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五章:おかしの国のハイ・ジャック(前編)
第12話 10月7日(3)
しおりを挟む――17時。
昼に出たはずなのに、もう秋の夕暮れが沈みかかっている。
(ああ、綺麗な夕暮れだこと)
昔のあたしなら思ったはずだ。
「この夕暮れに向かって、あたしのヴァイオリンを演奏してあげるわ! きっと、なんていい音色なのかしらって、夕暮れもうっとりしちゃうんだから!」
「はいはい。うっとりうっとり」
自分に自分で返事して、家の扉に手を伸ばす。ぐっと回せば、鍵がかかっていた。
(ん? じいじ、まだ帰ってきてないの?)
キッドのうざいストラップが付けられた合鍵を使って中に入る。
「ただいま」
声を出しても誰もいない。静かな空気だけが流れる。リビングに歩けば誰もいない。明かりをつければ、リビングが明るくなる。
(……さて、食材を入れておこう)
キッチンに入り、買ってきたものを冷蔵庫に詰める。バスケットはキッチンの壁にかけておく。財布はバスケットの中に入れておく。
罪滅ぼし活動サブミッション、シチューの材料を買ってくる。完了。
「あー。疲れた」
疲れた。
「本当に疲れた」
しんどい。
「お腹空いた」
じいじはまだいない。
「お菓子無いかしら」
冷蔵庫の上にある小箱を持って蓋を開ける。中にはスナック菓子が入っていた。
(ああ、でも夕飯前か……)
食べたら、じいじのシチューが美味しく食べられないかもしれない。
「時間的に、そろそろ帰ってくるわよね」
あたしは小箱を元の位置に戻した。
(よし、遊ぼう。自由時間だわ)
「……何しよう」
あ、そうだ。
「キッドの部屋に本があったわね」
読んだことのない面白そうなやつだった。
「そうだそうだ。ちょっと読もう」
ここに来てからやることがなさ過ぎて、キッドの部屋の本を借りては読んでいる。カードゲーム、ボードゲームも然り。
「……どうしよう。ゲームしようかな」
独り言を呟きながら二階に上がる。廊下を歩き、一番奥のキッドの部屋の扉を開けた。夕暮れが部屋を照らしているから明かりをつける必要はなさそう。中に入って棚を探索しようと歩き出した瞬間――キッドの部屋に、変な違和感。
(ん?)
何かが違う。
(なんだ?)
棚。
(変わってない)
机。
(変わってない)
ベッド。
!!!!!!!!!!!!
「あらっ!」
あたしは息を呑む。きらーん! と目を輝かせる。獲物を見つけた。
キッドのベッドを見つめ、思わず、言葉が漏れる。
「これは……! 毛布っ!」
キッドの家具の中で唯一羨ましいと思える、キッドが毎年使っている寝心地抜群の毛布が、ベッドに出されていた。
(あたしが寝た中でも、すごく心地よかった安物の毛布!)
(それが)
(それが!)
キッドのベッドに出されている!
「寒い時期だものね」
じっと、ベッドを見下ろす。
「秋だもん。毛布を被ると温かいのよ」
あたしの部屋に用意された毛布も、すごく寝心地がいいのだけど、
「しばらく、堪能してなかったわね」
そっと、触れてみる。
「うん。毛布だ」
顔を埋めてみる。
(はっ……。これは……!)
太陽の匂い!!
