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第二十五話
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どんよりと重い空気がタクシーの車内を満たす。
少し連絡を返したいから、と断りを入れられ、勿論、と頷いてみせる。沙門くんは申し訳なさそうにしつつ、ポケットからスマホを取り出し、操作し始めた。
「……あ、ごめん、ナガトさん。僕ちょっと、これから急遽自宅にいったん戻らないといけない。調査を依頼してることがあってさ」
「調査ですか、それは……わかりました」
「本当申し訳ない。もうこんな状況だし、カイには悪いけど、アイツの住所、この画面で見せるね。メモ取ってもらえると……あれ?」
急に黙りこみ、目を細めつつ画面を凝視する沙門くん。ややエッジの利いた声で、あー、と言いつつ、ぎこちなく笑いながら画面を見せてくる。カイ、とタグ付けされたピンが示しているのは……。
「俺の家、ですね」
「うん……アイツ、家に帰らずナガトさんちに直行したっぽい……」
「手間が省けた……?」
「そう、ね。それじゃあ、ちょっと、カイのことはお任せします。アイツの家はまた今度」
「分かりました」
そんなことで、いつの間にか指定した場所に到着していたタクシーから降り、沙門くんを見送って、すぐさま小走り。ガチャガチャと落ち着きなくオートロックの操作をして、エレベーターのボタンを連打する。
玄関に到着したころには、すっかり息が上がっていた。財布からカードキーを取り出して、解錠音が鳴るが早いか、ドアノブを引く。
コウガくんは、彼のお気に入りの、リビングのソファで、肩身が狭そうに座り、何をするでもなく俯いていた。腕には沙門くんのぬいとレイネのぬいを抱きしめ、不安定な呼吸を繰り返している。
俺は何も言わず、彼の隣に座り、肩を抱いて腕をゆっくり撫でた。この期に及んで、泣くことすらできていないのが、いっそう痛ましかった。
「殴んないの、オレのこと」
「だって、理由がない」
「浮気……」
「浮気だったのか、あれ。あの人のこと好きだったりするのか」
「顔合わせるだけで、毎回腹痛くなるし、動悸する」
「つまり無理ってことだ」
コウガくんはスンと鼻を鳴らし、あどけなく頷いた。そして、ゆっくりと立ち上がり、机の上にぬいをそっと置いてから、倒れ込むように俺を押し倒してきた。
そしてそのままキスしようと迫ってきたが、俺は彼の口元に手のひらを差し入れ、ぐい、と押し返した。今はそういうタイミングじゃない。
「ナガトさん……」
「今は違う。まずは、どうしてそんな無理なことを拒絶できずにいるのか教えてくれ」
「もうそのことは考えたくない。せっかくナガトさんと会えたのに、もう、これっきりかもしれないのに、あの人のことも、全部、思い出したくない」
「これっきり? どうして」
「オレ、あの人と、ケッコンとか、しないといけない、らしくて」
みるみる、しゃくりあげて、言葉を詰まらせ始めるコウガくん。その瞳には、涙のかわりに、壮絶な無常感と絶望感が渦巻いていた。俺は思わず彼の頬を撫で、彼の乾燥した涙袋を親指でなぞった。
「しないといけない、か。結婚はしたくてするものだと思ってたけどな」
「したく、ない……っ、オレは、ナガトさんと、ずっと一緒に……ずっと……! でも、オレ、どうすれば」
「カイくん。俺はね、彼女ときみが話してるところを見て、こんなことなら、俺の方がずっときみのことを幸せにできる、と思った。そう思ったからには、きみの手をここで離して、後悔するわけにはいかない。君には、幸せでいてもらわないと困るんだ」
