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六章:高い塔のブルーローズ(前編)
第15話 侵入者は猫と来る(2)
しおりを挟むランチを食べた後、ニクスとコネッドにメニーを任せて、あたしはメニーのためにメニーの使う部屋を掃除する。あたしが自らやろうと思ったわけじゃないわ。コネッドに言われたのよ。あの部屋、長いこと使われてないからほこりがたまってると思う。ロザリー、メニーはオラ達に任せて、お前はあの部屋の掃除してあげてよ。シーツは洗濯室な。お姉ちゃん。ふへへ。お姉ちゃんだって。オラにもわかるべさ。オラにも実家にたくさんの家族がいてだな、父ちゃんがすげーんだ。畑がわんさかあってだな。うんたらかんたら。
(あたし、どうしてあいつのために部屋を掃除してるのかしら。畜生が。お姫様のメイドになった気分だわ。……あたし、メイドだったわ)
雑巾で床を拭いていると、生意気そうな裸足が差し出された。
「いいね。そのままマッサージもお願いしてもらおうかな。なんだか最近、体が痛くてさ」
「……」
「おい、メイド、聞いてるの? 未来の王妃様の親友の命令だぞ? 魔法使い様だぞ? よきに計らえ」
ぶちっ。
あたしはその足を掴んだ。
「うわっ!」
足の持ち主がベッドにころんと倒れたのを見て、あたしは足の裏に指をなぞらせる。こちょこちょこちょこちょ。
「ぎゃははははは!! ま、まって! あははは! それはだめだってば!!」
そいつがベッドを叩いた。
「あはははは! 君、ふざけっ、あははは!! ちょ、もう、ほんと、ぎゃははは! やめーー! あははは!!」
星の杖をくるんと回した。あたしが瞬きをすると、誰もいない。ふん、と鼻を鳴らして、天井に声をかける。
「一ヶ月で老けたの? ドロシー」
「もう少し優しくできないの? あのさー、猫は人間よりも年を取るのが早いんだよ。もっと労って」
「何が労ってよ。あたしのことを労りなさいよ。あたしこそ労働者よ。労れ。働く人に優しくしてよ。あたしがこの一ヶ月間、どんな思いで過ごしてきたと思ってるのよ」
「僕達の時間は先月で止まってるわけだ。いい機会だ。ぜひ時を戻そうじゃないか」
天井に貼り付いたドロシーが生活し、地面の床を拭くあたしが生活する。
「駆け落ち生活はどうだったかな? テリー姫様」
「からかいは結構。見たとおりよ。メイドって本当に大変なの。からかわれてもばかにされても、使用人だから口出しできない。ああ、もう嫌」
「いい提案がある。キッドと結婚してお姫様になるのはどうだろうか。口出しし放題」
「とんでもない」
「メニーは、この一ヶ月、何をしていたと思う? 人と会うのを拒み、準備をしてきた。朝昼晩に筋トレ。勉強。メイドとして潜り込む作戦をひたすら練っていた。あんなに一生懸命なメニーを見たのは久しぶりだ」
「ふん。あいつのお勉強虫のクセが出てきたわね。あたし知ってるわ。あいつ、紙とかノートに計画を書きたがるのよ。未来はきっとこういうふうになるの。今後はこんなふうになるの。こういう女になって、こういう生活するの。わたしの王子様が必ずいるわ。いつか迎えに来てくれるの。ラララ。はあ。そういうのに限ってあいつの好奇心が動き出すのよ。書いたからって何? 結局動かないと意味なんてないのよ」
「だから動いた」
「姉に迷惑をかけて? 本当にあいつどうかしてる。去れば追いかけてくる。去るものは追っちゃだめなのよ。あいつなんて特にろくなこと出来ないんだから追いかけても無駄なの。メニーに言っておいて。ついでに肉球を押し付けておきなさい」
「君はメニーをとにかく否定したがるよね。でも僕は知ってるよ。君はメニーと同じ立場になった時、メニーと同じ行動を起こすってね。いいや、メニーよりも頭の悪いことをするだろうさ。そして結局書いたリストが全て空想になってしまう。結果が生まれない。メニーは利口だ。逆算して考える知恵がある。君はどうだい?」
「あー。もう結構だわ。あいつの話をしてたらはらわたが煮えくり返りそう。ねえ、言ってるでしょ。あたし、あいつ、嫌いなの」
「君が好きなのは、アリスとニクスだけだろ」
「当たり前でしょ! 二人はあたしを決して傷つけたりしないし、アリスは金持ちのあたしからお金を取らないで帽子を無償でプレゼントしてくれるって提案するし、ニクスに至っては、あたしを救い出してくれたわ。アリスはあたしの理解者。ニクスはあたしの英雄よ!」
