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第四章 ラスボスにしたって、これは無いだろ!

第五十話

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 接近するにつれ、遠くで見ていた時には実感できなかった、地割れの大きさに気圧される。

 気遣わしげな視線を横から感じるが、俺は敢えてジルラッドの方を見ずに、「大丈夫」と一言強がってみせた。嘘である。夏場の麦茶のコップ並みに背中が冷や汗でいっぱいだし、近づけば近づくほどに濃くなっていく瘴気で頭が滅茶苦茶になりそうだ。

 どんな経験をしても、性根のチキンは変えられるものではないらしい。それに、この断崖の狭間を潜っていった先に、あの母親トラウマが待ち構えている。これは確信だった。

 恐らく、あちらの方も、俺の存在を感知しているのではないだろうか。この背筋の冷える感覚は、俺が彼女の手のひらの上でもがき苦しみ、廃人になっていっていたあの時と同じだ。

 俺はともかく、あの母親ひとが俺に一体何の用があるというのだろう。何だかんだ、俺がこの因縁にケリを付けようとノコノコやって来ることすら見通していたというのか。

 でも、あの母親ひとは知らない。俺が、どれだけ弟の前で見栄を張るかなんて。ジルラッドにみっともない姿を見せたくないという格好つけだけで、俺は、いくらでもやせ我慢してみせるのだから。

 傍にジルラッドがいてくれるなら、俺は自分の足で立っていられるし、どんなバケモノを差し向けられたって、少なくとも死ぬことは絶対に無いのだ。

「行こう。すべてにケリをつけて、一緒に帰ろう」

「はい、兄上」

 俺たちは、沼の底のように昏い、地割れの中に突入した。

 +++

「露払いはあらかた済ませておいたけどさ。にしても、やっぱり瘴気が酷い。殿下、僕が殿を務めるから、君は先陣を進んでくれるかい。甥っ子には間で僕たち全員の呼吸器に浄化を回し続けて欲しい。でないと、この空間で息をするだけで、みるみる体力が削られていく。ジリ貧は御免だろう」

 暗闇の中に着地し、一息もつかないうちに、眩い光がこちらに突き付けられた。ミュルダールだ。ケホケホと空咳を繰り返し、やや呼吸が乱れているので、光魔法をかけてやると、ミュルダールは開口一番捲し立てるようにそう言った。

 俺はすぐさま、全員の喉元に魔力のフィルターを設けるようなイメージで光魔法を発動した。どうやら、少し瘴気に当てられただけでも消耗していたらしく、随分身体が軽くなるのが自分でもよく分かった。これほどまでに重い瘴気とは……一体、どれほどの厄ネタがこの大穴で胎動しているというのだろう。

 ミュルダールの言う通りに、先頭をジルラッドに俺を挟んで後ろ……と言うか殆ど並んで、ミュルダールの順で、探り探り歩き出す。どこからともなく圧し掛かる、胃の腑から凍てつくような悍ましい気配のせいで、どうにも足取りが重い。

 ミュルダールはそんな俺の気を紛らわすためか、空気も読まず、そう言えば、と雑談を切り出した。

「あのさ、君、もしかして、人体に明るかったりする? 光魔法、普通の治癒術師じゃ、こうも覿面に効かないんだ」

「あ~、まあ、それなりに、かな。人物画を描くのに、人体を理解してなきゃどう描きようもないし……骨格や筋肉の付き方は勿論、皮膚の凹凸や質感を写実的に描画しようと思ったら、出来れば臓器の位置や構造も把握しているに越したことは無いと思ってる。まあ、臓器云々については、趣味と実益を兼ねた持論に過ぎないけどな」

 前世は一時期、解剖図とか内臓の構造とか調べて模写するのにハマってたこともあったり。丁度同時期に偏屈な絵画教室の先生にデッサン力を誉められたから、全然無駄ではなかったと思ってる。

 それに、その素地のおかげか、高校に上がってからの模試でも、生物のテストだけは全国一位をキープしてたんだぜ。まあその得意教科を大学受験に生かす前に電車に轢かれちまったけどな! うーん、諸行無常。

「あぁ、教会の頭カッチコチな老害どもに聞かせてやりたい、その言葉……人体は主の創造せし神秘だからそれを神の許しなく暴くなど神秘への冒涜だ何だと言って、ヒーラー見習いどもに透視魔法を教えようとした僕を寄ってたかって糾弾したんだぞ、あいつら」

「え、じゃあ、普通の治癒術師って、どこがどんなふうに損傷してるかとかよく分からないまま光魔法使ってるってこと? クッソ非効率じゃない?」

「うん。高位の司教とかでない限り、君みたいに、剣で貫かれたような傷を一発で根治させてしまう治癒術師はいないね。魔法はイメージ力がものをいうし、どうしても、術者が認識できる部分にしか作用しないものだからさ」

「何だろ、教会のご老人の話しぶりに、利権の独占めいた何がしかを感じる」

「ゲ、言われてみればそうか……クソッタレ、信仰を盾にした拝金主義者どもめが……」

 多分だけど、人体構造図が掲載されているものを聖典だなんだと言って、高位の司教にのみ閲覧が許されてるとかそんなところじゃないかな。それで、貴族とか大聖人とか、金払いの良……もとい、格別に敬虔な(笑)信者にだけ、特別な光魔法を御照覧、ってやつなのでは。待って、俺、そんな腐敗した団体の活動に加担するところだったって、コト!?

 ジルラッド、考え直させてくれてありがとな、マジで……。

「教会内部の腐敗など今更の話だろう。神の代弁者などと標榜し、信仰を笠に着て、王権にすら口出しせんとする不遜の所業……精々、父上が退位なさるまで、かりそめの権威に胡坐をかいているといい。僕が即位した暁には、兄上の処遇のことでちょっかいを出してきた者から順に、懐の着服金ごと、あの無駄に絢爛な法衣を剥ぎ取ってやる……」

「ハハ、頼もしいことだ、それでこそ、我らが未来の名君だよ」

「似た者師弟……」

 名君にしちゃ、私怨の割合でかすぎる気もするけど、生憎俺はジルラッドの全肯定後方兄貴面オタクなもんで、窘めるわきゃないんだな。老害(仮称)さんたち、ドンマイ。

「愉快な話をなさってるところ、ごめんあそばせ。貴方がそんな手間を払う必要はなくてよ。だって……国もろとも、教会の存在も、私たちが踏みつぶして御覧に入れますもの」

 クスクスと、まるで少女のような、あるいは蝙蝠の羽音のような囀りが、反響し、共鳴するように、いたるところから俺たちに降り注ぐ。

 俺はその声に、胃の腑から凍り付くような感覚を味わい、思わず身を竦めた。ふらりと、視界が大きく傾くような眩暈に襲われ、背中が後ろに傾きそうになるのを堪える。

 目を見張り、ひとつの背を隔てた先にいたジルラッドは、怜悧な殺意と共に雷電を迸らせ、背後のミュルダールもまた、普段の軽薄からは想像もつかないほどの重苦しい魔力を漲らせているのがわかった。

 空間に響くのは、忘れるはずもない、あの母親ひとの声だ。フラッシュバックするように、あの忌々しい痛みがチカチカと脳裏を過り、強烈な吐き気が襲い掛かってきた。

 ああ、クソッタレ。でも、ここで俺がへこたれてなるものか。奥歯を噛み締め、ジルラッドの前に降りる常闇を睨み据えた。
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