彼の後頭部と、肩に腕を回し、抱き寄せる。そのまま、俺の肩口でフウフウと浅く息をする彼の頭を撫で、頬ずりした。ぐったりとした体だ。この数日間、どれほどキツい思いをしたことだろう。心を踏みつけにされ続けて、荒らされて、怒ることも許されずに、ただ甘んじて受け入れ続けることしか出来なかったなんて。
コウガくんは、やがて決壊するように、ゆっくり、しかしてすべてを打ち明けてくれた。
「親父の会社が最近、EMPに協賛してるゲーミングPCのブランドを運営してる企業を買収したらしくて。跡取りの上の兄貴がその部門の責任者なんだけどさ……その兄貴が急に家に押しかけてきて、EMPやめて引退しろ、でないとチームの協賛をやめさせる、とか言ってきて」
「はぁ!?!? なんだそれ、荒唐無稽すぎる!」
「なんか……来期かその次で、次期取締役を決める選挙? みたいなのがあるらしくて、兄貴の他に、もう一人、親父のお気に入りの重役も立候補したんだって。その人、実績も、社内からの信頼もダンチで、支持が傾いてる、とかで」
俺はそこまで聞いた時点である程度話の輪郭が掴めたような気がして、重い重いため息が出た。なるほど、やはりろくでもない案件だったか。
「それでさ、社内で発言力がある他の重役の人に支持を貰うために仲良くなったら、その人の娘さんが、ネットの配信者に恋して結婚しようとしない、なんて愚痴をね、聞かされたって。そのネットの配信者が、オレだった。兄貴に言われたんだよ。ずっとオレは役立たずで、生きてる意味もない恥さらしだったんだから、少しくらい家族の役に立て、って」
つまり、コウガくんの兄が、取締役の選任のため、重役の支持を必要としているから、コウガくんのリアコだった重役の娘と彼を無理やり結婚させようとしているということだ。そうしなければ、所属チームの協賛を取り下げる、などと脅して。
こんなことが許されていい筈がないだろう。身内とは言え相手は尊厳ある他者であるという意識が全くもって存在しない。
「なんで、引退までさせられるんだ」
「あの人……重役の娘、ルリさんって言うんだけど、結婚したら自分だけのものになってもらわないと困るんだって。ネットで活動してたら、ずっとガチ恋に愛想をばら撒かないといけないからって」
俺はゆっくりと息を吸った。初めて、自分の心の中に、殺意が揺らいだ瞬間だった。誰がガチ恋に愛想バラ撒いてるって? いつコウガくんがそんなことをした。エアプにもほどがあるだろう。
なるほど、どうやら、ルリとやらも、コウガくんの兄とやらも、何も分かっていないらしい。コウガくんが一体どれだけの人に愛されているのか。
いったい、どんな人間が、彼の引退を惜しむのか。俺が、どれだけ、彼を愛しているのか。
「カイくん、俺たちそろそろ同棲しようか。せっかくだし、今からでも」
「……え?」
「君を苛む最悪な人たちは、この家のことを知らないだろ? フフ、そう、知らないんだよ。君の恋人が、いったいどんな人間かなんてさ」
「ナガトさん、何言ってんの?」
「実はね、カイくん。俺、そういう手合いとの戦い方、ちょっと知ってるんだ。ところで教えてほしいんだけど、きみのお父さんの会社、名前は何ていうのかな。上場してる? まあ知名度のあるブランド抱えた企業を買収できるくらいだからね」
コウガくんは目を白黒させ、意味が分からないものを見るような目で俺を見つめた。たまらなく愛おしくて、思わず体を起こし、軽くキスをした。
「あ……っと、株式会社モトサトホールディングス」
笑いが出た。ああ、そうか。まさか、わざわざ買う必要すらないなんて。
よかった、俺、これなら、コウガくんのこと助けられる。俺だけでは足りないかもしれないが、沙門くんなら絶対に協力してくれるだろうし。
そもそも、コウガくんに引退してほしくないファンは、少なくとも潜在的に100万人以上存在するのだ。その中を探せばきっと、心強い一票になってくれる人だって見つかるだろう。