「屋敷ではみんなが悲しんでいるよ。ああ、テリーや、テリーや。せっかく王族になれるのに、あの子は一体どうしたの。何を迷うことがあるの。お姫様になれるのに。全部お前のためなのに」
「何がお前のためよ。ママに言っておいて。ママは結局王族の仲間入りがしたいだけでしょ。お願いだから元男爵夫人で満足してちょうだいって」
「男爵って、君のパパ?」
「そうよ。ママは元々伯爵家の生まれだったけど、パパは違った。ただの平民だった。でも、若い時に海軍に入って、いい成績を収めたの。それから、パパは大佐という地位から男爵として国から表彰された。いいこと。あたしのパパはね、誰よりもすごいのよ。みんなの英雄なんだから。だからアーサー様だって認められたんだわ」
「アーサー、……ゴーテル陛下の父親だね」
「キッドとリオンでいう、おじいちゃんってやつよ」
「テリー、その件に関して話がある」
「奇遇ね。ドロシー、あたしも話があるの」
地面の床を拭くあたしが生活し、天井に貼り付いたドロシーが生活する。
「正直、驚いたよ。メニーから君がニクスと城へ駆け落ちしたと聞いて。灯台下暗し作戦。ニクスはなんて知恵が回るんだろうね。彼女が12歳の時も思ってたけど、とても良い子そうな顔して、なかなかの悪知恵を働かせるよ」
「そのおかげで、あたしは誤解を解いたわ。偶然、パパの上司が秘書で、あたしのことを知ってたの。事情を話したら、テリーの捜索を取りやめてくれたわ」
「はーん? そういうことだったのか。僕はてっきり、君がキッドとの結婚を決意したのかと……」
「決意するわけないでしょ。ばか」
「人にばかって言っちゃいけないんですー! ばかって言ったほうがばかなんですー! この、ばーか!!」
「お黙り!!」
「街は大にぎわいさ。テリー様キャンペーンとか言って、赤毛の女の子にサービスするんだ。アメリアヌも髪の毛を赤毛に染めて買い物してたよ」
「あいつのやりそうなことよ。言っておいて。お前は赤毛じゃなくて、緑の毛を大事になさいって」
「アリスは君が消えた初日こそ心配していたものの、二日目からはけろっとしてたよ。テリーにちなんだ帽子を考えて、これがまた大評判のデザインだ。そろそろ完成されるんじゃないかな」
「アリスがきちんと好きなことをしてくれてるなら心配ないわ。あたしが心配なのはもう一つよ」
「もう一つって?」
「しらばっくれるんじゃなくってよ。ドロシー。キッドとリオンはいつ帰ってくるの?」
「テリー、……それがね」
ドロシーが立ち上がり、天井からぶら下がった。
「わからないんだ」
「……は?」
「おかしな話だよね。たかが花一本摘みに行くだけで、遠くの町まで行って、一ヶ月近く帰ってこないなんて」
逆さまのドロシーがあたしを見上げた。
「何かが起きてるらしい。けれど、何が起きてるのかはわからない」
「……ご自慢の水晶は?」
「もやがかかるんだ。誰かの魔力に邪魔されてるらしい」
「魔力」
あたしは眉をひそめた。
「魔法使いの仕業ってこと?」
オズ。
「わからない。わかるのは、キッドとリオンが帰ってこない事実だけだ」
「あんた、手伝いに行けないの?」
「テリー、言ってるだろ?」
ドロシーが微笑んだ。
「僕は城下町から出られない」
「大丈夫よ。ちょっとくらい出たって。あんたなら、ちょちょっとリオンの元まで行ってすぐに戻ってこれるでしょ」
「出来たら苦労しないさ」
「また魔法使いのルール?」
「そういうこと」
「ルール、ルール。ねえ、そんなこと言ってる時間は無いの。もう少しでタイムリミットよ。15日になれば、スノウ様は楽園行き直行なのよ」
「そうなったらゴーテル陛下が荒れて、とんでもないことになるね。国が滅んで、世界が滅ぶ」
「他人事みたいに言わないでくれる? メニーだって危うくなるのよ。いいの?」
「そうは言っても、僕は待つことしか出来ない。今の君のようにね」
「キッドがいるのに、何かに苦戦してるってこと?」
「キッドだって、苦戦したりするさ」
「いつも余裕たっぷりのあいつがね」
「とにかく、僕らには待つことしか出来ない。話はそれからだ」
「ドロシー、あたしはリオンを信じてるわ。信じてる。けど、もしもよ。もしも間に合わなかったら」
「さあね。同じ未来を辿るか、また別の未来に行き着くか。リオンだってわかってるはずさ」
