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八章:泡沫のセイレーン(前編)
第9話 昼下りの午後
しおりを挟む――海が波となって船にぶつかり、ぱしゃりと跳ねた音で目を覚ますと、サリアが本を膝の上に置いて、すやすやと居眠りしていた。日差しは暖かい。
「……」
頭が、がんがんする。痛い。脳みそがうなっているよう。耳鳴りがする。あたしはゆっくりと起き上がる。……トイレに行きたい。
(……今、何時?)
あたしは時計を見た。
(……だいぶ時間が経ってる……)
船は着々と海の上を進んでいる。……双眼鏡はどうなったのかしら。トラブルは何も起きてないかしら。――キッドとリオンがいないんだっけ?
(……くたばれ……)
こうなったらドロシー頼りよ。頼りに頼りまくって奴隷のようにこき使ってやる。
(そして……あたしは幸せなる幸福なるハッピーな未来を手に入れるのよ……。全ての幸福はあたしのもの!)
……で、そのドロシーはどこに逃げやがったのかしら。あいつのことだからメニーと合流してそう。……となると……どこかのパーティー会場で楽しんでる感じ? メニーは同性からもイケメンな紳士からも声をかけられてチヤホヤされてる感じ?
「ベックス家のお嬢様がこんなにも美しいだなんて!
「どうか、このわたくしと踊ってください!」
「えー、選り取り見取りで、わたし困っちゃうぅー」
「にゃー」
ブチッ!
「ふんぬっ!」
あたしは怒りの気持ちをやる気に乗せて、サリアに気付かれない程度に静かにベッドから抜け出した。
(サリアが起きたら絶対寝てなさいって言うだろうし、抜け出すなら今しかない。……トイレは公共の使おう)
マーメイド号ツアーミッション、噂のトラブル箇所巡り。その二。
(リオンがいない今、あたしが動かないと! あの役立たず!)
あたしは動きやすい軽装に着替え、そっと部屋から出ていく。肩からポーチバッグを下げて、歩きながらバンダナを頭の下から上に巻いて、ウサギ耳を作った。
(とりあえず、サリアが起きる前に部屋に戻ってればいいのよ。サリアが起きたとしても、すぐ戻ればさほどうるさく言われないでしょ)
そうと決まれば、船の揺れに足を取られないように廊下を歩く。さっきよりも乗客がデッキや廊下に出て、景色を楽しんでいる。
(トイレ……)
あたしは公共のトイレに入り、すっきりした顔で出てくる。
(ふう)
薬が効いてるのかも。ちょっと気分が良くなった気がする。
(さっきの双眼鏡の件もある。リオンの騎士達が動いてるとしても、あまり信用出来ないわ。もう一度石炭倉庫を覗いておこうかしら。火事になってたら対処しなきゃいけないし。……でも、あたしか弱いから、野蛮なボイラー室に一人で行くのは気が引ける。……手の空いてるクルーいないかしら)
あたしはさっき入ったスタッフルームのドアを開けた。中はがらんとしている。……誰かいないのかしら。そのためのスタッフルームじゃないの? 不満に思いながら歩いていると、休憩スペースで一人ランチを食べていた、失礼な新人クルーのマチェットと目が合った。
「……」
「……こんにちは」
マチェットが言いながらサンドウィッチに噛みついた。
「げほげほっ。あなたひとり?」
「ええ。ランチタイムはそれはそれはとても抜けられないほど忙しかったもので、順番に休憩を取っております。マチェットはただ今ランチ休憩中です」
「ごくろうさま。……ね、また石炭倉庫にいきたくて。げほっ。あと、みはり台にもようがあって、ずびび。……で、道にまよったらこまるでしょう? げほげほっ。……あなた、ヒマならついてきて。ずびっ」
「……」
マチェットがサンドウィッチをじっと見た。
「……」
「……わかった。ランチがおわってからでいいから」
「……」
「……あー……。わかったわよ。げほげほっ。どこかでこのぶんの時間をきゅうけいにまわしていいから」