そもそも、はなからコウガくんの兄とやらは社内政治においても一歩遅れているそうじゃないか。弟の影響力を侮り、簡単に引退しろなんて言ってのける時点で、先見の明が不可欠な企業経営などハナから向いていない。
「大丈夫だよ、カイくん。俺が、きっと、きみのちょっと頭の固いお兄さんのこと、説得してみせるから。沙門くんだって力を貸してくれるし。何も心配いらないよ」
「なに……? どういうこと……? 逆に怖いって……」
「じゃあ、キスするとかどう? 安心できるかも」
「いや、もう、分からん分からん」
「しないの?」
「するけど」
釈然としない顔ではあったが、コウガくんは素直に俺の唇に自分のを合わせ、ギュウと俺の体を抱きしめた。理解しきれなくとも、それでも俺の言葉を信じてくれる彼が、たまらなく愛おしかった。
「……あ、そういえば。カイくん、レイネのことは知ってる? 大炎上してるんだけど」
「ああ、あれ……まあ普通にメンタル追い打ちかけられたけどね。サモのとこはまだしも、俺んトコのファン名乗ってる連中までモッさんのこと叩いててさ……あの瞬間心中まで考えた」
「その時点で頼むからうちに来てほしかったなァ……」
「だって顔見たら心中しようって絶対言っちまうって思ったんだよ……ナガトさんの方も大変なのは分かりきってたし、それどころじゃねえよって。実際のところ、なんなのあれ」
「まあ、公式が出した声明通り、でっち上げだ。ずっと黙ってたんだが、俺、実はTOF設立メンバーで、もともと裏方作業を請け負う社員として働いてたんだよ。それが、本来レイネをやるはずだった女の子が直前で音信不通になって、当時事情を知ってる社員が俺しかいなくて、お鉢が回ってきた……まあつまりは代役だったんだ」
「だっ、代役!? 社員が!? もっとどうにかなんなかった!?」
「駆け出しのV事務所なんてそんなもんなんだよ……とにかく初っ端でケチつけるよりは出だしだけでもスムーズにした方がいいってことになり、これっきりだと思って初配信に挑んだらバズよ。人生何が起こるか分からんもんだろ」
絵に描いたような宇宙猫顔である。まさかそんなバカみたいなことがきっかけで、こんなケッタイな状況が生まれたなんて考えられないだろう。俺もそう思う。
「あの、まさか、告発した被害女性って」
「ああ、そう。直前で音信不通になった女の子。こっちにはしっかり契約不履行の証拠あるから、落とし前つけてもらうよ」
「ヤバすぎ……何考えてんだよいったい……」
人間とは、衝動的に、考えもつかないような突拍子もない行動に出ることがある。そういう時は大抵、良くも悪くも、とてつもないパワーと影響力がある。ゆえにこそ始末に負えない。
コウガくんと、示し合わせるでもなく、顔を見合わせ、苦笑しあう。これからどうなってしまうのか、全く予想もできないけれど。
まあ、どんなことになったにしろ、お互い信じあっていれば、それだけでいいかもな、なんて思った。
ふと、携帯が着信を告げ、けたたましく震え始めた。八女川からではない、ディスコからの着信音である。
沙門くんだ。これまたどうしたことだろう、と思い、あわててスピーカーにしながら応答する。
『どうもどうも、聞こえてます?』
「はい、どうされました?」
『今から、昔僕の所属してた事務所の不祥事告発した方の暴露系配信者のチャンネルで緊急配信あるんですけど……見てて気持ちいいものでもないので、簡潔に僕からどんな内容かお伝えしたいんですよ』
「……ほう、もしかして、レイネのことにかかわりが?」
『その通りです。というのも、僕、被害女性だっていう彼女の声と言うか、話し方になんだか聞き覚えがあって。二人とも、覚えてるかな、モッさんが休止するちょっと前くらいだと思うんだけど、ぶいみゅーで所属タレントが契約解除になったやつ』