(じいじ、洗濯したのね)
ああ、そういえば、今日は朝からもそもそ外でやってた気がする。
「何で毛布があるんだろう」
ああ、分かった。
「寒い時期だし、設置したのね」
ああ、そういうこと。
「キッドが帰ってこないから、洗濯して、いつでも帰ってこれるように設置しただけ」
じゃあ、
「あたしが使ってもいいわよね?」
だって、
「キッドは帰ってこないわけだし」
にんまりと、あたしの口角が上がって、悪い顔になっていく。
「だってキッドは城にいるんだし」
「仕事してるし」
「城でもっといいベッドで寝てるわけだし」
「それならこの毛布が可哀想よね」
「よし、あたしが使う」
「今日からこの毛布はあたしのものよ」
「キッドのものはあたしのもの。あたしのものはあたしのもの」
「この毛布はあたしが貰ったわ」
「大丈夫。汚さずにちゃんと使ってあげる」
「使う人がいないんじゃ、毛布だって可哀想よ」
「そうよそうよ」
「ああ、あたし、なんて親切なのかしら」
靴を脱いで、キッドのベッドに倒れる。
「どっこいしょー!」
ぼふんと体が跳ねる。毛布があたしを受け止める。
「おっほっほっほっほっ!」
心地いい毛布に、笑いが止まらない。
「ああ! いい気分だわ! 暴れてやる! キッドのベッドで暴れてやる!」
猫の爪とぎのように暴れてやるわ!
「おーっほっほっほっほっほっほっほっ!」
毛布を抱きしめて、毛布の上で暴れて、毛布に入って、ごろごろと毛布を堪能する。
「ざまあみろ! キッド! 最初に毛布を堪能したのは、このあたし! テリー・ベックスよ!! おーーーっほっほっほっほっほっ!」
笑っていると、夕日が沈み、どんどん部屋が暗くなっていく。
(あー……)
暗くなっていく部屋で、頭がぼうっとしてくる。
(疲れた……)
体に血液が巡回して、ふわふわしてくる。
(……疲れた)
キッドのお下がりシャツを第三ボタンまで外すと、胸元が少し楽になる。
(あ、これ気持ちいいかも……)
毛布があたしを温める。
(ああ……これいい……)
ぼうっとする。
(これ、いい……)
あたしの瞼が下りてくる。
(ちょっと目を瞑るだけ)
瞑れば、
(また、開けばいい)
あたしは、眠りに落ちた。
( ˘ω˘ )
「テリー」
ママがわくわくした目で、あたしを見つめている。
「しっかりね。テリー、お母様は、席で見てますからね」
「うん!」
あたしは頷いた。アメリと目を合わせる。
「頑張ろうね。テリー」
「うん!」
「いい? 私たちは、二人で一つよ!」
「うん!」
抱きしめ合うと、呼ばれる。
「ほら、私たちの番よ! 行くわよ!」
「ええ!」
胸を張って、スポットライトの輝くステージへ歩いていく。ママが拍手する。観客席の人々が拍手をしている。初めての光景に、あたしの心臓が高鳴った。
(うっ)
手が震えた。
(何これ)
体が動かない。
(演奏しないと)
そうよ。あたしの演奏は世界一なのよ。
(ママ……)
ママが見つからない。
(え……どこ……?)
ママがいない。
(ママ……?)
「テリー」
アメリが横目であたしを見て、声をひそめて名前を呼ぶ。
「演奏して」
「あ……」
演奏しないと。
でも、
ママがいない。
知らない人達があたしを見てる。
(うっ……)
あたしの手が動く。
ヴァイオリンから音が出る。
アメリが歌いだす。
練習通りに歌いだす。
(練習通り……)
あ、
(音間違えた)
あ、
(また間違えた)
あ、
(あー)
きいきい、音が鳴る。
自分で聞いてても変な音が出る。
全然音楽になってない。
アメリの歌があたしの音に合わせて歌いだす。
(あー)
流れていく。
(あー)
流れて流れていく。
(あー)
言葉が出ない。
(あー)
演奏が終わった。
「ブラボー!」
ママが立ち上がって拍手した。周りの人達も、微笑んで拍手した。
(え?)