「……」
「まだなっていない未来を考えるのはよしたほうがいい。不安が不安を煽るだけだ」
「……いざって時は、最終兵器が残ってるわ」
ドロシーが眉をひそめた。
「最終兵器?」
「ドロシー、実は、クレアって……」
その時、扉が開いた。慌てて振り向くと、メニーがはっと目を丸くして、後ろに下がった。
「お姉ちゃん?」
「……」
「びっくりした。ここで何してるの? ……あれ、ドロシーもいたの?」
「にゃあ」
ドロシーがメニーにすり寄った。それをなで、メニーがあたしに顔を向ける。
「メモ帳取りに来たの。お仕事、書いて覚えないと」
「メモ帳なら道具室にもあるし、書いて覚えるのはいいけど、メイドって基本掃除仕事よ。体で覚えたほうが早いわ」
「書かないと忘れちゃうよ」
メニーがリュックを机に置き、中からメモ帳とペンを取り出した。雑巾をバケツにいれたあたしに顔を向ける。
「お掃除してくれてたの?」
「ほこりが溜まってのよ」
「……ありがとう」
「バケツの水を捨てに行くから、あんたはニクス達のところに戻りなさい」
「……場所わかんない」
「……地図もらった?」
「もらってない」
「……あとでコネッドに言っておく」
「ドロシー、また後でね」
バケツを持って部屋から出ると、メニーも後ろからついてくる。よたよたと下水管へ水を投げる。バケツをしまって、手を洗って、はい。おしまい。
(疲れた……)
隣にはメニー。
(はあ……)
「コネッドとニクスと、どこにいたの?」
「……えっとね、廊下のお掃除してた。……噴水のあるお庭が見えるところ」
「なるほど。行きましょう」
庭につながる廊下に向かってメニーと歩いていく。メニーが石で出来た廊下をまじまじと見つめ、美しい宮殿をきょろきょろと眺める。あまり見るんじゃないの。田舎人と思われたらどうするのよ。
廊下の角を曲がると、向こうにセーラがいた。
(あ)
目が合い、そらし、メニーを壁に引っ張る。
「メニー、壁に」
「……あれ、セーラ様? グレゴリー様の娘様の」
「そうよ。この宮殿で生活してるのよ」
「……そうなんだ」
「頭下げてなさい」
「はい」
あたしとメニーが頭を下げていると、セーラがあたしの前で立ち止まった。顔を上げると、セーラが仁王立ちであたしを睨んでいる。何よ。
「……ロザリー」
「…… 何の御用でございますか。セーラ様」
「……。……。……わたしのお部屋の片付け、してちょうだい」
(……今の間は何?)
「片付けですか?」
「そうよ」
「片付けでしたら、セーラ様のメイドに……」
「いいからやってよ。ここのメイドなら、わたしの言うこと大人しく聞きなさい。来ないとお母様に言うわよ」
「……今、新人の面倒を見てます。しばらくしてからでもいいですか?」
セーラがメニーを見た。美しいメニーに、セーラの目がさらに鋭くなった。
「……誰」
「新人です」
「……」
黙るセーラを見たメニーがニコリと微笑んで、お辞儀をした。
「メニーと申します。セーラ様」
「……あ、そう」
視線があたしに移る。
「早くして」
「かしこまりました」
セーラが来た道を戻っていく。角に曲がれば、あたしとメニーが目を合わす。
「なんか、セーラ様って、小さい頃のお姉ちゃんみたい」
「どこがよ」
「人を睨むところ」
「あたし、人を睨んだことないけど」
「なんか、言い訳考えてるみたいだったね。用事がないのに無理矢理作って、お姉ちゃんを呼んでる気がした」
「はあ? そんなわけないでしょ」
「そんなわけあるよ。私も同じことしたことあるもん」
「……いつ?」
「ないしょ」
いらっ。
「セーラ様はね、ちょっと気難しいのよ」
「ほら、お姉ちゃんそっくりだ」
「ふざけてないで持ち場に戻るわよ。で、あんたを送り届けたら、あたしはセーラ様のところに行かなきゃ」
「わかった。任せて。お姉ちゃんの分まで働くから!」
(どうせ長く続かないわよ。持って三日ね)
「行くわよ」
「うん」
あたしとメニーが、再び廊下を歩き始めた。
(*'ω'*)
二人に事情を話し、メニーを任せて、箒を持ってセーラの部屋に行けば、――セーラが部屋の真ん中で、譜面台を置いて、ヴァイオリンの練習をしていた。
「……」
「よく来たわね。ロザリー」
上から目線な言葉。どこがあたしに似てるのよ。あたし、もっと優しいじゃない。メニーには。
「さっさと片付けてちょうだい」
「……」
(どこを?)
