それなのに俺は……」

「あのな、いいから、このままリハなんかやっても無理だから。明日に調整するよ。今日はもう家から配信してそのまま朝まで寝て、スッキリしてから出社しろ、な?」

「でもよぉ……」

「代表命令!! 今すぐ、さっさと帰れェ!」

「ご迷惑をおかけします……」

 俺は結局一回しか口をつけなかった煙草を灰皿に押し付け、一度頭を下げてから喫煙室を出た。位置情報共有アプリを開けば、おあつらえ向きといったように、コウガくんは家にいるらしかった。

 この際抱かれたって仕方ない。腹を括ろう。タオルでも腕でも噛んで声を我慢すればいい話だ。今の状況でホラーゲームなんかしても、演出よりコウガくんの精神状態の方が恐ろしくて集中できないだろうし。

 タクシーを捕まえて飛び乗り、色々な意味でドクドクと跳ねる心臓を抑えながら電話をかける。10コールしても出てくれない。仕方なく、メッセージで、今から家に帰るから待っててくれると嬉しいと送信。数秒で既読がつくも、返信はない。

 焦燥感に駆られ、つい貧乏ゆすりをしながら位置情報を眺めてしまう。今のところコウガくんのピンが動く気配はないが。ズキズキと頭が痛んだ。

 信号待ちで意識を手放しそうになったところ、バイブレーションとともに、メッセージの通知バナーがポップする。コウガくんからだ。俺はスマホを取り落としそうになりながら、慌ててバナーをタップした。

『別に無理して帰ってこなくてもいい』

 ああ、後ろめたいんだな、と、彼のいじけ顔が手に取るように分かる。きっと、ここで気を遣われて帰って来られる方が彼のプライドに障るのだ。なにより、彼こそが、レイネの配信活動を大事に思ってくれているファンなのだから。

 俺は『もう帰っているところだから、少しでもいいから会いたい』と送った。ちょうどそのタイミングで、指定した最寄りのコンビニに到着し、運転手に声を掛けられる。電子決済で料金を支払い、そそくさとタクシーを降りた。

 マンションのエントランスの階段に足をかけようという時、奥からコウガくんの長身がこちらへ向かってくるのが目に入り、俺は思わず舌打ちした。迎えに来たという雰囲気ではなかった。極限まで迷った結果、帰ってくる前に逃げようとしたのだろう。

 目が合った。コウガくんは分かりやすく顔を引き攣らせ、その場に立ち尽くした。

「ただいま、カイくん」

「……お、かえり」

「忙しくても君に会いたくなるのに、誰が暇なら浮気するって?」

「だって……オレなんかが恋人なら、浮気されても仕方ないじゃんか……しばらく会わないうちにナガトさんの気持ち冷めたらどうしようって、ナガトさんそれどころじゃないの分かってるんだよ……忙しくて大変なのにオレ何も出来なくて……そんな奴が恋人で意味あるのかなとか考えはじめたら悪い想像が止まんなくて……」

「きみが俺のこと認めてくれてるとでも思ってないと、配信なんてまともに出来てないんだよ……見てくれてるなら分かるだろ、コメント欄の惨状……あの同接の何割がレイネの味方なんだろうとか考えて、心が折れそうになるたびに、きみの顔を思い出してさ。なんとか踏ん張ってるんだよこっちは。きみが愛してくれてなきゃ、とっくに逃げ出してる」

 同接数だけ見れば、配信を経るごとに多くなっていっている。しかし、それは、いわばレイネ・モスコミュールという名前が、界隈でセンセーショナルに扱われているからだ。いい意味で注目を浴びているとは、どうしても言えない状況なのである。

 未だに事務所の不祥事疑惑について懐疑的な層もいる。一時期界隈を騒がせていたコウガくんとの交際匂わせメンスタ投稿の件についても、あれはレイネのリア垢だと信じて疑わないアンチもいる。一期生コラボで弁明した結婚疑惑についても、『自分は騙されない』と強硬に叩き続けている反転リアコ勢もいる。

 そう思うと、同接が増えていくのを、まるで自分に向けられる銃口が増えていくようにしか考えられなくなるのだ。どんなにモデレーターに頑張ってもらっても、コメント欄はネットの治安の悪い部分の見本市のようになり、純粋に配信を楽しみに来てくれたリスナーだっているだろうに、むしろ彼らの方の肩身が狭くなっていっている。

 こんなこと始めないほうが良かったのではないか。ここ数日、何度も頭に過った考えだ。

 そして、弱気になるたびに、コウガくんのことを思い出した。最後までやりきった暁には、きっと、彼なら、カッコ良かったと言ってくれると信じて、どうにか踏ん張ることが出来た。

「だからさ、カイくんだけは、信じてくれよ。俺を、助けると、思ってさあ……ギリギリ、だったりするんだ、実は……っ あは、はははっ、悪い、ダサいな、俺……自分で決めたことなのにさ……」

