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第四章 ラスボスにしたって、これは無いだろ!

第五十七話

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 時間感覚すら捨て去るほどの過集中。いつからか、ジルラッドが待っているだとか、たくさんの人たちに害が及ぶ前に早く、だとか、そんなことを考える余裕もなくなった。

 彼女の、あの母親ひとのことをどう思う。

 彼女がどんな事情を抱えていようが、彼女にされたことは俺の中から消えることは無い。彼女が企んでいる殺戮は、絶対に実現してはならない邪悪だ。俺は、あの人の命を奪うことも、ためらってはいけないとすら思う。

 ただ、最愛の少年との思いがけない別離から、少女のまま時間が止まってしまった彼女が、何もかもを恨んで死んでいってほしいとまでは思えない。

 彼女の縋った思い出は、美しかったから。きっと、縋らざるを得ないほどに、優しく、穏やかで、輝いていたから。

 彼女を恨む気持ちと、美しいものを美しいと思う気持ちは、少なくとも俺にとっては別物で、両立するものだ。

 それに、俺だって、彼女と同じように、かつての美しい思い出に縋り、未来を捨てようとした側の人間だ。

 俺には、ジルラッドがいてくれた。でも、彼女には。

 だから、思い出してほしい。自分が何に背を向けているのか。

 知ってほしいのだ。本当は、ずっと、彼女を想っている人がいたのだと。

「でき、た……」

 そう呟いた途端、強烈な眠気が襲い掛かってくる。今にも閉じてしまう瞼の先にある、完成した絵に手を伸ばして、触れた途端。

 俺は、怪物の肉の中で目を覚ました。繭の中に囚われているみたいで、少し身動きすれば、肉の壁に押し返される、そんな状況で、意識をどこかに飛ばされていたらしい。

 きっと、さっきまで俺がウルラヌスさんと言葉を交わし、絵を描いていたのは、ウルラヌスさんの精神世界かどこかだったのだろう。

 ジルラッドとミュルダールと一緒に居た時と違い、魔力が殆ど残っていないこと、代わりに、持って来た覚えのないキャンバスを両腕で抱えていることが、あれは決して夢ではなかったということを物語っていた。

「行かないと……」

 直感的に、どこに向かうべきか分かった。この怪物の核であり、今や、怪物と完全に同化してしまったらしいあの母親ひとの精神の要は、肉の棺におさめられたウルラヌスさんの遺体だ。

 味噌っかすの魔力を何とかかき集め、中級の風魔法を発動。自分の身体から放射状に風刃をまき散らすイメージで肉を切り裂くと、次の瞬間、俺は宙に身体を投げ出されていた。

 巨人に張り手されたらこんな感じだろうといった所感だ。着地なんて出来るはずもなく、俺は重力に従うまま落下、ずべしゃ、と肉の床に倒れ伏した。キャンバスを庇うように身を捻るだけで精一杯だったが、おかげでキャンバスだけは無事だった。

 身体は粘液でベトベト。浄化のための光魔法なんか使う余裕が無いから、瘴気に汚染された肺がゴロゴロと音を鳴らしている。

「生きて、帰る……ジルラッドと、一緒に……」

 キャンバスを小脇に抱え、何度か体勢を崩すも、よろよろと立ち上がる。幸運にも、棺の形をした肉の塊は、視線の先にあった。

「待ちなさい、ベルラッド。どうして起きているの」

 ズルリ、と音がして、地面からあの母親ひとの姿が生えるように現れる。前に言葉を交わした時よりも、ずっと幼い……それこそ、ウルラヌスさんの記憶で見た少女の頃の背格好だ。

 そんな少女の姿で、妖艶なドレスなんかを纏っているものだから、俺は余計労しさのような感情が胸に湧き上がり、恐怖なんて感じる余地も無かった。

「何をするつもり……!? 貴方、何を持っているの、それは、その気配、は……!」

「俺は、アンタに、思い出させに来たんだ。アンタの、本当の願いを」

「知ったような口きかないでよ!! いや、やめて、来ないで……!」

 あの母親ひとが、両手で顔を覆い、金切り声を上げる。途端、周辺から無数の触手が俺に向かって伸びて、手足にきつく巻きついた。ジュウジュウと音がして、露出していた腕の皮膚が焼けただれていく。

 瞬間、ドオ……と、遠くの方で轟音がなり、空間が大きく揺らいだ。触手の力がにわかに緩んだので、俺はすかさず拘束を振りほどき、まっしぐらに駆けた。

 自分の横を俺が通過するのも構っていられない様子で、あの母親ひとは茫然自失といった表情で固まっていた。それほどまでに、ジルラッドの猛攻はすさまじいのだろう。

「あ、あ……どうして、わたしは、ただ、わたし、は……」

 蚊の鳴くような声だった。しかし、はっきりと、彼女はこう言った。

 ウルラヌス、ごめんなさい、と。

 自分が縋っていたものが、とうにウルラヌスではないことなんて、本人が一番よく分かっていたのだ。彼女は、彼を愛するあまり、狂ってしまったし、はたまた狂いきることも出来なかった。

 魔力を纏わせ、手刀を入れるように、肉の棺に右腕を突っ込む。途端、生理的嫌悪と根源的恐怖を綯交ぜにしたような悪寒が全身を駆け巡った。血の気が一斉に引き、冷や汗が背筋を伝っていく。

 ギリ、と音がなるほど、奥歯を噛み締めて、へたり込みそうになるのを堪えた。

 魔力を振り絞る。ギチ、ミチ、と音を立て始め、蓋が開くように裂けていく肉の棺。一斉に吹き出した瘴気で、目の前が真っ黒に覆い尽くされる。

 俺は、それを掻き分けるように、ウルラヌスさんの遺体を探した。もう、右腕が原型をとどめているかも分からない。何よりも濃い死そのものの気配に、最早痛みなどという感覚からも超越してしまっていた。

「あ、ぁあ゛……ッ!! ああああああaaaaaaaaああaaあaaaaaaaaaaaaaa!!!!!!!!!!!!」

 あの母親ひとからの、強かな拒絶が、ついには俺の右腕を食いちぎった。それによって、俺は体勢のバランスを崩し、肉の棺の中に倒れこんでしまった。

 どぷり、まるで、沼の中に飛び込んでしまったような心地だ。全身が瘴気と一体化していっているようで、ただただ寒かった。

 意識も千々に散ろうかという寸前、抱えきれぬほどの虚無感と孤独に耐え兼ね、胸元にぎゅうと抱きしめたキャンバスが、ほのかに発光し始めた。

 その光はみるみる輝きを増していき、俺の周囲から瘴気を散らしていく。同時、その光に照らされて露わになった、ウルラヌスさんの遺体が、みるみる白骨化していった。

 なお、輝きは勢いを増していく。目を開けていられないほどの眩さに、きつく目を閉じ、俺は胎児のように身体を丸めた。

 肉の棺の中に身を沈めた時の、大きな虚無感や孤独感は、いつの間にか消え去って、代わりに、春一番のように爽やかな、しかしてどこか切ない、そんな心地で満たされていた。
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