「ありがとうございます」
マチェットがサンドウィッチをゆっくりと平らげ、口を拭いた。ご馳走様でした。
「本件、クルーのマチェットがお受け致します。第六ボイラー室でよろしいでしょうか」
「ええ」
「では、ご案内致します」
あたしとマチェットが再びボイラー室へと向かった。ドアを開ければ、相変わらず石炭を燃やす音と煙で暑くて騒がしい。さっき会ったボイラー員も忙しそうに働いている。
「おら! お前ら動け!」
(あんなカリカリした状態じゃ、トラブルがないか聞くのは無理そうね。ちらっと見て戻ろう)
あたしはまた石炭倉庫を覗いてみる。……んー。不思議だわ。石炭の火災は特になさそう。噂は所詮噂だったのかしら? しかし、何も無いのであれば、こんな所とっとと出ていくに限る。はあ。暑かった。トラブル無し。ここの見回りはお終い。
「というわけでマチェット、げふん! つぎはみはり台なんだけど」
「はい」
「ずびび。はあ。みはり番のひとたちのことごぞんじ? さっき、そうがんきょうをもってなかったから、ずびび。あたし、さがしにいこうとして、ずびっ、でもきぶんがわるくなってさがしにいけなかったの。それで、げほげほっ、一応メイドにつたえたんだけど、それからどうなったかわからないから、げほげほっ、ようすを見にいきたくて……」
「見張り番。……マニュアルを失礼」
マチェットが制服の内ポケットからマニュアルを取り出し、見張り番を確認するが、残念ながらマニュアルには記載がないようだ。マチェットが表情一つ変えずマニュアルを閉じた。
「マニュアルに書かれていない事情は存じ上げません。なにしろ、わたしは見張り番のクルーではありませんから」
「ええ。あなたに訊いたのが悪かったわ」
「申し訳ございません」
(やっぱり渡されてるか確認が必要ね)
「見張り台に行きましょう」
「かしこまりました。ご案内致します」
マチェットと一緒に外に出る。……さっきよりも日差しが暖かくなった気がするが、やっぱり風は冷たい。下から見上げれば、見張り台に立つ二人は双眼鏡を持っている気配はない。あたしはガラガラの声を張り上げる。
「すみませーん!」
「ん」
「おや、社長の娘様だ」
「なんて名前だっけ?」
「ペリーだっけ?」
「ああ、なんかそんな気がする」
「こんにちは! ペリー様!」
「こんにちは!」
「どちらかおりてきてくれなぁーい!?」
二人がじゃんけんした。ビルが残り、レオナルドが下りてきた。
「初めまして。先程はビルがお世話になりました。ペリーさま。レオナルドです」
「……テリーよ」
「……ああ、……それは……。……。……失礼しました。テリー様」
「……げほげほっ。しつれい。えっと、さっきもおはなしをさせていただいたのですが、ずびびっ。はあ。……そうがんきょうはとどきましたか?」
「いいえ。まだ届いておりません」
「……そうですか」
(連絡は行ってるはず。……忙しくて手が回ってない状態ってところかしら)
お手隙の際にだなんて困るわ。そんな事してたらいつまで経ってもこの人達は双眼鏡なしで見張る事になって、最終的に氷山にぶつかるのよ。いいわ。役立たずのキッドとリオンは今頃ベッドで寝てる事だろうし、頼りにならない騎士と兵士は放って、全部あたしが解決するから。
「わかりました。げほげほっ、さがしてくるので、ひきつづきおねがいします」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
サブミッション、双眼鏡を見張り番に渡す。その二。
あたしは溜め息をつき、マチェットを見上げた。
「マチェット、こんどは備品庫よ。つれてって」
「……マニュアルを失礼」
「ええ。どこかに備品庫があるはずよ。さっきパンフレットで見たわ。マニュアルにならもっとくわしく……」
「備品庫? そこにはどんな道具が揃ってるんだい?」
知らない声に振り返ると、スーツを来た小綺麗な老人がトロンボーンを持って立っていた。