 視界がぼやける。こんな情けない顔を見せるために会いに来たわけじゃないのに。どうにも決まりが悪くなって、俺は一目散にコウガくんの横を通り抜けてエレベーターのボタンを連打した。そして、壁に手を付いて、大きく息を吐く。面白いくらい震えていて、余計笑いが出た。

 ポン、と音がして、エレベーターの扉がおもむろに開く。同時、大理石をタンと蹴る音とともに、背後から大きな体が優しく体当たりしてきた。俺はその衝撃のままエレベーターの内部に足を踏み入れ、クルリと身体を翻した。

 コウガくんは、まるで俺に覆いかぶさるように、きつく俺の体を抱きしめた。エレベーターの中も監視カメラあるんだけどな、などと無粋なことを思いつつ、たまらない多幸感が全身を駆け巡り、ホウとため息を吐いた。

「いいよ、逃げてもいいよ……もう、いいじゃん。ナガトさん頑張ったよ。こういう時は全部投げ出して一緒に温泉行こうって、約束したし……毎日配信やめて何か言う奴なんか、レイネが何やっても文句付けてくるんだよ、そんな連中の言うこと真に受けなくてもいいって……! ごめん、マジで、ごめん……オレ、自分のことばっか……なんでナガトさんこんなになるまで頑張ってるのに、オレらのレイネがあんな滅茶苦茶なこと言われなくちゃいけねえんだよマジで……っ」

「うん……分かってたよ、きみが俺の心配してくれてることくらい。なのに、あんなキツい言い方して、電話も切っちまって、ごめんな。駄目だな、ちゃんと自分のことも大事にしないと……きみのことまで大事に出来なくなっちまう」

 コウガくんが息を飲んだのが分かった。強張っていた体が、みるみる脱力していく。ちょうど部屋のある階に到着したので、一度彼から離れて、ポンポンと背中を叩いて先に出るよう促した。コウガくんは呆然とした顔で頷き、トボトボと歩き出した。

 ドアノブにキーを翳して解錠。慣れ親しんだ室内に途端、とてつもない空腹感とムラつきが襲い掛かって来る。それまでの眠気とも相まってか、一瞬でキャパオーバーを起こし、俺は衝動の赴くままコウガくんに飛び掛かって壁に押し付け、深々とキスをかました。

 ああ、人のこと言えない。忙しさから一瞬離れた途端、本能が彼に抱かれたくて仕方ないと、脳みそを直接ブン殴ってくるみたいに訴えかけてくる。

 コウガくんはウンウンと不服そうに唸りながらしばらく俺のされるがまま舌を絡めてきたが、一度離れて息を整え、ふたたび噛みつこうとすると、自分の口元を押さえて首を横に振った。俺はあんまりにそれが信じられなくて、さては口臭ヤバいか、と冷や汗をかいた。あの時ヤケクソになって八女川に煙草を貰ったことを壮絶に後悔した。

 しかし、太ももに当たる固い感触に気がつき、ふとそちらを見ると、コウガくんのソレがしっかり存在感を主張していた。なんだ、興奮してるならいいじゃないか。舌なめずりしながらそのまましゃがみこみ、スラックスのボタンを外して、かすかに香るコウガくんの匂いを堪能しながら、スライダーを食み、ファスナーを下ろした。

「待って待って待って待って!! ナガトさん、ストップ、ストップ!!!!」

「あ? なんで」

 興奮して口角が上がるのをそのままに、俺はパンツ越しの硬く熱い感触に頬ずりしながら、妙に慌てているらしいコウガくんを見上げた。顔が真っ赤だ。久々に見ると、やっぱりたまらなく可愛い。

「おっ、襲っちゃう、襲っちゃうから、タンマ、ナガトさん疲れてるんだよ……!? もう今日配信しないの!?」

「するに決まってるけど……一発ヤるくらいならよくね?」

「我慢できないから!! 一回じゃ我慢できない!! 絶対潰すから!! やめて!! というかヤるくらいなら一回休んで!! ナガトさん今ぜったいそれどころじゃない!! 疲れすぎて頭おかしくなってる!!」

「そりゃまあ、3大欲求が同時に押し寄せて理性がぶっ壊れてる自覚ならあるが……3つのうち2つを満たしてくれる相手が目の前にいるんだぜ? なあ、俺を助けると思って……」

「わかった、じゃあ一回一緒にお風呂入ろうか!! その後に一回シよう!? ね!?」

「あ~……それもそう、か……」

 頭がおかしくなっていた俺は簡単に丸め込まれた。そして、服も脱がしてもらい、身体も洗ってもらい……つまり完全介護を受け、頑張ったね、えらいよ、大好きだよ、なんて優しく声を掛けられている間にトロトロ意識を失っていた。

 2時間後、コウガくんに抱きしめられながら、夢みたいにスッキリと目覚めた俺は、あんまりの醜態にいっそ殺してくれと思いながら、すごすごと配信へ向かったのだった。
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