隅々まで綺麗になった部屋を眺めると、角にぬいぐるみの山があった。なんか、……無理矢理置かれた感じがする。なんというか、元々置いてあったわけではなく、あからさまに今置きました、という感じ。
(……気のせいか。この生意気娘がわざわざそんなことするわけないし)
あたしは箒を壁に立てかけ、ぬいぐるみを棚の上に片付けていく。セーラはあたしに背を向け、ヴァイオリンを弾く。前教えた時よりテンポを少し速めて練習していた。しかし、きちんと音が鳴らせている。
(そうそう。そうやって練習するのよ)
難しいポイントもちゃんと弾けている。ただ、抑揚がないだけ。ただ、棒のように弾いて聴こえるだけ。仕方ないわ。子供だもの。
(これでよし)
ぬいぐるみが片付け終わった。あたしは振り向く。
「セーラ様」
「っ!」
セーラが演奏を止めてあたしに振り返った。
「片付けが終わったので、持ち場に戻ります」
「まだよ!」
セーラがクローゼットの扉を叩いた。
「わたしのクローゼットの中も整理して!」
「……あたしが触っちゃいけないものがあるんじゃ……」
「誰が触ったって一緒でしょ! 早くして!」
「……」
大きな扉を開けば、広い広いクローゼットの中が見える。奥まで続いているが、すでに整理整頓はされている。あたしはどれを整理整頓したらいいわけ?
「セーラ様、もうすでに他のメイドがやってるようで……」
「まだよ!」
セーラが宝箱を持ってきた。中にはがらくたが詰まってる。
「これを整理して!」
「……」
「仕方ないわね! 座りながらでいいわよ!」
あたしが座り、その横にセーラが座り、ヴァイオリンを構えた。きりっとして、再び演奏を始める。やっぱり抑揚がない。まあ、今は指を鳴らす段階だし、仕方ないことだけど。
(……)
ちらっと見ると、強調するところ、だらんと音同士を繋げるところ、弱くなるところ、全部の表現を無視している。
「セーラ様」
セーラが演奏を止めて、あたしを見た。
「手を慣らすことは大事だけど、表現はきちんと意識してやらないと、本番で困りますよ」
「……」
「……ヴァイオリンはいつ始めたの?」
「……去年……」
「……記号くらい習ったでしょ」
「記号、よくわかんない」
「……音楽の教科書ある?」
セーラがヴァイオリンを置いて、教科書を探す。すると、扉が勝手に開いた。振り向くと、マーガレットがキャロラインを抱え、部屋を覗き込んでいた。
「セーラ。……あ、ロザリー」
「こんにちは。マーガレット様」
「こんにちは!」
「マーガレット、音楽の教科書知らない?」
「音楽の教科書? あの音符のやつ?」
「うん」
「えっとね」
マーガレットがセーラのいる場所まで走り、教科書を棚から出した。
「はい」
「ん」
「セーラ様」
セーラがあたしに振り向いた。
「ありがとうは?」
「……」
セーラがマーガレットを見て、不満そうに言った。
「ありがとう」
「うん」
マーガレットがあたしに振り向いた。
「ロザリー、お掃除に来たの?」
「ええ」
「ニクスも来るの?」
「ニクスは中庭です」
「なんだ。じゃあ会いに行ってくる」
「お掃除中です。あまり迷惑をかけないように」
「わかった! キャロライン、めいわくかけちゃ、だめよ!」
マーガレットが部屋から出て行くと、セーラがあたしの隣に戻ってきて、教科書を渡した。
「ん」
「はい。ありがとう」
ぺらりとめくった。ほら、記号載ってるじゃない。
「ほら、これはクレッシェンド」
「何それ」
「だんだん強くなるの」
「……ふーん」
「じゃあ、これは?」
「何それ」
「デクレッシェンド。逆よ。だんだん弱くなるの」
「……ふーん。……これは?」
「アクセント」
「何それ」
「これがついてたら強く弾くの」
「……ふーん。……何これ。『P』って書いてある」
「ピアノ」
「何それ。ピアノの番?」
「これがついてたら弱くなるの」
「わけわかんない」
「貸して」
宝箱とヴァイオリンを交換する。
「これを踏まえてやったら、こうなるの」