ぶいみゅーといえば、女性V特化型の、業界3番手ほどに位置するアイドル系Vライバーグループだ。ゲーム配信はすれどFPSをガチガチにやる子はあまりおらず、おのずと絡んだことのある子もほんの一握り。
しかし、大手なだけあり、その契約解除の一件はそれなりに騒動になった覚えがある。確か、複数回にわたる契約違反、という発表だったはずだ。同所属タレントとのトラブルも頻繁にあり、配信でも名誉棄損に抵触しかねない発言が度々見られた、とかなんとか。
『多分ボイチェン使ってたんだろうけど、結構特徴的な話し方する子だったからすごい似てるなって思ったんだよ、その子。まあ、どうしてその子のことが印象に残ってたかって言うとさ……実は僕、特に悪質な誹謗中傷アカウントを何件か開示請求したことあったんだけど、その中にね、その子がいて……』
「もうダメだ、聞きたくなくなってきた。怖い話だろ、これ」
『それでなんか悪い予感してさ、契約時期とか色々調べてみたのね。ぶいみゅーの社員さんにも問い合わせして確認取って……そしたら、モッさんのデビューの直前あたりに、ぶいみゅーのオーディション受けて採用されてたってのが時系列として符合して。まあ、そのことを、個人情報に関わる詳細やらはボカした上で、暴露系の人にタレコミしましたよって話です」
「なぁるほどぉ~~~~おほほぉ~~~~……」
コウガくんはピャーと奇声を発しながら両腕を頭の後ろに投げ出し、ソファの背もたれから仰け反った。恐らく問い合わせしたのは沙門くんではなく弁護士のお母様なのだろう。そうでなければ個人情報を開示などしない筈だ。まあつまりは、同一人物であることが確定したということでもある。
「本当は自分がなるはずだったレイネが別人でデビューして人気になった上に、自分がぶいみゅーを契約解除になったから、その腹いせででっち上げの告発をしちゃったってことになるのかな……」
3人そろって、はかったように黙り込む。胃が重くて仕方なかった。きっとこの瞬間、全員が同じことを思ったことだろう。
ステーキを出すならもっと小分けにしてくれ、と。
少し連絡を返したいから、と断りを入れられ、勿論、と頷いてみせる。沙門くんは申し訳なさそうにしつつ、ポケットからスマホを取り出し、操作し始めた。
「……あ、ごめん、ナガトさん。僕ちょっと、これから急遽自宅にいったん戻らないといけない。調査を依頼してることがあってさ」
「調査ですか、それは……わかりました」
「本当申し訳ない。もうこんな状況だし、カイには悪いけど、アイツの住所、この画面で見せるね。メモ取ってもらえると……あれ?」
急に黙りこみ、目を細めつつ画面を凝視する沙門くん。ややエッジの利いた声で、あー、と言いつつ、ぎこちなく笑いながら画面を見せてくる。カイ、とタグ付けされたピンが示しているのは……。
「俺の家、ですね」
「うん……アイツ、家に帰らずナガトさんちに直行したっぽい……」
「手間が省けた……?」
「そう、ね。それじゃあ、ちょっと、カイのことはお任せします。アイツの家はまた今度」
「分かりました」
そんなことで、いつの間にか指定した場所に到着していたタクシーから降り、沙門くんを見送って、すぐさま小走り。ガチャガチャと落ち着きなくオートロックの操作をして、エレベーターのボタンを連打する。
玄関に到着したころには、すっかり息が上がっていた。財布からカードキーを取り出して、解錠音が鳴るが早いか、ドアノブを引く。
コウガくんは、彼のお気に入りの、リビングのソファで、肩身が狭そうに座り、何をするでもなく俯いていた。腕には沙門くんのぬいとレイネのぬいを抱きしめ、不安定な呼吸を繰り返している。
俺は何も言わず、彼の隣に座り、肩を抱いて腕をゆっくり撫でた。この期に及んで、泣くことすらできていないのが、いっそう痛ましかった。
「殴んないの、オレのこと」
「だって、理由がない」
「浮気……」