拍手してる。
(そっか)
あたしの弾くヴァイオリンは、きっとすごく良い音色だったんだ。だから皆、微笑んで、拍手しているのね。
アメリが笑顔であたしを見る。あたしも笑顔でアメリを見る。二人でお辞儀する。
ステージから出ていく。アメリが先に出て行って、あたしが出て行く瞬間、ステージの傍で聞いてた観客が、ぼそっと呟いた。
「とんでもなく、いかれた演奏だったな」
「ああ。耳がおかしくなると思ったよ」
「ベックス家のご令嬢達だ。良い顔しておけ」
そんな会話が聞こえた。
子供のあたしは、それを、はっきりと聞いた。
「素晴らしかったわ! 二人とも!」
ママが興奮したように、舞台裏に戻ったあたし達に言った。アメリは嬉しそうに飛び跳ねて喜んでいた。
「やった! やった! テリー! 私達の演奏が認められたのよ!」
「次はどこで演奏会を開きましょうか! ああ、きっと新聞に大きく載るわ! ラジオにもこの素晴らしい演奏が流れることでしょう! なんて素晴らしいの! 私の可愛い娘達!」
ママがあたしとアメリを抱きしめた。
「予算はあるわ。これからも沢山練習して、沢山演奏してちょうだい!」
「ええ! ママ! 頑張るわ!」
アメリが胸を張って頷く。……あたしも微笑んで、頷く。
「うん、ママ。頑張るわ」
でも、
「発表会は、また今度にしたいの。あたし、すごくいい音出しちゃうんだけど、でもさっきのは、ちょっと納得出来ない演奏に感じちゃって」
「あらあら、この子ったら、本当にプロの演奏者になってしまうんじゃないかしら! おっほっほっほっほっほっ」
ママが笑う。
アメリも笑う。
あたしは、
それから二度と、人前で演奏することはなかった。
「何よ」
スポットライトに当たり、一人ステージの上で俯く小さなあたしを、観客席から足と腕を組んで見つめる。
「それがあんたの実力よ」
下手くそ。
「世界一すごい演奏者って思って、弾いたんだものね」
それからも、ずっとそう思ってた。
「チャンスは必ず来る」
「あたしはすごい演奏者だから」
「世界一すごい演奏者だから」
「ヴァイオリンの才能が溢れて溢れて仕方ないお嬢様なのよって」
「そう思ってたんだものね」
分かってたくせに。
「下手くそ」
あたしは嘲笑った。
「下手くそ」
あたしは笑った。
「これから囚人達が働く工場に行って、プロのヴァイオリン奏者の演奏を聞いて、目を見開くことになるわよ」
あたしと全然音が違うって。
「これがプロなんだって驚愕するわよ」
あたしと全く違う音。
「お前のはきいきい鳴ってるだけよ。ヴァイオリンを殺してる」
分かってたくせに。
「なんで練習してたの?」
破産して、無一文になって、屋敷から追い出されるその瞬間まで、
「なんでヴァイオリンを握ってたの?」
そんなもの、
「売り飛ばしてしまえば良かったのに」
俯くあたしを、あたしは睨んだ。
ヴァイオリンを睨んだ。
世界を睨んだ。
「所詮、あたしは何も出来ない女の子なのよ」
お金さえなければ、
「ただの生意気なテリーよ」
ほら見てよ。
「ニコラちゃんはとっても良い子でしょ?」
お金がないのに、お仕事して、じいじの手伝いをして、
「とっても良い子でしょ?」
見習って。
「小生意気なテリー・ベックス」
「我儘なテリー・ベックス」
「牢屋に入れられて当然よ」
「不幸になって当然よ」
「最低最悪な性悪女め」
「死刑になって当然よ」
「知らないうちに罪を重ねて、またメニーに八つ当たりするんでしょ?」
「死ぬわよ?」
「死刑になるわよ?」
「こんな風になりたいの?」
ああ、でも、するんでしょうね。
「だって、その結果が今のあたしだもの」
後悔しても、もう遅い。
「忘れられたらいいのに」
「全部」
「ジャックに忘れさせてもらおう」
「嫌なこと全部」
「真っ白になれば」
「少しはあたしもいい女になれるでしょ」
「来なさい。ジャック」
「あたしの記憶を消しなさい」
