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第三章 思い出すにしても、これは無いだろ!

第四十一話

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「言ったでしょう、兄上。貴方だけが、僕の幸せなんです。貴方無しに、僕の幸せなんてありえない」

 二度と聞くことは無いだろうと思っていた、焦がれてやまない声。描画に没頭していた意識が浮上すると同時、背後から強く抱きすくめられる。

 手からポトリと筆が転がり落ちる。ガタガタと震えるあまり、全く力が入らなくなってしまったのだ。ああ、もう少しで完成だったのに、これじゃあもう、続きなんて描けない。

「ジ、ル……」

「ええ、兄上」

「離してくれ……俺、君に合わせる顔なんて、ない」

「それじゃあ、合わせる顔が出来るまで、このまま。僕はいつまでも待ちますから」

 ああ、君はなんて残酷なんだ。俺がこの絵に置いていこうとした未練を、こうも容易く手繰り寄せて、手を差し伸べてきてさ。

 俺が俺のままでいいなんて、君はそんなことを言うけれど、そんなわけないだろう。俺が俺のまま、君の傍で笑っていることを、本当は、そんな未来に焦がれていることを、自分に許せないんだ。

 だって、君に沢山の悲しみを背負わせて、君の輝かしくあるべき人生の邪魔をした俺が、これ以上、君から幸せをもらう権利なんてないはずだろう。

「ジル、ジルラッド。頼むよ。もう俺、こりごりなんだ。あの母親ひとの存在に怯えながら生きるのも、もしかしたら、また利用されて、君を……」

「貴方の憂いは僕がすべて払います。あの女のことも、教会のことも、僕が必ず、どうにかしてみせる。だから、お願い。僕と一緒に生きて」

「違う、俺は、君にそんなことをして欲しいんじゃない! 俺は、自分で選ぶんだ。あの母親ひとから逃げられるなら、二度と悪夢なんて見ずに済むなら、飼い殺しでもいい。幸せな夢を見ながら眠れるなら、俺はそれで十分なんだよ……」

 5年だ、彼の今までの17年のうち、5年もの年月を、俺なんかに浪費させてしまった。彼の今までの生涯の、およそ三分の一の歳月を、俺のために使わせてしまったんだぞ。これ以上は、びた一文とて、そんなことに、君の時間を浪費させてなるものか。

 俺は、落としてしまった筆を拾おうと手を伸ばした。この絵さえ完成させれば、きっと彼は、俺のことを忘れて、幸せになってくれる。俺が未練を捨てさえすれば、ジルラッドだって、俺の祝福に応えてくれるはずなのだ。

 ああ、それなのに。ジルラッドの抱擁は、どんなに俺が藻掻いても、びくともしない。ジルラッドは、俺が伸ばした右腕をソッと掴み、掬い上げた。ミュルダールに付けられた呪いの痣を、俺たち二人の目から覆い隠すように。

「ねえ、本当に? 本当に、それでいいって、幸せになれるなんて、思うのですか」

「少なくとも君は、俺なんかいなければもっと幸せになれたはずだ! 俺は、自分に不相応な幸せなんて望まない。だからって、自分に用意されているかもわからない、ささやかで穏やかな幸せを探して藻掻くのは、もうたくさんだ。今すぐに苦しみから逃げられるなら、そっちを選んじまう……なあ、ジル。俺は、こんな弱くてくだらない人間だよ。こんなのが、君の幸せなんて、ありえない。分かるだろ?」

「いいえ。分かりません。僕だって、兄上が思うほど物分かりの良い人間じゃない。兄上のいない生涯なんて、生きるに値しません。貴方の幸せあっての僕の幸せなんです。それでも、兄上が今すぐに苦しみから逃げたいと仰るなら……眠りについた貴方を殺して、僕も死にます」

 どこまでも、優しい声だった。俺が目覚めてから、ジルラッドが俺に語り掛けてきたときと、なんら変わらない、気遣いと慈しみが籠った声。だからこそ、彼は酔狂や脅しのつもりでそんなことを言っているのではないと、嫌でも思い知らされる。