「浮気だったのか、あれ。あの人のこと好きだったりするのか」
「顔合わせるだけで、毎回腹痛くなるし、動悸する」
「つまり無理ってことだ」
コウガくんはスンと鼻を鳴らし、あどけなく頷いた。そして、ゆっくりと立ち上がり、机の上にぬいをそっと置いてから、倒れ込むように俺を押し倒してきた。
そしてそのままキスしようと迫ってきたが、俺は彼の口元に手のひらを差し入れ、ぐい、と押し返した。今はそういうタイミングじゃない。
「ナガトさん……」
「今は違う。まずは、どうしてそんな無理なことを拒絶できずにいるのか教えてくれ」
「もうそのことは考えたくない。せっかくナガトさんと会えたのに、もう、これっきりかもしれないのに、あの人のことも、全部、思い出したくない」
「これっきり? どうして」
「オレ、あの人と、ケッコンとか、しないといけない、らしくて」
みるみる、しゃくりあげて、言葉を詰まらせ始めるコウガくん。その瞳には、涙のかわりに、壮絶な無常感と絶望感が渦巻いていた。俺は思わず彼の頬を撫で、彼の乾燥した涙袋を親指でなぞった。
「しないといけない、か。結婚はしたくてするものだと思ってたけどな」
「したく、ない……っ、オレは、ナガトさんと、ずっと一緒に……ずっと……! でも、オレ、どうすれば」
「カイくん。俺はね、彼女ときみが話してるところを見て、こんなことなら、俺の方がずっときみのことを幸せにできる、と思った。そう思ったからには、きみの手をここで離して、後悔するわけにはいかない。君には、幸せでいてもらわないと困るんだ」
彼の後頭部と、肩に腕を回し、抱き寄せる。そのまま、俺の肩口でフウフウと浅く息をする彼の頭を撫で、頬ずりした。ぐったりとした体だ。この数日間、どれほどキツい思いをしたことだろう。心を踏みつけにされ続けて、荒らされて、怒ることも許されずに、ただ甘んじて受け入れ続けることしか出来なかったなんて。
コウガくんは、やがて決壊するように、ゆっくり、しかしてすべてを打ち明けてくれた。
「親父の会社が最近、EMPに協賛してるゲーミングPCのブランドを運営してる企業を買収したらしくて。跡取りの上の兄貴がその部門の責任者なんだけどさ……その兄貴が急に家に押しかけてきて、EMPやめて引退しろ、でないとチームの協賛をやめさせる、とか言ってきて」
「はぁ!?!? なんだそれ、荒唐無稽すぎる!」
「なんか……来期かその次で、次期取締役を決める選挙? みたいなのがあるらしくて、兄貴の他に、もう一人、親父のお気に入りの重役も立候補したんだって。その人、実績も、社内からの信頼もダンチで、支持が傾いてる、とかで」
俺はそこまで聞いた時点である程度話の輪郭が掴めたような気がして、重い重いため息が出た。なるほど、やはりろくでもない案件だったか。
「それでさ、社内で発言力がある他の重役の人に支持を貰うために仲良くなったら、その人の娘さんが、ネットの配信者に恋して結婚しようとしない、なんて愚痴をね、聞かされたって。そのネットの配信者が、オレだった。兄貴に言われたんだよ。ずっとオレは役立たずで、生きてる意味もない恥さらしだったんだから、少しくらい家族の役に立て、って」
つまり、コウガくんの兄が、取締役の選任のため、重役の支持を必要としているから、コウガくんのリアコだった重役の娘と彼を無理やり結婚させようとしているということだ。そうしなければ、所属チームの協賛を取り下げる、などと脅して。
こんなことが許されていい筈がないだろう。身内とは言え相手は尊厳ある他者であるという意識が全くもって存在しない。
「なんで、引退までさせられるんだ」
「あの人……重役の娘、ルリさんって言うんだけど、結婚したら自分だけのものになってもらわないと困るんだって。ネットで活動してたら、ずっとガチ恋に愛想をばら撒かないといけないからって」
