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第六話

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 スウ、と息を吸い、思い切って頭まで潜水する。パチリと目を開ければ、青々とした水草が地中からゆらゆらと非難がましく揺れていた。

 私は膝を抱え、じっと目を凝らしながら、生き物がいないか探してみた。しかし、どうやらこの泉の水質は純度が高く、生物の栄養となるものが極めて少ないためか、めぼしい魚は見当たらなかった。

 にわかに興ざめして、膝を抱えたままくるりと仰向けになり、浮力に身を任せる。柔らかな水の音が耳を擽り、頭の上半分が空気に触れたので、私は水面に両手足を投げ出して大の字になった。

「クロウ師、それ以上はお身体が冷えてしまいます」

 レギイが泉の淵にしゃがみこんで、私の顔を覗き込みながら苦笑した。つまらないことを言うようになったな、と思い、片手を伸ばせば、立ち上がってヒョイと避けられる。少し見ないうちにすっかり可愛くなくなってしまったものである。

 仕方ないので、私は魔力を翼に見立てて空中に飛び上がり、そのままその魔力で風を起こして全身に付着した水分を振り落とした。雨が降ったように、泉にたくさんのしじまが浮かび、実に爽快な気分だった。

「回復してからものの数日で、魔力の扱いもお手の物とは。流石は我が師」

「いいや、きっと、いざ実戦となればまだまだ隙だらけもいいところだ。堕天使の力の使い方の要領で何とかやりくりしているだけだからな。最適な魔力の使い方を長年心得てきた魔族には到底かなわないさ。そうだろう?」

「私は正直、昔は勿論、今のクロウ師とも戦いたくありません。貴方は最悪の戦場と呼ばれた北の最前線を知る者ですから」

「ハハ……たしかに、あそこは余程の戦闘狂か、死にたがりの老兵しかいなかった。あそこで生き残ったというのは、いっそ不名誉な称号だな」

 レギイは途端に黙り込んだ。何か良くない琴線に触れてしまったようだ。なにも続けず、彼の眼前に着地し、翳ったその表情をジッと見ていれば、ややあって、おもむろに口を開いた。

「貴方は、どちらで?」

「あー……、君は、どっちの方がいいと思う?」

「私は、貴方が最前線に向かわれたと聞いた時、耳を疑いました。貴方は根っからのフィクサーで、荒事は極力避けて通る性分だと思っていたので」

「だが、君に荒事のいろはを教えたのも私だろう」

「だからこそ、ですよ」

「……まあ、好きなように解釈すればいい。過ぎたことだからな」

 レギイはぎこちなく私の体を抱きしめ、フルフルと首を横に振った。つくづく、悪いことをしたと痛感するところだ。

 私が死んだことで、彼はこれほどまでに打ちひしがれて、その傷を抱えたまま、魔族にとってしてもじゅうぶん長い年月を過ごしてきたのだ。

 私が死んで喜ぶものばかりではないということに、どこまでも無頓着だった。思いもよらなかったのだ。レギイが、こんなにも私の存在を大きく見積もってくれていたなんて。

「きっと、私の命をこんなにも惜しんでくれるのは君だけだ」

「いいえ、それは違う。ただ、貴方が魔王様のことにしか興味がなかっただけです。私は、我々は、こんなにも貴方を見ていたのに。貴方はそれを気付きもしなかった。拾って育て上げておいて勝手なことです。まあそれも全ては魔王様の味方を増やすためのことだったのでしょうが」

「弟子として育てたからってなあ……一人前になって私の手から離れた以上、あとは君たちの自由だし……」

「貴方は私に選択する権利すら与えてくださらなかったでしょう。問答無用で置いていったことのどこが、自由にさせたのだと仰いますか?」

「私の勝手で、既に立場ある弟子を振り回したくなかったんだ……君は13幹部会でも上手くやっていたし、魔界に本拠地を移して以降の陣営ともよく馴染んでいただろう。私が仲間として集めたのは、私と同じような陣営のはみ出し者たちだった。君はそれに該当しなかっただけの話だよ」

 沈黙。待てど暮らせど、反応が返ってこない。私はまた何かまずい事を言ったか?