「いや、すまない。その、あったらでいいのだが、細くて長いぼっこはないかね? 出来れば、私のトロンボーンの中に入るくらいの」
「恐れ入りますが、必要なご理由を」
「楽器の中に何かが詰まっているようなんだ。これでは演奏が出来そうにない」
老人が溜め息をついた。
「私はブル。……ドッグス兄弟を聞いたことないかい?」
「……」
マチェットがマニュアルを開いたところを、あたしが止めた。
「ずびっ。さすがにかかれてないわよ」
「……。あなたはご存知ですか?」
「せんせいからきいたことある。げほげほっ。きょうだいでハンザオーケストラにはいってるかたがただって」
「ハンザオーケストラ」
「……すごくゆうめいなオーケストラ集団よ」
「なるほど。すごいお方であるという事はわかりました」
「ははっ。なんだか言わせてしまったみたいで申し訳ないが、そうさ。有名なオーケストラ集団さ。メインホールで演奏もしているから、君も仕事がてら聴くといい」
各国を回って演奏しているハンザオーケストラ。その名を知らない者はいないというほど有名なオーケストラ集団。……まあ、マチェットのような無関心でマニュアルばかりに囚われてる人であれば、知らなくて当然かもしれない。もっと勉強なさい。
ブルの目があたしに向けられた。
「先生とは、学校の先生かな?」
「いいえ。げほげほっ。しつれい。ヴァイオリンのせんせいで、エーゼル・ドンキーマーチというかたに見ていただいておりまして……」
「エーゼルだって!? ははっ! これは驚きだ。私の兄がエーゼルと親友でね、昔は仲間四人でブレーメンで演奏家になると夢見て旅をしたなんて話をよく聞いたよ。この船にいるのかい?」
「ええ。よるに、……げほげほっ。しつれい。えっと、よるに、どこかのバーで演奏するとおっしゃっておりました」
「素敵な夜になりそうですな。出番がなければ、ぜひ兄とそのバーに行かなくては」
「お話し中失礼ですが、……長い棒でよろしかったですか?」
マチェットが訊くと、ブルがハッとした。
「ああ、いけない。そうだった。この後、私の出番があるんだ。それまでにこのミステリアスな事件を解決しなくてはならない。さっきトロンボーンのチューニングをしていたら、急に何かが詰まったような音が聞こえて、私の唾でも入ったのかと思ったら、そうでもないようなんだ。でもなんだか音が上手く出なくてね。針金でもいい。長い棒で突きたいんだ。頼めるかな?」
「探して参ります」
「助かるよ。では私は部屋にいよう。二等室だ。番号は1191号室」
「かしこまりました」
「げほげほっ」
マチェットが歩き出し、それについていく。あー、あたしが全部解決するとは思ったけど、だるーい。座りたーい。こんな苦労をあたしに押しつけるなんて、あの王子共まじで許さないから。もう誰も信用しないから。嫌いだから! 嫌いになるから! ふん! げほげほっ。ああ、咳が止まらないわ。もう、最低。デッキから廊下に戻ってきても、寒気がしてふらふらしながら歩いていると、見かねたマチェットがエレベーターの中であたしに声をかけてきた。
「恐れ入りますが、薬は飲まれましたか?」
「言われなくてもちゃんとやすんでるわ。あなたとわかれたあと、ちゃんとスープをのんでくすりをのんで、ゆっくりやすんだ。おかげでほんの少したいちょうがいいの。はっくしゅん!」
「先程も言いましたが、その状態で歩き回られては菌が移ります。診療室にマスクがありますので、歩き回られるのであれば、まずはそちらを受け取りに行ってください」
「だから、あたしくるしいのきら……」
「菌が移ります」
「……」
「この場所からでしたら、備品庫が近いです。備品庫で用を済ませた後、診療室までにご案内します」
「……そうね。わかった。あなたのいうとおりにする」
(あたしだって、好きで歩き回ってるわけじゃないわよ。全部、リオンのせいなの。はっくしゅん!)
