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第十三話

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 頭の痛みで目が覚める。二日酔いになるほどの量を飲んだつもりは無かったが、飲酒直後に運動したことと、その後のあれこれのせいで、変にアルコールが残っている感じがする。

 項をさすりながらひとつあくび、ドブのような口臭に眉をひそめる。ようやく立ち上がって、洗面台へ向かおうとしたところ、ソファに寝かせたコウガくんの寝顔が目に入った。

 極めて安らかで、天使のような寝顔だ。しかし、その手に握りしめているのは昨日使ったレコーダーで、そこに繋がったイヤホンもまた、彼の耳に装着されている。

 一晩明けて、改めて思えば、昨日彼にされたことってなかなかヤバい。元をただせば俺の不用心と意識の低さが招いたことだが、パニックに陥っていたからと言って流されやすすぎるだろう、俺。あんまりである。

 これから、俺はどうするべきなのだろう。レイネが俺のものではない以上、俺の個人的な願望で活動を投げ出すわけにはいかないし、何より、コウガくんからの「辞めてくれるな」という言葉を反故にしたら、今度こそどんなことが起こるか分からない。

 だからと言って、今まで通り彼と接することができるかと言えば、正直なところそんな自信は皆無に等しい。

 レイネという存在に欲情するならばまだ、個人の自由として、俺の知らないところで勝手にやっていてくれる限り、何も言うまい。

 しかし、昨日のアレは、完全にその範疇を超えていた。酒の勢いもあったかもしれないが、彼は俺にオーラルセックスを要求し、俺もそれに応じてしまったのだ。

 経験豊富な彼なら割り切れるのかもしれないが、芸大在学中に一風変わった女性とやや様子のおかしい男女交際をしたことくらいしか碌な恋愛経験のない俺にそんな器用なことができるとはとても思えない。

 ああ、そうだ、何より。俺は、わからなくなってしまった。いや、元々、俺には何も分かっていなかったのか。

 コウガくんに詰め寄られたことで、俺が最初からずっと抱えていた歪みを、ようやく自覚した、というのが正しいのだろう。

 俺とレイネの間を隔てるものが、自分でも曖昧になっていたのだ。特に、沙門くんや、コウガくんといった、配信活動を始めてから出会った人と関係を築いたあたりから、歯車が狂い出した。

 俺は、レイネのことを、当たり前のように私物化していた。まるで、彼らと仲良くなったのが自分であるかのように錯覚し、分別ができなくなっていたのだ。

 この、境界が曖昧になっている状況を放置すれば、きっと俺は、さらに、レイネ・モスコミュールという存在に侵食して、食い潰していくような気がする。

 自らの浅ましい欲望が、リスナーの皆に愛されるレイネを、変質させてしまう。それは、Vを愛するものとして、あってはならないことだ。そもそも、レイネは俺の分身として生まれた存在ではないのだから。

 しばらく、心の整理が出来るまで、活動を休止させてもらおうか。それが一番いい気がする。

 休止している間で、運営のサポートに徹しつつ、コウガくんとの距離感や関係性についても、あらためて模索していこう。ちょうど4期生のデビューも控えているし、裏方仕事ならいくらでもあるはずだ。

 今日はこれから久々に出社しよう。八女川には直接事情を伝えて、便宜を図ってもらうのだ。果たして、怒られるか、呆れられるか。

 歯を磨き、顔を洗って髭を剃る。あとでシャワーも浴びよう。家を出る前にコウガくんには帰ってもらわねば。

 思い切って遮光カーテンを開けた。嫌味なくらい清々しい朝日が差し込み、途端、眠りこけているコウガくんが身じろぎし始めた。

「眩しいって……」

「朝だからね。そろそろ起きれる?」

「やだ……なんか全身痛ぇし……」

「まだ寝たいならご自宅のベッドでどうぞ。タクシー呼ぶよ」

「まだ帰らない……」

「なんでや」

 コウガくんは俺の疑問をすっかり無視して猫のように伸びた。随分なくつろぎようだ。この家に来るの2回目だよね? 図太すぎない?

「腹減ったぁ……」

「ほら、腹減ったんでしょ? 家帰ってウーバーするなり途中でコンビニ寄るなりしなさいよ」

「な~、牛丼食べ行かね?」

「無理無理、重い」

「弱っわ……」

「アラサーなんだよこっちは。酒キメすぎると後遺症あるの」

「えぇ、だってさぁ、オレひとりじゃ注文出来んし……店員とか怖くね?」

「……マジかぁ」

 コウガくんはウンウンと濁音混じりに唸り、実に気だるげな様子で起き上がって、座り直した。机の上に置いてあった自身のスマホを確認し、すぐにポケットに仕舞う。7時とか深夜じゃん、なんて、ストリーマーらしい一言を呟きながら。

 おもむろに立ち上がり、ムフ、と息を吐く。ゴリゴリと首を鳴らしつつ、か細い声で、帰るわ、と呟いた。俺はその手に件のボイスレコーダーが握りしめられているのを見逃さなかった。

「待て。動くな、手を上げろ」

「は? なに、急に」

「そのボイレコをどうするつもりだ」

「え、何言ってんの? 持って帰るに決まってんじゃん。そういう約束だったっしょ」

「駄目です。俺の管理外で万が一流出したら大問題なので」

「オレが流出させるって言いたいのかよ……!? そんな信用ない!?」

「こればっかりは、君がどうするか、じゃなくて、俺がどうするべきか、って話。相手が誰とか関係ない。レイネのブランディングのためだ」

 コウガくんは黙りこんだ。いかにも納得いかないといったような顔だ。イケメンの不機嫌顔めちゃくちゃ怖い。でもこればっかりはどう脅されても引けない。あんな音声を本人以外の手に委ねるなんて、リスク管理を思うと怖気がする。誰が言ってるんだという話だが。