 レギイはフラリと私から離れ、私の肩を掴んだ。そして、怒りのような、衝撃のような、はたまた、今にも泣き出しそうな険しい形相で、私の目を真っ直ぐ見つめてきた。

「陣営の、はみだし者……? 貴方はそんなものに該当したと?」

「はみだし者であっただけならまだいい。私は私であると言うだけでやみくもに不和を生んでいた」

「堕天使だから? そんな、馬鹿げた話を……貴方に限って、真に受けていたわけですか」

「不吉の象徴が魔王の側をうろついてたら威信に関わるなんて言われたら、何も言い返せないじゃないか。ヴィドに不利益をもたらす存在にだけはなりたくなかったんだ」

「あ、あ……そう、ですか。ただただ、何も分かっていなかったんですね」

 何も分かっていなかった? 私が? 言ってくれるじゃないか。

 たしかに私は堕天使で、魔族のことは理解しきれない部分がある。それを弁えたうえで私は立ち回ったつもりだ。なおかつ、翻れば、魔族である君たちにだって、堕天使である私のことは理解しきれない筈だ。

 魔族の中で生きる堕天使の気持ちなんて、君たちには分からないだろう。そんな言い方をされる謂れはないぞ。

「さあ、野営へ戻りましょう。貴方が死んでから何が起こったか、お話します」

「必要ない。ヴィドが魔王になった。私にとってはこれ以上ない答えだ」

「いいえ、我々のこれからにも関わる話です。貴方の死体がどうなったかについてですから」

「私の、死体……? まさか、依代云々の話は……」

「ええ、アテが無ければあんなこと言いません」

 レギイはそっけなく言い捨てて踵を返し、ツカツカと歩き出した。私は急いで服についた砂を払ってからそれを羽織り、後を付いていった。

 ヴィドが魔王になったなら、私の死は無駄ではなかったはずだ。それなのに、レギイは、私が死んだせいで何かあったみたいな口ぶりで私を詰る。

 逆に聞きたいが、あのまま私が陣営に居座って何になったというのだろう。

 脳裏に、ヴィドのあの瞳がちらつく。すべてを手に入れてなお、少しも満たされていないと訴えかけてくるような、孤独な赤色。

 思い出すほど、胸騒ぎがしてならない。私は、なおも思い違いをしているのか。私は一体、これ以上何と向き合わなければならないのだろう。

 考え込みながら、野営の拠点としている洞窟へと足を踏み入れる。途端、肌を撫でる違和感。

 直感が罠だと警鐘を鳴らす。こういう悪い予感には抗わない方がいい。

 教えてもらった、今の彼の名前は確か。

「ヴェスパーレ! すまない、返事をくれ!」

 木々がざわざわと揺らめく。私の今の心境を表しているかのようだ。ややあって、ザクザクと木の葉を踏みしめる足音が、背後から聞こえてきた。

「どうなさいましたか、リコフォス様」

 名前を呼ばれた瞬間、私はすかさず声の主めがけて純粋な魔力の衝撃波を放出した。レギイの真似ばかりは一丁前だが、油断が滲み出ているような、やに下がった猫なで声。もし彼が何かの間違いで私のことをあのように呼んだとしても、私は同じ制裁を加えるだろう。

 途端、洞窟の入り口にかけられていたらしい術が解除される。見れば、足元には転移陣が発動していた。おおかた行先は魔王城だ。

 転移陣の要石を破壊し、すかさず洞窟内へ突入する。喉奥が痺れるような、脅威の気配がして、思わず立ち止まった。ああ、これは、レギイの独擅場である洞窟内ですらものともしない、絶対的強者のそれだ。

 ふと、私の耳元に一匹の蝙蝠が飛来する。言わずもがな、レギイの分基である。

『クロウ師、このまま逃げましょう』

「もしや」

『ええ、魔王様です。どうにも焦れたようで。全体の八割を持っていかれました』

 私は頷き、蝙蝠となったレギイを服の中に匿った。洞窟の入り口を崩落させつつ空中へ飛び立とうと強く踏み込み、踵を返す。

 そして、二の足を踏んだ。

「迎えに来たぞ」

 魔力など使うまでもなく、私の足は地面からみるみる離れていった。前触れもなく、洞窟の奥から入口に現れたヴィドが、私の首を鷲掴みにし、持ち上げたのだ。

「待て」

 私が声を上げれば、ヴィドの腕がビクリと震えた。私はそのまま口角を吊り上げ、眉間にしわを寄せる。

「私はリコフォスではない。この身体を乗っ取った別人だ。このまま連れ帰れば、私はこの体もろとも死ぬぞ」

「死なせるとでも?」

「手だても無しにこんなことは言わない。いかなる拘束を施しても無駄だ。次の瞬間には寄生した脳を破裂させて死ぬからな」

「何が目的だ」

「告げる義理はない」

 ヴィドは手を離した。私はすかさず洞窟の外に飛び出し、空へと逃げたのだった。
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