「これも十分悪夢だわ」
「全部忘れさせて」
「全部消して」
「あたしが望んでるのよ」
「来なさいよ」
「忘れさせてよ」
「全部、忘れさせてよ」
「そんなこと言わないで」
小さなあたしの隣にレオが歩いてきた。口角を上げて、王子様特有の素敵な笑顔で、観客席のあたしを見る。
「俺のことも忘れる気?」
レオがくすっと笑った。
「それはいただけない」
「なんで?」
あたしはレオを睨んだ。
「忘れたい記憶なんて不必要よ。忘れてしまえば人生楽しく過ごせるわ」
「忘れちゃいけないこともある」
レオが小さなあたしの頭を撫でた。
「記憶があるから人は成長する。忘れたい記憶も、忘れたくない記憶も背負うから、人は前へ進めるんだ」
「綺麗事は結構。あたしは忘れたいの」
「俺のことも忘れちゃうの?」
「ええ。忘れる」
「寂しいよ」
「忘れたいの」
「そんなに俺が嫌い?」
「何よ。あんたがあたしを死刑にしたんじゃない」
「お前を死刑? しないよ」
「するくせに」
「しないよ。またお前、どんな夢を見てるの?」
「夢ですって?」
ふざけるな。リオン。
「お前があたしを死刑にするのよ。あたしがお前に恋焦がれていたのに、それを嘲笑うように、あたしを殺すのよ。あたしのことなんて、一切見てくれなかった。ずっと見てたのに、見なかったのはそっちじゃない。あの時のあたしには、お前だけだったのに。ずっとずっと見てたのに。どんな時だって、かっこいい人が目の前に現れたって、あたしにとっては、お前以上の人はいなかった。……だから見てたのに。ずっと、……ずっと、恋焦がれて、胸をときめかせて、……貴方だけを見ていたのに……」
「……じゃあ、もっと見て。ずっと見てて。俺だけを見てて。俺はいつでもここにいる」
「嘘つき」
「傍にいる」
ステージの上にいたはずのレオが、観客席にいるあたしの横から手を伸ばした。あたしの顎を指ですくって、自分のいる方にあたしの顔を向けさせる。あたしを、切ない目で見つめてくる。
「テリー」
レオが微笑んだ。
「好きだよ」
「嘘つき」
あたしは睨む。
「騙されない」
「俺に恋焦がれてるの?」
「焦がれてない」
「今そう言った」
「昔の話よ」
「一年前は昔とは言わない。かっこいい人が現れても、俺以上の人はいない。うん、そっか。そうだよね。お前、やっぱり、まだ俺のこと好きでいてくれてるんだ」
「好きじゃない。お前なんて、もう好きじゃない」
「俺は好き。テリーだけは特別」
「嘘つき。そう言って死刑にするのよ」
「大切にするよ。お前だけを愛でて、抱きしめて、優しいキスをしてあげる。全部お前だけ」
「嘘つき」
「俺にはお前だけだよ。テリー」
「嘘つき」
「愛してるよ。テリー。俺と結婚しようね」
「嘘つき」
「愛しいよ。俺だけのテリー」
「嘘つき」
「好きだよ。テリー。これ以上ないほど愛してる」
「……うるさい」
唸り、叫ぶ。
「誰があんたの誘惑になんか乗るもんか! レオのバーーーーーーーカ!」
「レオ?」
レオが、顔をしかめる。
「……誰それ」
「ねえ、テリー、今すぐ起きて。話がある」
(んん……?)
眉をひそめて、聞いたことのある声が聞こえたと思って、深呼吸をする。
(……あと五分……)
「テリー」
(何よ……。あたしはすごく寝心地のいい毛布で寝ているのよ……。あたしを起こさないで……。あたしの睡眠の邪魔をしたら……殺す……)
少し硬くなった毛布をぎゅっと抱きしめると、毛布があたしの肩に触れた。
「テリーってば。ねえ、起きてよ。大切な話なんだ」
(んん……? 大切な話……?)
なんか妙に聞いたことのある声ね……。
(誰の声……?)
(あれ……?)
(あたし今どこにいるっけ……?)
(ママ……?)
(サリア……?)
(じいじ……?)
そっと、あたしの瞼が上がった。視界がぼやけている。ぼうっとすると、焦点が合ってきた。
(ん?)