「兄上の、苦しみから逃げたいという思いを、否定はできません。僕だって、貴方を守れなかった悔恨をまた味わうくらいなら、死を選ぶ」

 逃避を選択しようとしている俺に、自分のその選択を否定する権利などない……幸せを求めることをやめようとしている俺に、幸せなど願われてたまるものかと、ジルラッドは縋るように訴える。

 心のどこかでは分かっていた。俺の想いがどんなに歪んでいるかって。自分を幸せにすることすら諦めた分際で、彼の幸せを願おうなんて、とんだ思い上がりだと。

 ああ、俺が紡ごうとしていたのは、祝福なんかではなく、呪いだったのか。

 ストン、と、憑き物が落ちたように、全身の力が虚脱する。今の俺には、ジルラッドの幸せを願う権利すらない。もう苦しみに怯えるのは嫌なのに、逃げることも選べなくなった。

 どうすればいい。俺は、どうすればよかったんだ?

「僕を信じて、兄上。貴方が傍にいてくれるなら、僕はこの世の誰より幸せだよ。ねえ、兄上は? 兄上を幸せにするのに、僕では不足ですか?」

 ジルラッドの言葉が、脳の芯に流れ込み、ジンジンと熱かった。次第、喉が引き攣っていき、俺は奥歯を噛み締める。ギリギリと軋むまで食いしばっても、溢れ出る大粒を押しとどめることは、どうしたって出来なかった。

「ずるいよ、そんなこと言われたら、俺もうダメだぁ……」

 クス、と笑みの零れる音が聞こえる。敵わないな、と思った。ああ、でも、そうだ。君は、昔からそうだったな。

 出会った時から、この子は、俺が何を言っても、自分の意思を貫く頑固者だった。俺は結局、この子のやることなすこと全部にタジタジで。

 うじうじクダを巻いて、なかなか前に進もうとしない、俺の鈍重な躊躇いを、いつだって、ジルラッドは軽く吹き飛ばしてしまうんだ。

 いつだって、後ろ向きにしかものを考えられない、弱虫で臆病者な俺だけど、君が隣で手を引いてくれたなら。

「ジル、おれ、ほんとは、君のそばにいたい。君と一緒に笑っていたい。もっと、君と生きたいよ……」

 君にたくさん迷惑をかけた俺が、そんな幸せに、手を伸ばしてもいいのかな。

「顔、見てもいいですか」

 ジルラッドは、少し言葉を詰まらせながら、遠慮がちに囁いた。

 こんな、くしゃくしゃのかっこ悪い顔を見せるのか、と思ったが、そんな気恥ずかしさより、俺も彼の顔が見たいという思いの方が大きく勝った。涙を振り落とすように、二度、ガクガクと首肯する。すると、ジルラッドの腕の力がにわかに弱まったので、俺はすかさず振り返り、ジルラッドに正面から抱きついた。

「っ、は、あは、兄上、これじゃあ、顔見れません……」

「合わせる顔が出来るまで、待っててくれるんだろ」

「……ええ、いくらでも。5年待ったんですから、それくらい、なんてことない」

「そんな寂しそうな声出さないでくれよ……」

「出してませんよぉ……」

 情けない鼻声。あーあ、こんなにデカくなっちまってさ。俺より10㎝以上身長が上でも、可愛いものは可愛いんだから、困るよ、本当に。思えば、昏睡から目覚めたばかりで、記憶を取り戻す前の俺も、君の可愛さにはひとたまりもなかったよな。魂が欠けてても、俺は俺だったってことなんだろう。

 ジルラッドの肩口に噛みつくように埋めていた顔を上げ、すぐ目の前にある、精悍な頬を両手でホヨホヨと包んでやる。ジルラッドは少し照れくさそうにスンと鼻を啜って、綻ぶようにはにかんだ。

 ああ、もう二度と、離れられそうにないな、なんて。そんなことを思っては、俺もまた、笑うしかなかったのだった。
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