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第一章 死ぬにしたって、これは無いだろ!

第十八話

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 額縁で容易く隠せるような小さな空間に、その一冊は横たわっていた。

 淡く優しい紫の装丁に、銀の縁取り。

 そして、どんな魔導書のそれよりも色濃く喉につく魔力の気配がある。本の姿をした生物なんじゃないかと思えるほどの存在感だ。

 おそるおそる、それを手に取る。

 妙にしっくりくる手触りだ。何年も使っていたパレットを久々に使った時のような感慨が込み上げてくる。

「これ、は……?」

「学園に通われていたころ、兄上がつけていた日記です。兄上が昏睡してしまう直前、僕が預かりました」

「……読んでも?」

「そちらも、兄上のものですから」

 諦めの滲んだ苦々しい声色。

 さもありなん、日記ということは、嘘偽りないベルラッドの記憶がここに詰まっているということ。

 息を呑み、表紙を開こうと目線を手元に落とす。

 が、しかし、俺は、とある異変に気付き、それ以上手を動かすことが出来なかった。

「ジルラッドくん、なんか、手首に心当たりのない痣? があるんだけど」

 右手首をぐるりと一周、何かの葉っぱのような形をした、嫌に輪郭がはっきりして、不気味にどす黒い痣……どちらかと言えば、形容するにタトゥーの方が近い……を、ただならぬもののように思えて、ジルラッド氏の目の前に掲げて見せた。

 一瞬にして顔色を蒼白に変え、剣呑な光を瞳に宿したジルラッド氏は、目にも止まらぬ速さで痣を隠すように俺の手首をつかみ取った。

「抜かった、連中、レプリカを触媒にしたのか……! 兄上、失礼をっ」

 状況は何も掴めないが、これが非常事態であることを察するに余りあるジルラッド氏の剣幕。

 浮遊感すら感じないうちに、目の前がいつもの俺の引きこもり部屋に移り変わる。

 空気も読めず、俺は夢見心地だった。ただし、まごうこと無き悪夢だが。

「ね、ねえ、これ、なに?」

「教会執行部公安特使……特使とは名ばかりの暗殺集団が使う、執行対象に付けるマーカーです……僕が兄上の聖遺物と偽って教会に寄贈したあの日記帳のレプリカから、オリジナルを追跡され、トラップを仕掛けられていたようです。教会に与する魔術師でそんな芸当ができる代行者なんて、奴しかいない」

「やあ、やあ、酷いなぁ……他でもない、魔術の師匠に対して「奴」呼ばわりなんて、さ」

 手首の痣が、まるで生きているかのように皮膚の上を蠢き、脈打つ。

 それに伴い、スピーカーなんてあるはずのないこの部屋に、世の中の何もかもを嘲っているような、いかにも軽薄と言ったような声が響き渡る。

 状況とその声があまりに不釣り合いで、いっそう不気味だ。

「—————————————ッッッ!! オ、ェエ゛っ」

「兄上ッ!」

 パニックのまま、徐々に大きくなっていく痣を見ていると、不意に強烈な吐き気と虚脱感に襲われ、俺は耐え兼ねて膝から崩れ落ちた。

 息が浅くなる。立ち眩みを100倍大きくしたような眩暈で、視界が大きな地震の時みたいに揺らぎ、ぶれる。

 でも、そんな最中にも、その気味の悪い光景は鮮烈だった。

 大きく、濃く肥え太った痣から、墨汁のように黒い液体が、ぽた、ぽた、と滴りはじめたのだ。

 しかも、床に滴ったそれは、ひとりでに大きく広がり、じわじわと空間を浸潤していた。

 俺がその液体を反対の左手で掬い上げようとしても、手のひらをすり抜けて、やはり床へと落ちていく。

 俺はその怪奇現象としか言いようのないさまに、ただ茫然と目を泳がせるしかなかった。

「御機嫌よう、麗しき我が愛弟子。そして、お初にお目にかかる、聖者様。この度、枢機卿の命により、聖者様の保護執行を承りました、第二特使団筆頭代行、ミュルダールがご挨拶申し上げます」

 徐々に色濃くなっていったその床の染みが、ひとつの人影になったとき、どこからともなく響いていた声が、蹲る俺と、その傍らにしゃがんで俺を庇っているジルラッド氏に、上から降り注ぐように変化する。

 招かれざる客が、俺たち二人の前で嗤っていた。

「いやはや、聖者様が御目覚めなら、教えてくれたっていいじゃないか。君と僕の仲だろう? 薄情だなあ。枢機卿も残念がっていたよ。謹厳実直な王太子殿下が、約束を違えるなんて、とね」