視界が真っ暗。
(ん?)
なんか毛布が硬い?
「え?」
ぼうっと、呟く。
(毛布が人間みたいな形になってる)
(胸板?)
(人間がシャツ着てるみたい)
(あれ?)
(あたし、着てたシャツ脱いだっけ?)
(ん?)
(首が見える)
(人の体?)
(あたしを抱き締めてる)
(ん?)
(……誰?)
顔をしかめて、眉をひそめて、視線を上に上げる。
(ん……。……眩しい……)
明かりがあたしの目に入る。焦点が合う。目を凝らし、よくよく見つめる。
その先に、
笑顔のキッドが、天使の如く、にこにことあたしに微笑んでいる姿が見えた。
「――……」
(ああ)
「これは悪夢ね」
そう言って、また目を瞑り、すやあ、と呼吸を始めると肩を掴まれる。ガタガタガタガタガタガタガタガタと、体が揺らされた。
「え……? えっ? え? え!?」
何これ、地震!? また雪の巨人が現れたの!?
「いつまで寝ぼけてるんだ? お前は」
「はへ?」
ぽかんとして瞼を上げる。もう一度、焦点を合わせる。目の前には、……あたしと一緒にベッドにごろんと寝転がるキッドがいる。
――『キッド』がいる。
「……え?」
「テリー、おはよう」
「え?」
「ねえ」
キッドがにこにこしたまま、素敵な笑顔のまま、低い声で、頭が追い付いてないあたしに質問した。
「レオって誰?」
「え?」
「レオってだぁれ?」
「え?」
「だあぁあれ? レオって?」
「え?」
「浮気したの?」
「うわ……え?」
「浮気かぁ」
「え?」
「くくっ。やっちゃったか……」
俺がのんびりしてたせいだね。
「寂しかったんだね。テリー。分かるよ。俺に構ってほしかったんでしょ?」
でも、もう大丈夫。
「沢山構ってあげるから」
「ね?」
きらりんと、キッドの目が光ったと思えば、キッドが起き上がり、あたしの足を引っ張った。
「ひぎゃっ!?」
(え? え? 何? 何事?)
呆然と目を見開き、だんだん頭が覚醒してくる。
「……え?」
ちょっと待って。
(なんでキッドがいるの?)
ちょっと待て。
(なんでキッドに足首を掴まれてるの?)
ちょっと待て。ちょっと待て。ちょっと待て。
(これは現実?)
ちょっと待て。
(だって、キッドは、城で、仕事してるんじゃ……!?)
みるみる冷や汗が出てきて、あたしの血の気が下がってきた頃、あたしの靴下を、するするとキッドが脱がした。
「さ、テリー?」
覚悟は良い?
「遊ぼうよ」
言い放ち、キッドが口を開けた。そして、あたしの足を下から上まで自らの舌で、つーーーーーーと、なぞり出した――直後、あたしは大きな悲鳴をあげた。
ひぃいいいいいいいいいやぁああああああああああ!!!!