三階に下りて、廊下を進み、備品庫にたどり着く。中を覗けば、薄暗くて狭くてじめじめしてて、まるで物置みたい。あたしはハンカチを口元に当て、くしゃみをした。
「へっくしゅん!」
「長い棒……」
(双眼鏡は……)
あたしは棚を一つ一つ慎重に見る。しかし、目に見える所に双眼鏡がない。
(大切なものほど隠れてたりするのよね)
あたしは下の荷物箱の蓋を開けた。
(無いわね)
もっと奥を調べてみる。
(えーと……)
「……マチェット、ランプはない?」
顔を上げると、既にマチェットがあたしにランプを差し出していた。
「どうぞ」
「……ありがとう」
受け取り、少し咳をして辺りを見回す。
照明があるとはいえ奥まではよく見えない。物がありすぎるのよ。何でもあるのは良い事だけど、もっと分別するべきだわ。いざって時、見つからないわよ。あたしはランプを当てて奥の方に目を凝らしてみる。
(あ)
何かがきらんと光った。
(あの箱、ガラスみたいなのが入ってる)
無造作に置かれた箱の蓋を開けると、あたしの目が輝いた。やったわ! 双眼鏡が三つ入ってる!
(あたし、よくやったわ!)
あたしは双眼鏡を二つ持ち、予備の分をあたしの首に引っかけた。念のためよ。ここに置いておくよりずっと安心する。
「マチェット、いきましょう。あったわ」
「そうですか。それは良かった」
「あなたは? 長い棒はあった?」
「……」
マチェットが紐のついた布をあたしに見せてきた。
「なにそれ」
「トロンボーン用の整備用品です」
「そんなのもあるのね」
「ええ。ここには様々なものがございます」
「げほげほっ。みつかったのならいいわ。いきましょう」
マチェットと備品庫から出ていき、また廊下を進む。廊下では沢山の人達が賑わい、談笑している。マチェットが人の少ない道を選び、あたしはその後ろをついていく。
(……まあ、綺麗なシャンデリア……)
くらり。
(あ! 目眩が!)
「っ」
――マチェットが無言であたしの体を受け止めた。
「……大丈夫ですか?」
「ええ。ありがとう。はあ。……めまいが……」
「双眼鏡はマチェットが渡しておきます。あなたは部屋で休まれた方がいいかと」
「いいえ。だいじょうぶ」
「しかし」
「げほっげほっ! ……マチェット、しんぱいしてくれてありがとう。でもね、あたしはやらなければいけないの」
キッドもリオンもいない今、あたしが動かなければならない。この船さえ沈まなければ、あたしは幸福を手に入れる事が出来る。メニーだけが幸せになる事は無い。あたしが幸せを手に入れるのよ! メニーがぴえん超えてぱおんと泣く未来を想像し、あたしは足を踏ん張らせた。
「あたし、がんばるわ!!」
「歩く度に倒れられては、他のお客様に迷惑です」
……。あたしはマチェットを見た。
「診療室にアルコールがあったはずです。とりあえずそれを上からかけてください。そしてマスクをしてください。今のあなたは歩く病原菌です」
マチェットがあたしを離し、あたしを支えた腕の菌を叩き払った。
「さあ、行きましょう。……鼻水出てますよ」
「……」
あたしはハンカチで鼻を拭いて、黙ってマチェットの背中を睨みながら歩き始める。
(……嫌い……)
あたしは思った。
(あたし、このクルー、嫌い!!)