 舞台役者のように大仰な仕草が鼻につく。息をするだけで、見るものの癪に障る立ち居振る舞いだ。

 茨を彷彿とさせる鋭い眦が、眉目秀麗な顔立ちを瀟洒に見せていて、間違いなく、妙齢の美男であるのだが、どうしても第一印象に「胡散臭い」と思わせる男である。

 ジルラッド氏は、庇われているはずの俺も、喉の奥がひりつくほどの殺気を、ミュルダールと名乗ったその男に突き付け、ゆっくりと息を吸う。

 あまりの怒りに揺らいだ、その呼気ひとつで、プラズマのような冴えた迫力を感じさせた。

「貴様、兄上の魔力を奪って顕現したな……?」

 地獄の底から這い出るような、冷え冷えとした一言。

 気の弱いものなら、その一声だけで卒倒してしまうのではないかとすら思える。

 しかし、ミュルダールは、少したじろいだような素振りをしただけで、飄々と肩を竦めてみせた。

「おお、怖い怖い。君ってば、本当に、聖者様を独り占めしたくて仕方がないんだな。いくら王太子だからって、聖なる御力を独占するなんて、許されざる暴挙だというのにねぇ」

「王太子だから何だ、教会ならばそれが許されると? 兄上は兄上のものだ。誰の所有物でもない、ただ一人の人間だ。兄上がどんな力を持とうが、その力をどう揮おうが、その事実が覆されることなどあってはならない。これ以上、兄上から何かを奪うことを、何者であっても許さない」

「ハハ、面白いなぁ。他でもない、君がそれを言うなんて! 今現在、聖者様の存在を、外界から観測できないよう、魔術的に隔絶させた異界部屋に閉じ込めて、自由を奪っているものは何だい? そうだね、君の欲望だねぇ。兄君の尊厳を守るため、だなんて綺麗ごと抜かしてるけどさ、本当にそれだけが理由だって言えるのかい? 聖者様の御力は偉大で、強大で、史上まれにみるほど稀有なものだ。周囲に齎す影響も計り知れない。他でもない、君が一番分かっているだろう。王太子であるならば猶更、分からいではいられまいに」

 ギリ、と、奥歯を噛み締めるジルラッド氏。

 分からん坊をあやすような、読み聞かせのような言い草は、ジルラッド氏にとってみれば、最大限の侮辱として聞こえただろう。

 どうしよ、俺、当事者のはずなのに、滅茶苦茶置き去りに話が進んでいるんだが。

 と言うか、え、ここってそんな部屋だったの!? いやまあ事情を知っている身から言わせると別に構わないんだが。

 俺かてジルラッド氏以外の良く知らん奴らに人権剥奪なんてされたかねぇし。

 インドア趣味引きこもりオタク舐めんなよ、娯楽も衣食住も完璧以上に揃えられたら、手のひらを太陽にかざして「利害の一致!!」と叫ぶ以外選択肢ないんだかんな! 怒ったかんな、はしもとかん(ry

「ならば聞くが、貴様の目には、私が王に相応しい人間に見えるのか? 私が、王太子としての責務だとか、精神性だとか、露ほども心得ていると思うのか? 他でもない、貴様の手ほどきを受けた人間だぞ」

 ハンッ、と、弾丸のような嘲笑をひとつ、普段俺が見ている彼からは想像も出来ないほどの毒を吐くジルラッド氏。

 ミュルダールは、一瞬、汚泥の底のような無を射干玉の瞳に浮かべた。

 心の中でふざけていた俺まで怒られたような気分である。シリアスな空気読めなくてすみませんでした。

 おっ、でもよくわからんが効いてる効いてるゥ!! 師匠が弟子の地雷を心得ているならば、逆もまた然りってことなんだろうな。知らんけど。

 しかし、化けの皮がめくれかけたのも束の間、ミュルダールは、カタカタと空回りする糸車のように笑いだした。

「ああ、ハハハッ! びっくりした、まだ分別もつかない青二才の分際で、よくも言ってくれるねぇ! まあ、いいよ。実力行使の方が得意だからさ。知ってるだろう?」

 ニィィ、と、嘲笑が威嚇にとって代わる。

 飄々とした態度で朧に隠されていた敵意が、夜半の瞳に三日月の如く宿り、煌々と降り注ぐ。標的は、俺の他に無かった。

 俺が頭を抱えて身を竦めると同時、ミュルダールはパチンと指を鳴らした。

 瞬きも束の間、ゴウ、と空間が轟き、なぜか俺の目の前に立っていたミュルダールの首元に向かって、ジルラッド氏が稲妻を纏いながら、剣を振りかざしていた。

 人の命を刈り取ることに欠片も躊躇のない、轟雷のまなざしが、薄皮一枚、頸動脈を掠めようかという瞬間。

 ミュルダールは俺の手首を乱雑に掴み、ばいちゃ、と憎らしく手を振る。

 展開についていけず、目を白黒させていた俺に待ち受けていたのは、凄まじい吐き気を伴う浮遊感だった。
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