俺はゆっくりと息を吸った。初めて、自分の心の中に、殺意が揺らいだ瞬間だった。誰がガチ恋に愛想バラ撒いてるって? いつコウガくんがそんなことをした。エアプにもほどがあるだろう。
なるほど、どうやら、ルリとやらも、コウガくんの兄とやらも、何も分かっていないらしい。コウガくんが一体どれだけの人に愛されているのか。
いったい、どんな人間が、彼の引退を惜しむのか。俺が、どれだけ、彼を愛しているのか。
「カイくん、俺たちそろそろ同棲しようか。せっかくだし、今からでも」
「……え?」
「君を苛む最悪な人たちは、この家のことを知らないだろ? フフ、そう、知らないんだよ。君の恋人が、いったいどんな人間かなんてさ」
「ナガトさん、何言ってんの?」
「実はね、カイくん。俺、そういう手合いとの戦い方、ちょっと知ってるんだ。ところで教えてほしいんだけど、きみのお父さんの会社、名前は何ていうのかな。上場してる? まあ知名度のあるブランド抱えた企業を買収できるくらいだからね」
コウガくんは目を白黒させ、意味が分からないものを見るような目で俺を見つめた。たまらなく愛おしくて、思わず体を起こし、軽くキスをした。
「あ……っと、株式会社モトサトホールディングス」
笑いが出た。ああ、そうか。まさか、わざわざ買う必要すらないなんて。
よかった、俺、これなら、コウガくんのこと助けられる。俺だけでは足りないかもしれないが、沙門くんなら絶対に協力してくれるだろうし。
そもそも、コウガくんに引退してほしくないファンは、少なくとも潜在的に100万人以上存在するのだ。その中を探せばきっと、心強い一票になってくれる人だって見つかるだろう。
そもそも、はなからコウガくんの兄とやらは社内政治においても一歩遅れているそうじゃないか。弟の影響力を侮り、簡単に引退しろなんて言ってのける時点で、先見の明が不可欠な企業経営などハナから向いていない。
「大丈夫だよ、カイくん。俺が、きっと、きみのちょっと頭の固いお兄さんのこと、説得してみせるから。沙門くんだって力を貸してくれるし。何も心配いらないよ」
「なに……? どういうこと……? 逆に怖いって……」
「じゃあ、キスするとかどう? 安心できるかも」
「いや、もう、分からん分からん」
「しないの?」
「するけど」
釈然としない顔ではあったが、コウガくんは素直に俺の唇に自分のを合わせ、ギュウと俺の体を抱きしめた。理解しきれなくとも、それでも俺の言葉を信じてくれる彼が、たまらなく愛おしかった。
「……あ、そういえば。カイくん、レイネのことは知ってる? 大炎上してるんだけど」
「ああ、あれ……まあ普通にメンタル追い打ちかけられたけどね。サモのとこはまだしも、俺んトコのファン名乗ってる連中までモッさんのこと叩いててさ……あの瞬間心中まで考えた」
「その時点で頼むからうちに来てほしかったなァ……」
「だって顔見たら心中しようって絶対言っちまうって思ったんだよ……ナガトさんの方も大変なのは分かりきってたし、それどころじゃねえよって。実際のところ、なんなのあれ」
「まあ、公式が出した声明通り、でっち上げだ。ずっと黙ってたんだが、俺、実はTOF設立メンバーで、もともと裏方作業を請け負う社員として働いてたんだよ。それが、本来レイネをやるはずだった女の子が直前で音信不通になって、当時事情を知ってる社員が俺しかいなくて、お鉢が回ってきた……まあつまりは代役だったんだ」
「だっ、代役!? 社員が!? もっとどうにかなんなかった!?」
「駆け出しのV事務所なんてそんなもんなんだよ……とにかく初っ端でケチつけるよりは出だしだけでもスムーズにした方がいいってことになり、これっきりだと思って初配信に挑んだらバズよ。人生何が起こるか分からんもんだろ」
絵に描いたような宇宙猫顔である。まさかそんなバカみたいなことがきっかけで、こんなケッタイな状況が生まれたなんて考えられないだろう。俺もそう思う。
