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第九話

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 ジャリ、ジャリ、そんな、骨と金属が擦れるような音で、ハッと気が付く。

 途端、私は獣の断末魔のような金切り声を上げた。四肢は動かない。動かすものが、そもそもない。

 肉が薄く付着した骨が、剥き出しになっていた。かつて私の筋肉として役目を果たしていただろう肉片が、そこらに夥しく飛び散っている。

 一面の赤。はたまた見上げれば、ふたつの凍えきった赤。荒んだ絶望の半透明。

「お前は今どこにいる、言え」

 ザシュ、ドシュ、何度も何度もはらわたに刃を突き刺しながら、うわごとのように唱える。私が悲鳴以外を出せずにいれば、彼は私の臓器を握りつぶし、ぐちゃぐちゃにかき混ぜた。

 なおも、悲鳴は甲高く鳴り響いた。詰まった排水溝のように、聞くに堪えない音だった。

 拷問は、私の声が枯れ果てるまで続いた。

「どこだ、どこにいるんだ。返せ、俺の、ああ、俺、の……」

 真っ赤に染まった両手が、私の頬を包み込む。ひやりと、凍ったように冷たかった。

「まだ、返せ、ない……でも、いつか、必ず……すまない、ヴィド」

 息を飲む音が聞こえた。そうして、何かを叫び始めた。しかし、みるみる遠くなっていくその音が、何を訴えているかは、ついぞ分からなかった。

 またもや、ひやりと、冷たく湿った感触が、額から、顔全体を撫でる。

「ヴィ、ド……?」

 ゆっくりと目を開けた。いやに鈍重な瞼をそれでもこじ開けて、何度か瞬きを繰り返す。耳鳴りと、それに呼応するような激しい頭痛で、目の奥がキリキリと痺れた。

「魔王様でなくて、申し訳ありません、クロウ師」

 平坦な声色が、ゆえにこそおどろおどろしい。一瞬でしくじったことを悟るには十分な迫力である。いっそのこと笑いが込み上げてくるので、私は力を振り絞って腹筋を強張らせるのに必死になった。

「お加減はいかがですか?」

「ヴィドに、拷問を、受けて……返せ、と……夢、だったか……」

「それは……干渉を受けたのかもしれませんね。近頃の不調とも何か関係があるやも」

「そう、だな……」

 そもそも魔族というものはそうそう夢など見ないのだ。それは堕天使も同様で、そもそもよほどの負傷さえしなければ睡眠すら必要としない種族なのである。

 立ち上がるのもやっとな高熱、意識の混濁、そして激しい頭痛。最たるものとして、原因不明の魔力暴走。

 セリス・エ・オレア教団の情報を手に入れてから苦節数か月、やっとの思いで教団が運営する互助施設に潜入することが出来た我々だったが、潜伏を始めて間もなく、3日前ほどから、私の体はこの不調に見舞われ始めた。

 一日のうちで問題なく魔力を行使できる時間は2時間ほど。それ以外は人間に擬態することすらままならないほどに魔力の制御を失い、それに伴って、上記の症状が現れはじめるのだ。

 レギイには、身寄りもなく、病弱な弟を抱えて困窮していたところを救われ、教団に恩義を感じている健気な青年という設定で周囲の同情を買い、順調に地盤を固めていってもらいつつ、教団の内情を探ってもらっている。

 今日は何やら教団本部から教誨師が派遣され、施設長の選りすぐった者へ講義するとのことで、そちらに参加させていたのだが、何か成果はあっただろうか。

「クロウ師は、離反後に立ち上げた教団で、魔王信仰を説いていたのですよね」

「ああ。厳密にはその派生だがな……少ない戦力で畏怖と狂気をヴィドの名のもとに効率よく生産しようと思ったら、人間の信仰心を利用するのが手っ取り早かったんだ」

 レギイは色々と言いたげな苦み走った顔をした。離反してなおそんな活動に精を出していたなんて未練がましいと思うだろう。私もそう思う。

「では、貴方の死後、教団の在り方が変わったのでしょう。現在の教団の崇拝対象は魔王ではなく、迷宮になっていました」

「……迷宮ダンジョン?」

 レギイは何か確信を持ったような面持ちで頷く。迷宮と言えば、人間の冒険者たちが寄ってたかって魔獣の皮や胆石などを収集しに入る狩場だ。人界にありながら、磁場が魔界のそれと似通っており、魔獣が繁栄しやすい環境で、薬剤や武器精製に用いる貴重な素材を手に入れるため、日夜魔獣狩りが行われている。

「もっと言えば、人界中の迷宮のどこかに隠されているという、7つの聖遺物への崇拝です。この世界はその7つの聖遺物によって均衡が守られており、迷宮とはその聖遺物を守るための聖域なのだと。教団は日夜、迷宮を踏み荒らさんとする悪魔の手先たちを滅ぼすために活動しているというのです」