「でもさ、オレはナガトさんのセンシティブボイスを要求して、これを手に入れたんだよ? 順当に、このボイレコの所有権はオレにあると思うんだけど」

「音声の所有権は君にあるとも。だが、このボイレコの所有者は俺だ。音声は譲り渡すという形で合意したが、このボイレコを譲渡するとは一言も言っていない」

「じゃあオレはこの音声をどうやって使えばいいんだよ! こんなの詐欺だ!」

「持ち出しさえしなければいいんだよ! 好きな時、ここに、聞きに来ればいいだろ!!」

 コウガくんはヒュッと息を飲んだ。しばらく目を泳がせ、パチパチと瞬きを繰り返す。挙動不審である。急に威勢をなくしてどうした。

「あー……あの、それ自分ヤバいこと言ってるって自覚無い?」

「はい!?」

「ムラついたらここに来てシコれってことだよね、それ」

「あ゛ッ!? う、わ…………そういうことに、なる、か。……うん!! そういうことだ!!」

「ヤバ~~……」

 五月蠅いよ。もうこの際、その音源が俺の手元から離れないなら何でもいい。これ以上失態を犯すわけにはいかないんだ。レイネを守るためなら何だってやってやる。

「……まあ、じゃあ、また、来るわ」

「事前に連絡だけ頼む」

「え~、気まず……」

 そんなのもう今更だろ。俺はもう生きてることすら気まずいよ。

 死んだら死んだで両親にどの面下げて会えばいいか分からないし。お父さん、お母さん、俺は貴方たちが遺してくれた家でのうのうと生きながらえながら女の子の声を出して全世界に生き恥を発信して自分の声で年下のイケメンを発情させています、なんて。草葉の影で泣かせるどころの話じゃないだろ。

 死んでも親に合わせる顔がないから生き恥晒し続けるしかないなんて、俺はいったいどこで人生の分岐を間違えたんだ。

 さて、タクシーを呼んでコウガくんをようやく帰らせ、俺はたちまちシャワーを浴びて、久々のカッターシャツとスラックスを身に纏い、差し入れを調達してからTOF事務所へ出社した。

 こうして顔を合わせるのも久々だと思いつつ、挨拶もそこそこに、空いていた防音スタジオへ八女川を連れ込む。

「悪い、ちょっとのっぴきならない事情があって、しばらくレイネの活動を休ませてもらいたい」

「……マジか。体調崩した?」

「あ~……ちょっと、人間関係でトラブルが発生して。この後存分に殴ってもらって構わないんだが、俺の不注意でEMPのコウガ氏に地声バレした」

「うわ~~~~~~~~、いつかやるとは思ってたがついにか……お相手の反応は?」

「……まあ、ある程度理解は示してもらえた。しかしなあ、厄介なことに、彼自身、ファンとしてレイネを追っかけてた部分があるらしく、互いにそこら辺の折り合いがまだ付いていない状況だ。ついでに俺、演者としてレイネと向き合う姿勢っていうのか? それも見失っちまってさ。一度、自分とレイネを切り離す時間が欲しい。このままだと、もっと取り返しのつかないことを起こしそうだ」

 八女川はしばらく逡巡したようだったが、やがて、どこか申し訳なさげに唇を噛み、わかった、と頷いてくれた。途端に、首の後ろが重たくなるような後ろめたさが去来する。これでは、思いっきり罵られた方がずっとマシだった。

「……そもそも、お前はやりたくてレイネの演者やってるわけじゃないのにな。俺は、TOFは、お前の善意と責任感に甘えることで、ここまで大きくなったんだ。これまで、さんざん苦労を掛けて悪かった。一度、気が済むまでゆっくり休んでくれ」

「いや……こっちこそ、悪いな……休止期間中は、映像制作だとか、公式切り抜きの編集だとか、在宅でよければ、こっちにもじゃんじゃん回してくれ。何もやらずに給料もらうのも気まずいし」

「ああ、それは、助かるわ。最近4期生のデビュー準備で、それ以外の進捗、遅れてるところ結構あるんだよ。公式番組の企画とかも、やることは決まっただけで、それ以降の構想は全然進んでないし……いくらスタッフ増やしても手が足りないんだって」

 ポンポンと労わるように肩を叩かれ、二人して防音室から出る。その後の手筈はひとまず通話で追々ということになり、俺もそのまま帰途についた。

 何せ5分も無かっただろう防音室での密談の最中も、八女川の仕事用のスマホがひっきりなしに鳴りまくっていたのだ。切実な顔で言う「今度飲みに付き合ってくれ」という言葉に全てが籠っていて、頭が下がる思いがやまなかった。

 その日は隙間を見つけるごとに電話をかけてきた八女川と共に協議を重ね、3日後には公式ツブックスで休止の声明文を出すことになった。動画の出演や企業とのコラボは行うものの、それ以外の配信活動は無期限で休止するという内容だ。

 予定していたコラボにキャンセルの旨と謝罪回りを済ませるころには、すっかり日付が回っていた。途轍もない疲労感。何もかもをかなぐり捨てて今すぐベッドに飛び込みたい衝動に駆られた。何せ前夜が酒に酔ったまま床で気絶したものだから、殆ど寝てないようなものなのだ。

 作業スペースから寝室に向かう途中のリビングにて、ふと、ボイスレコーダーが机の上に鎮座しているのが目に入った。明日になるまではもう、何も考えたくないと、心の底からのため息が出たのだった。
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