あたしはワンフレーズだけ弾いてみる。セーラが目を見開いた。
「はい」
「……ん」
ヴァイオリンと宝箱を交換する。
「今までどうやって弾いてたの」
「……先生に言われて」
「記号は習わなかったの?」
「徐々に覚えていくって」
「先生に言われた通りにしてたの?」
「……うん」
「あのね、楽譜っていわば設計図よ。設計図、描いたことある?」
「……ある。設計図でしょ。マーガレットと作ったことある」
「設計図って、全体の地図みたいなものでしょう? 最初はここから始まって、最後はこう終わる。楽譜も一緒。この音から始まって、流れがあって、この音で終わる。その間に、ここを強くしてほしい、ここを弱くしてほしい。そしたらいい感じに曲が出来上がるから、それを弾いてねって言ってるのよ」
「……はあ。……なるほど……」
「……先生は教えてくれないの?」
「先生は発表会ごとに変わるの。今の先生は、記号が読めて当たり前って思ってる。だから変なこと言ってくるの」
「変なことって?」
「もっと作曲者の気持ちを考えてって。この曲は、初恋のナターシャを想う作曲者の気持ちが出ているの。もっと切なくて、淡い感じで弾いてって。ねえ、ロザリー、ナターシャって誰。わたし、ナターシャって女なんかと会ったことないから、そんなの知らない。切なくて淡いって何? 窓ガラスが割れるくらい弾きなさいって言ってくるけど、割れるわけないじゃない。ヴァイオリンの音で割れるほどヤワなガラスはお城では使ってないでしょ」
「それくらいの気持ちで弾けってことよ」
「切なくて淡い想いって何?」
「……ロザリー人形の話を引っ張るわよ」
セーラの顔が一気に青くなった。
「何よ! いきなり!」
「やっぱりあんたも知ってるのね」
「わたし、怖くないんだから! ……。……本当よ!?」
「ロザリーはお姫様に塔に閉じ込められた。その間、友達だったのは王子様だけ。ロザリーも王子様も次第に惹かれ合う。なのに、時間は来て、王子様は帰っていく。セーラがロザリーだったらどう思う?」
「……わたしだったら?」
「そうよ。セーラ様の前には素敵な王子様が現れる。そして友達になってくれる。でも会えるのはお姫様が眠ってる間だけ。その間だけ、セーラ様は素敵な王子様と遊べるの。でも、時間が経ったら王子様は帰らなきゃ。お別れをする時、セーラ様ならどう思う?」
「……わたしなら、帰らせないわ。お姫様なんて放っておく」
「お姫様がロゼッタ様だったらどうする?」
「……」
「そうよね。ばれてはいけないの。その素敵な時間はセーラ様の唯一の自由時間なの。だから、それを守るためにも、王子様は帰らなくてはいけない。その背中を見て、セーラ様ならどう思う?」
「……」
「でも、明日になったらまた会えるの。だって、お姫様は眠るんだもの。その時間になれば、王子様が来てくれる。そう思うと、なんだかわくわくしてこない?」
「……」
「胸にある『もやもや』と『わくわく』した感じ。なんとも言えないその感覚が、切ないってことよ。淡いっていうのは、……まだあなたには難しいと思う。言ってもわからないから、淡いって気持ちは放っておいていいわ」
「……放っておいていいの?」
「ええ。そればっかりは、セーラ様がもう少し大きくならないと理解が出来ないと思う」
「……ロザリーはわかるの?」
「ええ」
「淡い気持ち?」
「痛いほどね」
「……わたしもわかる?」
「もう少し大きくなったらね」
「……ふーん」
「言ってるでしょ。この曲、まだあんたくらいの年齢には難しいのよ」
「……でも、ここ、出来るようになったの。……聴いてて」
「ええ。宝箱の整理が終わるまで聴いてるわ。焦らなくていいから、ゆっくり弾いてみなさい」
「……うん」
セーラが腕を弾くと、ヴァイオリンの音が響く。不器用な音だが、練習したのだろう。成果が見える。あたしは宝箱を整理しながら、耳をヴァイオリンに傾けた。
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