「あの、まさか、告発した被害女性って」
「ああ、そう。直前で音信不通になった女の子。こっちにはしっかり契約不履行の証拠あるから、落とし前つけてもらうよ」
「ヤバすぎ……何考えてんだよいったい……」
人間とは、衝動的に、考えもつかないような突拍子もない行動に出ることがある。そういう時は大抵、良くも悪くも、とてつもないパワーと影響力がある。ゆえにこそ始末に負えない。
コウガくんと、示し合わせるでもなく、顔を見合わせ、苦笑しあう。これからどうなってしまうのか、全く予想もできないけれど。
まあ、どんなことになったにしろ、お互い信じあっていれば、それだけでいいかもな、なんて思った。
ふと、携帯が着信を告げ、けたたましく震え始めた。八女川からではない、ディスコからの着信音である。
沙門くんだ。これまたどうしたことだろう、と思い、あわててスピーカーにしながら応答する。
『どうもどうも、聞こえてます?』
「はい、どうされました?」
『今から、昔僕の所属してた事務所の不祥事告発した方の暴露系配信者のチャンネルで緊急配信あるんですけど……見てて気持ちいいものでもないので、簡潔に僕からどんな内容かお伝えしたいんですよ』
「……ほう、もしかして、レイネのことにかかわりが?」
『その通りです。というのも、僕、被害女性だっていう彼女の声と言うか、話し方になんだか聞き覚えがあって。二人とも、覚えてるかな、モッさんが休止するちょっと前くらいだと思うんだけど、ぶいみゅーで所属タレントが契約解除になったやつ』
ぶいみゅーといえば、女性V特化型の、業界3番手ほどに位置するアイドル系Vライバーグループだ。ゲーム配信はすれどFPSをガチガチにやる子はあまりおらず、おのずと絡んだことのある子もほんの一握り。
しかし、大手なだけあり、その契約解除の一件はそれなりに騒動になった覚えがある。確か、複数回にわたる契約違反、という発表だったはずだ。同所属タレントとのトラブルも頻繁にあり、配信でも名誉棄損に抵触しかねない発言が度々見られた、とかなんとか。
『多分ボイチェン使ってたんだろうけど、結構特徴的な話し方する子だったからすごい似てるなって思ったんだよ、その子。まあ、どうしてその子のことが印象に残ってたかって言うとさ……実は僕、特に悪質な誹謗中傷アカウントを何件か開示請求したことあったんだけど、その中にね、その子がいて……』
「もうダメだ、聞きたくなくなってきた。怖い話だろ、これ」
『それでなんか悪い予感してさ、契約時期とか色々調べてみたのね。ぶいみゅーの社員さんにも問い合わせして確認取って……そしたら、モッさんのデビューの直前あたりに、ぶいみゅーのオーディション受けて採用されてたってのが時系列として符合して。まあ、そのことを、個人情報に関わる詳細やらはボカした上で、暴露系の人にタレコミしましたよって話です」
「なぁるほどぉ~~~~おほほぉ~~~~……」
コウガくんはピャーと奇声を発しながら両腕を頭の後ろに投げ出し、ソファの背もたれから仰け反った。恐らく問い合わせしたのは沙門くんではなく弁護士のお母様なのだろう。そうでなければ個人情報を開示などしない筈だ。まあつまりは、同一人物であることが確定したということでもある。
「本当は自分がなるはずだったレイネが別人でデビューして人気になった上に、自分がぶいみゅーを契約解除になったから、その腹いせででっち上げの告発をしちゃったってことになるのかな……」
3人そろって、はかったように黙り込む。胃が重くて仕方なかった。きっとこの瞬間、全員が同じことを思ったことだろう。
ステーキを出すならもっと小分けにしてくれ、と。
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