親指の爪をマチェットだと思って、殺すが如く噛んでやる。ぎりっ! しばらくしてたどり着いた診療室のドアをマチェットが開けた。しかし、中には誰もいない。
「……。誰もいませんね」
マチェットがテーブルを見た。メモが残されている。『今外出しています。ご用の方はお待ちいただくとか、またいらしてください。とかなんとか。』
マチェットがアルコールスプレーを持ち、思いきり上下に振り、あたしに向かって全力でかけた。
「げほっげほっ! ちょ! なによ!」
「動かないでください。消毒です」
「ひどい! げほっげほっ! ママにいってやるから!」
「マスクをどうぞ」
「……ああ、どうも……」
あたしは渡されたマスクを受け取って――顔をしかめた。
「……なに、このマスク」
ネコの口がデザインされたマスク。
「これしかないの? あたし、もっとかわいいのがいい」
「他をお求めですか。でしたら……犬の口と、ロバの口と、ニワトリの口があります。どちらがいいですか?」
「……もういい。これで……。げほっげほっ」
あたしはマスクを装着した。
……あら、苦しくなると思ったけど、そうでもない。鼻元が暖かくなって、逆に呼吸がしやすくなった。……はあ。鼻水だけでも止まらないかしら。くしゃみって体力を使うのよ。連続でくしゃみをしたら頭がくらくらするんだから。
「ずびっ。マスクもかいしゅうしたし、その棒をブルさんにとどけましょう」
「……いらっしゃるんですか?」
「なによ。その目」
「あなたは歩く病原菌です」
「マスクしたからいいじゃない。そうがんきょうをみはり番にとどけるついでよ。これでまっすぐへやにもどるわよ。あなたもたくさんきゅうけいできる。それでいいでしょ?」
「……かしこまりました。それでは行きましょう」
マチェットがもう一回あたしにアルコールスプレーをかけた。
「それやめてよ! はっくしゅん!」
「嫌なら風邪を治してください」
「なによ! こものだとおもってだまってたら! いいこと!? あんた、おぼえてなさい! ママにいってやるからね! おもいきりチクってやるから! げほげほっ! おとなの力、みせつけてやるから! あーあ! もうしらないからね! うえっげほげほっ! あたしのしりあいにもあんたのこといって、IPアドレスぬいてやるから! 後悔してもおそいんだかんね! はっくしゅん!!」
あたしを無視するマチェットと1191号室に向かう。階段を下りていくと、ドレスを身にまとった華やかな娘たちが小走りでメインホールに向かう姿があった。
「私、素敵な殿方に声をかけられたらどうしましょう!」
「ああ、どきどきするわ!」
スーツを着こなした青年たちがメインホールへ向かう。
「こんなに華やかなんだ。何か事件があってもおかしい事ではない。今なら小説家の気持ちがとてもわかるよ」
「ナンパする準備はいいか?」
「もちろん」
ああ、いいわね。あたしも元気があれば、華やかなパーティー会場で、すっごく上手なダンスを披露できたのに。ああ、残念! 痛い! てめえ、ちょっと、肩がぶつかったわよ! この無礼者! 謝罪して! ……あら、素敵な紳士。ぽっ。あら、ウインクされちゃった! ああ! あたし、良い女だから! 困っちゃう! ぽっ! ああ! いけないわ! あたしには、クレアという恋人がいるのに! ぽっ! あたしは後ろに美人な令嬢がいた事に気付かず、勝手に頬を赤らめさせた。
「げほげほっ!」
「ああ、失礼、トレーニングルームはどこかな?」
「メインホールの左手にトレーニングルームへの看板がございます。そちらの看板に道が載っておりますのでよろしければ」
「ああ、見てみるよ。どうもありがとう」
「あら、見て、プティー。あのおくち、かわいいわ」
「あら、見て。メラ。あのおくち、ネコちゃんのおくちだわ」