その気持ち悪さに、そのくすぐったさに、そのねちゃねちゃする感覚に、足がすくみ、震え、体ががたがたと震え、揺れ、首がすくみ、背筋がぞわぞわして、足の指がピンと伸びて、手の指が痙攣する。眠気は一気に覚めた。
「き、きき、き、キッドーーーーーーーー!!」
キッドの舌が動く。れろれろと動く。
「キッド、キッド、キッド! だめっ! だめっ! だめっ!」
れろれろと動く。
「やぁあああ! 待って! 待って待って待って!」
れろれろと動く。
「待て待て待て待て待て待て待て!!」
れろれろと動く。
「いいいいいいいいいいいいやああああああああああああああああ!!! みいいいいすたあああああぶぃりいいいいいいいいいいい!!!!」
全力で叫ぶと、廊下から走ってくる音が聞こえた。一瞬、扉が揺れ、びくともせず、それを見たキッドが嘲笑った。
「無駄だよ。細工したからね」
「キッド!! 開けんかい!!」
じいじの怒鳴り声が聞こえて、あたしは必死にベッドを這いずる。
「じいじ! びりっ…! みす、助けて!! みっ、じ、じいじ!!」
「こら、逃げない」
「ひっ!!」
逃げようとすればキッドの手がよりあたしの足首を掴んできて、舐めてくる舌がより動いた。
れーーーろーーー。
「ひいいいいやああああああああ!! やめろ! このやろおおおおおおお!!」
キッドの舌がまた動く。れろれろと動く。
「やめて! いや! いや! いや! いや!!」
れろれろと動く。
「やっああぁあああ!! くすぐったいのいやあああああああ!!!」
悲鳴をあげると、さらにれろれろと動く。キッドの舌がくすぐってくる。
「やだっ! やめてっ! やだっ! やだあ! やだってば!! やだ!!」
がちゃがちゃとドアノブの音が聞こえるが、じいじが部屋に入ってくる気配はない。しかしキッドの舌は動く。さらに動く。あたしの弱い所をめがけて、動く。
「あっ! あっ! いやっ! あっ! だめっ! あっ! やめっ!」
れろれろと動く。
「んんんんんんんぅううんんんんんっ……!!!!!」
体が震え始め、目からは涙が出てくる。
「うっ! うぇええっ! ふぇっ……! うええええん……! えええんっ!! ええええん!!」
本格的な情けない泣き声をあげると、キッドが舌を止めた。
「くくっ。もう降参? ハニー?」
キッドが優しく囁き、あたしの足を放して、あたしの上に覆いかぶさるように体を倒して、震えるあたしを抱き締めた。おまけにキッドの手があたしの頭を優しく撫で出す始末。
「よしよし。テリー。分かったか? 浮気なんてもう駄目だぞ?」
なでなで。
「よーしよし」
「でめぇ! ゆっ……許じでっ……ひっ……なるものか……! ……ふぅっ……ぶつって、ひっ……潰してやる……! ひっ……!」
「ああ、怖いこわーい。潰したいならどうぞご勝手に」
なでなで。
「よーしよし、んー、……はー。泣かないで。テリー。……いい匂いだね。お前。……よしよし」
「ふえええっ……! ぢぐじょう……! ぢぐじょう……! ひっ……! ひっ……!」
「そもそも浮気するお前が悪いんだぞ? ふふっ。でも、もう浮気する必要もないからね? ほら、俺、ちゃんと帰ってきたでしょ? いっぱい構ってあげる。いっぱい喋ってあげる。お前だけだよ? テリー、愛してる」
「う、浮気っで、何のごどよ! ひっ……! ひぃんっ……! ひいいんっ!」
「ふふっ。お前泣き顔も可愛いね。鼻水垂らして間抜け面。でも、お前ならその顔も見惚れちゃうよ。テリー、ただいま。くくっ。ああ、可愛い……。……やわらかい……。ふふっ。よしよし。んー。くくっ。……よしよし……」
あたしの頭をなでなでと、いやらしい手つきで、それこそ舐めるように撫でてくるキッドに嫌悪感と悔しさと惨めさで体を震わし、涙と鼻水をだばだば流すと、ようやく部屋の扉が開いた。
「キッド!!」
じいじがすさまじい怒り顔でキッドの部屋に入ってきた。あたしの目に希望が蘇る。
(来た! 救世主! ざまあみろ! キッド!! やったれ! やったれ! じいじ! あたしの足を好き勝手に舐め回したこのクソ王子を泣かせるまでこてんぱんのボコボコにしてしまえ!!)
あたしが泣きながらにやりとした直後、キッドの目がぎろりと鋭くなり、あたしを放し、見えない速さで腰の剣を抜き、じいじの首にその刃を向けた。じいじの動きが止まる。あたしも驚いて止まる。
(なっ……!?)
「二人の再会を邪魔するなんて、いい度胸だな。じいや……」
キッドが殺気のある目でじいじを睨み、じいじが静かにキッドを睨んだ。キッドの表情は冷たいまま。
「あのさぁ、俺はテリーに酷いことはしないと誓ったよ。でも、テリーの周りに何もしないとは言ってない」
剣の刃が、またじいじの肌に近づく。
(こいつっ……!)