「君は、その聖遺物とやらが、私の死体だと?」

「ええ、その方向性で探っていこうかと」

「そうか……これといった手掛かりもそれ以外にないからな。面倒をかけてすまない」

「とんでもございません。貴方に労わっていただけるというだけで、私は幸せです」

 そう言って立ち上がり、レギイは着替えを取ってくると言って部屋を出ていった。ゆっくりと息を吐く。彼の手前何とか取り繕ったが、やはり堪える。全身の血液がひとりでに暴れまわっているような気分だ。

 日に日に、謎は増えていくばかり。鼻の奥からタラリと流れ落ちてくる体液の色は赤。慣れないものだ。

 なにせ、魔族の血液の色は紫。天使には血が通っておらず、堕天使になってからは青だった。

 赤は人間の色だ。しかし、リコフォスを人間だと推定するには、この体は魔力を持ちすぎている。魔族からしても常軌を逸した量だ。現にこの体はそれを持て余している。その上、この生命体は、今まで何を糧にして生きてきたのかすら分からないのだ。

 謎はそれだけではない。殺せと命じた癖に、夢に這入ってきたヴィドは、返せ、どこにいる、と、うわごとのように繰り返していた。常軌を逸した執着心と孤独に冒された亡者のようなさまで、とても、リコフォスを殺すことを良しとするようには見えなかったのである。

 何より、レギイは、首無しの死体を集めて、どうやって私の新しい依代にしようと思っているのだろうか。私の首はヴィドに引き渡されて、滅茶苦茶にされたと、彼自身がそう言っていたじゃないか。

 ジットリと、まるで溶けるように、意識があやふやになっていく。考えなければならないことはまだ沢山あるのに、あれよあれよと悪夢へ誘われていく。

 このままではいけない。自らの運命を誰かに委ねて、それにしがみ付いて生きるなんて、あまりにリスクが高すぎる。

 とにかく、この魔力の暴走を何とかしなければ、話にならない。そもそも、もしこの状況でヴィドの配下から襲撃があればひとたまりもないだろう。ああ、どうすれば。

「クロウ師、戻りました……大丈夫ですか……!?」

「レ、ギイ……」

 方法があるとすれば、思いつく限りひとつだけ。おそらくレギイも分かっている。その上で、私が決断するのを待っているのだ。

 しかし、それを、ヴィドは良しとするだろうか。変えてしまうのは、私の体ではない。この体はリコフォスのものなのだ。

「クロウ師、リコフォスは、魔王様にも、最早不要と断じられたのです」

「それ、は……っ、きっと、違う、ヴィドは、返せと……」

「もし捕まってしまったら、このいきものは貴方のように首を刎ねられて殺される。貴方はそれを良しとできますか」

「あ、ぁ……」

「大丈夫ですよ、クロウ師。貴方がそう望むなら、この体には痕跡ひとつ残しません」

 できるのか、そんなことが。呆然と、レギイの顔を見上げた。うっとりと微笑む美貌。つい、手を伸ばして縋ってしまいたくなる、絶大な魔力がそこにはあった。

 もし、彼が嘘をついていたのだとしても、私が、必ず方法を見つけよう。今は、彼の差し伸べる手を取るしかない。それしか、現状を打開する方法がないのだから。

「たの、む……」

 肩の力がぬけていくそのまま、私はゆっくりと息を吐いた。すると、レギイは一瞬、その瞳の奥に鬼気迫るものを宿しては、穏やかに頷いて、私が寝転ぶ寝台に乗り上げた。

 彼の手のひらが、私の後頭部を撫でてから、そのまま項のあたりを浅く持ち上げて支える。

 レギイは恭しくもあり、しかし有無を言わせぬ迷いなき仕草で、私に覆いかぶさった。

 ハク、と、甘美な息遣いが、耳朶を擽った。彼に初めて血を与えた日、歯を立てられた舌がビリビリと痺れ、全身の感覚がみるみる麻痺していくのがわかった。

 首元に、深く、彼の牙が突き刺さる。魔力が吸い取られていくのと同時、彼の魔力が私の体に侵入してきて、脳をやさしく嬲られているような気分がした。

 これは、彼にとっての補給行動に当たる吸血とは似て非なる行為。上位吸血種にのみ許された、双方の同意のもとに行われる魔力交換……契約行為だ。

 眷属の契り。この契りによってつけられた咬傷は塞がらず、刻印として残り続ける。これは眷属にした者の魔力や血液の占有権を主張するためのものであり、眷属がこの契約を交わした上で吸血を受け続けると、契約以前の血液が枯渇したころに、吸血種として覚醒する。

 いわばこれは、永劫に近い時を生きる吸血種にとって、同じ時を生きる同胞を作るための行為なのだ。

 全身が震えた。体のどこかに、時限式爆弾が植え付けられたような、底知れない高揚がした。

 ズルリと、私の皮膚から、レギイの牙が抜ける。その瞬間、私の全身を駆け巡ったのは、もう彼無しでは生きていけないと思ってしまいそうな切なさだった。

「はじめから、こうするつもりだった、な」

「責任を取ってくださると仰ったではありませんか」

「リコフォスは、巻き込まない。諦めないぞ」

「御随意に」

 レギイはどこか酷薄な声色でそう言った。はじめて、彼の隠していた心を垣間見たような気がしてならなかった。
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