あたしは足を止めた。あたしの前に小さな双子の姉妹が立ち塞がり、あたしを見上げたのだ。双子の一人は赤いドレスを着て、もう一人は白いドレスを着ていた。まるで赤い薔薇と白い薔薇みたい。少女たちは純粋な目をキラキラさせながらあたしを見つめていた。
「ねえ、お姉さん、そのおくちどうしたの?」
「ねえ、お姉さん、そのネコちゃんどうしたの?」
「げほげほっ。……あまりちかづかないほうがいいわよ。かぜがうつるから」
「まあ、お姉さん、風邪ひいてるの?」
「ぐあい悪いの?」
「ええ。うつしたらよくないから。……おかあさまは?」
「ママはトイレよ」
「わたしたち、これから子供の楽園にいくの!」
この船には子供の遊び場所もある。その場所の名前が、『子供の楽園』。
「そう。きをつけてね」
「お姉さん、お大事に」
「そうだ。おまもりをあげるわ!」
「そうなの。さっきつくったの!」
「どうぞ!」
「どうぞ!」
「……ありがとう」
粘土で作られたクマがお守りね。あたしはポーチバッグにしまった。
「大事にするわ」
「じゃあね! お姉さん!」
「またね! お姉さん!」
赤いドレスを着た少女と白いドレスを着た少女が去っていく。接客を終えたマチェットがあたしに振り向いた。
「人が多くなってきましたので、倒れないようお気をつけて」
「しょにちだもの。みんなはしゃぐにきまってるわ」
マチェットがあたしにアルコールスプレーを発射させた。
「ひゃっ!」
「消毒です。道が狭くなりますので」
マチェットがあたしの肩を掴み、人混みをかき分けて進んだ。
「失礼、通ります」
「げほげほっ」
「ああ、すまんが、ダーツバーはどこかな?」
「船の地下になります。メインホールにもクルーがおりますので、すみません、失礼」
「やだ、扇子を部屋に忘れちゃったわ」
「お前、そろそろ行こうよ」
「あん。お化粧が上手くいかないの。もう少し待ってて」
「君、カジノはどこかね」
「階段を下りた先にございますバーの下の階になります。失礼」
「きゃはは!」
「あははは!」
「ねえ、水着は持った? タオルも忘れないで」
「沢山日光浴しなきゃ」
「サングラスは忘れるなよ。美人の胸と尻を見ているのがバレるからな」
「昼から酒が飲めるなんて、ママに怒られちまうぜ」
「この契約が上手くいけばうちは安泰だ。いいか。気を引きしめるんだぞ」
「どうしよう。今、イケメンがこっちを見てたわ!」
沢山の人々を潜り抜けて、1191号室のドアの前にやってきた。マチェットがドアを叩くと、内側から開けたブルがマチェットとあたしを見て、愛想よく口角を上げた。
「ああ、待っていたよ。中へどうぞ」
「失礼致します」
「おや、お嬢さん、素敵なマスクをしているね」
「……こんなじょうたいでもうしわけございません」
「とんでもない。どうぞ」
あたしが先に入り、マチェットが入り、ドアを閉めた。マチェットの隣にいるあたしを見て、ブルが不思議そうな目で見てきた。
「つかぬ事を伺うが、君はこのクルー君の恋人か何
かなのかな?」
「はっくしゅん! ……ずみまぜん。もうしおくれました。あたくし、このふねのもちぬしであるアーメンガード・ベックスの娘のテリーともうします」
「ややっ!? あなたが、テリー様!」
ブルが驚きのあまり、目を丸くした。
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「ああ、ええ、まあ……」
「そうとは知らず、とんだご無礼を」
「とんでもございません。げほげほっ。せつめいがなくては、男と女はそのようなかんけいにみえるものです。ごほん。このクルーにはほかにようじがあるので、いっしょにこうどうしているだけですの。げほげほっ」
「さようでございましたか。いえいえ、とても仲が良さそうでしたので、ほんの冗談のつもりだったのですが。そうでしたか。テリーさま、大変失礼致しました」
ブルが改めて背筋を伸ばし、あたしを見た。