ビ リ ー に 何 す る の よ !!
あたしはベッドから抜けて立ち上がり、ぎっ! と殺意を込めてキッドの背中を睨んだ。
「てめえ! 急に帰って来たと思ったら何!? 小便臭いクソガキの分際で失礼極まりないのはあんたでしょ! よくもすやすや眠るあたしの美しい足を舐めてくれたわね! さっさとビリーから離れなさい!」
「テリーは黙ってて……」
「黙るか! さっさと剣をおしまい! ビリーが何をしたってのよ!」
「お前がここにいることを黙ってた!」
キッドが吐き捨てるように怒鳴る。あたしは舌打ちして、キッドに言う。
「あたしが黙ってって言ったの。あんたの顔見たくないから黙っててって。さあ、剣を鞘におしまい。早く」
「嫌だね」
「キッド!」
「テリーはどうであれ、じいやは王族に仕える身分だ。だとしたら、自分の身のわきまえ方も分かっていると思っていたよ。まさか、王子の俺に隠し事をするなんてね? しかも、こんな重要なことを……!」
テリーがこの家に居候しているだなんて。
「俺は母さんから聞いたんだ。じいやじゃなくて、母さんにね。仕事がひと段落ついた、そのタイミングで……」
――そういえば、テリーの姿が見えないわねえ? キッド?
――そろそろ手紙を出そうと思ってるんだ。うんとキザな言葉を使ったやつ。くくくっ。
――ああ、そっか。あんた、家に戻ってないから知らないのね。
――ん? 何が?
――テリーがあの家に今月だけ居候してること、知らないでしょ。ぷーくすくすくす!!!
悔しそうにキッドが俯いた。
「だから、急遽、じいやに、すぐに帰ると連絡を寄こしたんだ」
キッドが顔を上げて、じいじを睨んだ。
「伝えてくれていたら、俺はもっと早く仕事を完璧にこなして帰ってきたよ!! 愛しいテリーに会いにね!! せっかく一ヶ月も! この家で寝泊まりすることになってて! 俺も国に帰って来た! このタイミングで! なんで! なんで知らせなかった!! なんで黙ってた!」
そんなことだから、
「俺の愛しいテリーが、浮気するんじゃないかーーーーー!!」
「何?」
じいじが眉をひそめて訊き返すが、あたしは即座に首と手を振る。
「してないしてないしてない! あたし、何もしてない!!」
「本人はこう言っている」
「本人はしててもしてないって言うんだよ!」
ちゃき、と剣が音を鳴らす。
「じいやなら腕の二本や三本! 四本や五本! テリーが理由で無くなっても! 惜しくはないよね! 大丈夫だよね!?」
「あんた馬鹿!? 人間の腕は二本しかないのよ! キッド! やめなさい!! 今すぐにやめなさい!!」
「浮気したのはテリーの方だ!!」
キッドがすごい剣幕で怒鳴り、じいじに剣を構えたまま、煮えたぎる怒りに歯をくいしばった。
「許さない……! テリーが俺以外に浮気するなんて、絶対許さない!!」
「だから!! 浮気なんてしてないわよ!!」
「じゃあレオって誰だよ!!」
「知り合い!」
「しーりーあーいー!?」
キッドの手に力が込められ、鋭い目つきのままあたしに振り向く。
「浮気する女の典型的なパターンだ。友達とか誰々繋がりの知り合いとか言って、愛を育むんだ。……許さない……。許さない許さない許さない! 浮気は許さないって、言ったよね!? 俺、言ったよね!?」
じいじにまた振り向く。
「じいや! テリーの傍にいながらのこの失態! 責任は取るんだろうな!?」
「キッド! やめなさい! あたしは何もしてないって言ってるでしょう!」
「レオって言った! 寝てたテリーがレオって言った! キッドじゃない! レオって言った! 俺はもう怒ったよ! 怒ってるんだよ! 本気でガチでマジで出島ですごく怒ってるんだよ!!」