「社長には、我がオーケストラをお呼びいただき、誠にありがとうございますとお伝えください」
「ええ。ぜひともつたえておきます。あたくしもえんそうをたのしみにしておりますので。ぶえっくしゅん! ……はあ。きけたらですが……」
マチェットがアルコールスプレーをあたしに発射させた。
「ぎゃっ! なにするのよ!」
「消毒です」
「さっきもしたじゃない!」
「さっきも言いましたが、あなたは歩く病原菌ですので」
「ひどい!」
「ところで、棒は持ってきていただけましたか?」
ブルが訊くと、マチェットがトロンボーンの整備用品を差し出した。それを見て、ブルが感心したように受け取った。
「どうもありがとう。丁度これが欲しかったんだ。家に忘れてきたようでね。助かるよ」
金色に輝くトロンボーンをケースから出し、ブルがスライドの部分に入れてみる。
「ふむ。ここではないようだな……」
ラッパの口から入れてみる。なにかに突っかかり、押し込むと――赤い水が垂れた。
「ん? なんだね? これは」
ブルが顔をしかめ、もっと布を押し込んだ。ラッパの部分を下に下げ、ほんの少し振ってみると、ラッパの中から小魚の死体が数体落ちてきた。あまりの勢いにぎょっとして、あたしは一歩下がり、ブルも驚いて目を見開いた。
「わあ! こりゃ、驚いた。魚だったか!」
落ちてきた魚たちは既に死んでいる。それをブルが素手でそっと拾った。
「海に悪い事をしたな。きっとトビウオのように高く飛ぼうとして、気がつかないうちに私のトロンボーンの中に紛れこんでしまったのだろう。さっきまで外で練習をしていたものでね。ああ、可哀想に」
ブルがトロンボーンを置き、両手を握り締めた。
「女神よ、この魚達の来世は、幸せな生となりますように」
ブルがマチェットを見た。
「部屋を汚してすまないね。魚達を回収する袋はあるかね」
「ただちに掃除をする道具を持ってきます」
「ああ、私はそろそろ出番なんだ。これから三時間ほど演奏に出かけてくるよ。戻って来るまでに綺麗になっていたら有難いのだが」
「ええ。問題ございません」
「すまないね。よろしく頼むよ」
ブルがトロンボーンの中を専用のブラシで磨き、立ち上がった。
「それでは、テリー様。また後ほどお会い出来れば」
「ええ。たのしんで」
「そちらも」
ブルが部屋から出ていけば、マチェットの仕事が追加された。マチェットが忘れないように仕事内容をメモに書き、あたしに振り向いた。
「あなたに付き合えるのは見張り台までのようです」
「だいじょうぶよ。げほっ。どうせそのあとすぐへやにもどる予定だったから」
ついでにあたしと部屋の中にスプレーをかけた。
「行きましょう」
「……どうせあたしはあるくびょうげんきんよ……」
「嫌ならお部屋にお戻りください」
「……このあともどるもん……ちゃんともどるもん……」
あたし達はまた廊下に出て、今度は見張り台に行くためにエレベーターに乗る。エレベーターから贅沢な階段を優雅に上り下りする人たちが見える。
(まるでお城の階段みたいね)
目的地の階にたどり着き、エレベーターから広場へ。広場から廊下へ。廊下からデッキへ。ふう。そして、デッキ付近を歩き回る乗客たち。中には、美人の集まりが笑顔で談笑している。その顔をなんとか覗こうと、見張り番が躍起になっていた。
「くそう! 俺達に双眼鏡があれば……!」
「あ、なんだかあの金髪の姉ちゃん、良い尻を持ってそうな気がする!」
「なんだって!?」
「すげえ美人そうだ!!」
「なんだって!?」
「こんにちはぁー!」
あたしがガラガラの声を張り上げると、二人がこっちを見下ろした。
「おや、社長の娘様だ」
「なんて名前だっけ?」
「お前聞いたんだろ?」
「いちいち覚えてねえよ」
「ペリーではなかったな」
「セリー様じゃなかったっけ?」
「あ。そうだ。セリー様だ!」
「俺はさっき行ったから、お前行って来いよ」
「わかったよ」
ビルが下りてくる。
「こんにちは! セリー様!」
「……テリーよ」
「おっと、……こいつは……、……すみません」
「けほけほっ。……これ」
「あ! ありましたか!」
あたしは双眼鏡をビルに渡した。
「ひきつづき、みはりをおねがいしますわ」
「ありがとうございます! とても助かりました!」
「とんでもございませんわ」
サブミッション、双眼鏡を見張り番に渡す。
「ただ、おきゃくさまのかおをのぞく行為はやめてくださいな。げほんっ! みつかったら、クレームにつながりますので」
「も、もちろんです! 我々は見張り番です! そんなはしたないことは致しませんよ!」
(……こいつ、誰もいなくなったらやるわね。女の顔に点数をつけたがるタイプだわ)
「ありがとうございました! それでは、失礼致します!」
そそくさと戻っていき、ビルがレオナルドに告げた。
「ほら、双眼鏡だ!」
「あったのか!」
レオナルドがあたしを見た。
「ありがとうございます! セリー様!」
「だからテリーだっつーの……」
この美しい名前を覚えられないなんてどういうこと? あいつら、いかれてるわ。
(さて)
振り返ると、マチェットがあたしにアルコールスプレーをかけてきた。
「ぶは! げほげほっ! だからそれやめてよ!」
「部屋に戻られる事を勧めます。さっきよりも顔色が悪いです」
「……ええ。もどるわ。はあ。……ここまでありがとう。これはおれいよ」
チップを渡すと、マチェットがきょとんとした。
「これはなんですか?」
「ん? チップよ。みたらわかるでしょ?」
「要りません」
「え? どうして?」
「マチェットはクルーとして当たり前の仕事をしたまでです。チップはいただきません」
「あたしの感謝の気持ちよ。受け取らないのはマナー違反だわ」
「要りません」
「マチェット、これもクルーの仕事よ。渡されたら受け取るの」
「……そうですか。仕事であれば、ありがたく」
マチェットがあたしからチップを受け取る。
「ありがとうございます」
「そうじのしごとをふやしてわるかったわ。げほげほっ」
「ええ。全くです」
「……」
「マチェットは仕事に戻らなければなりません。あなたは真っ直ぐお部屋までお戻りください」
「……」
「それでは、さようなら」
マチェットが表情一つ変えず頭を下げ、アルコールスプレーをベルトにかけ、船の中へと戻っていった。
(……すぐ部屋に戻ろうと思ったけど、少し歩いたら気分が良くなってきた)
キッドもリオンもいないし、部屋に戻る前にもう一度船を回ってみようかしら。さっき行けなかった場所もあるし。
(マチェットの言う通りよ。あたしは歩く病原菌。風邪の菌を撒き散らすのは気が引けるけど、そうも言ってられないのよ。……マスクもしてるし、……大丈夫でしょ)
マーメイド号ツアーミッション、噂のトラブル箇所巡り。その二。
(とりあえず、まあ、ミッションクリアってことで、……見回りという名の散歩に行こう)
マーメイド号ツアーミッション、お散歩してから部屋に戻る。
(サリア、もう少し居眠りしててちょうだいね)
あたしは自分にかけた双眼鏡で遠くを覗き、また歩き出した。
――サリアがはっと目を覚ました。いけない。眠ってしまったようだ。テリーの様子を見なければ。目を擦って――ぼうっとして――目の前のベッドを見ると――もぬけの殻。
「……」
サリアがにこりと笑い、膝に置いてた本をぱたんと閉じた。
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そんな絶望に拍車をかけるように、親の再婚により明莉は月森三姉妹と一つ屋根の下で暮らす事になってしまう。義妹としてスタートした新生活は最悪な展開になると思われたが、徐々に明莉は三姉妹との距離を縮めていく。
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