よくも連絡しなかったな。よくもテリーのことを教えなかったな。よくも俺を騙してくれたな。二人とも。
「ビリーは死罪! テリーは奴隷! 一生俺の奴隷にしてテリーが15歳になったら無理矢理結婚してやる! 王子命令だ! 王子の言うことは絶対だ!!」
「落ち着かんか。お前はもう……」
じいじが呆れた声を出すと、ぎらっ、とキッドがじいじに目を見開いた。
「落ち着けだと!? じいやが悪いんじゃないか! 俺に連絡しないから!」
「それは悪かった。だがのう、若者の間には老人は入れんものでな」
「うるさいうるさいうるさい!! レディが浮気するのは、大抵愛が足りなくて構ってほしくて寂しいから行うんだ! テリーは寂しかったんだ! そうに違いない! 連絡をくれたら俺は一目散にこの家に帰ってきてテリーを愛でたよ! 愛して愛して愛したよ! レオって変な奴に浮気なんてしない! 俺だけを見ていたはずだったのに!」
「だから、ただの知り合いだってば」
「うるさいうるさいうるさい! テリーが恋をしていい相手も! 浮気をしていい相手も! 愛していい相手も! 全部、全て、オールで、世界で一人! 俺だけだ!!」
「あんたね、今年でいくつになると思ってるのよ……。馬鹿なこと言わないで。……面倒くさい」
「面倒くさい!?」
どーーーーーーーん!
キッドがとうとう火山を噴火させ、無表情になる。
「あーあ。言っちゃった。俺、傷ついたよ。それはそれは、すごく大変大層異常に尋常じゃないくらい桁違いにとんでもなくべらぼうに半端なく途方もなく並外れて度外れて傷ついた。あーあ。もうどうなってもいいや」
じいじの首に刃が少し食い込む。じいじが唾を飲んだ。それを見て、あたしははっとした。
「キッド!! てめえ、この野郎!!」
「浮気じゃないならさぁ」
キッドが静かにあたしに振り向いた。
「お前、俺に愛を囁けるよね? 究極な口説き文句で俺を口説けるよね?」
口説けなきゃ、
「じいやの首を落とす」
「さようですか。仕方ない。貴方様がそれを望むなら、私は構いませんぞ」
じいじが覚悟を決めたように息を吐き、そっと目を閉じた。
「じいじっ……!」
あたしは目を見開き、目が本気のキッドを睨む。
「キッド……!!」
「なあに? テリー?」
キッドが微笑む。あたしは睨む。そして、……叫んだ。
「キッドだああああああああい好き!」
(今は、とにかく!)
あたしがビリーを助けるのよ!!
「あたしにはキッドしか見えない!」
「キッドかっこいい!」
「キッドが恋しい!」
「キッドが愛しくて仕方ない!」
「もうキッドに会って声を聞いたら神社とお寺と神殿とお城を一日で建築しちゃうくらい興奮しちゃう!」
「キッドが好きすぎて芋のお菓子が髪の毛にくっついてても取って食べちゃうくらいキッド好きよ!」
「キッドの肩にバナナが一個ついててもそれを取って皮めくって食べちゃうくらいキッドが大好き!!」
「キッドの顔見たら最高にチムドンドンしちゃう!」
「キッドに会いたくて会いたくて体が震えちゃう!!」
「それくらい好きよ!」
「もっと好きよ!」
「好き好き好き好き!」
「本当にすごくすごく!」
「胸が高鳴って仕方ないくらい!」
「キッドが」
「どぅああああああいすき!!!!!」
――……。
「本当?」
ぽっ、と頬を赤らめて、キッドがあたしを見つめる。
「テリー、今の本当? 俺のこと好きすぎて、一日で建物建てちゃうの?」
「建てる建てる! もう興奮しすぎて一日でいっぱい建てちゃうの!」
「俺のこと好きすぎて、髪についてる芋のお菓子食べちゃうの?」
「食べる食べる! 取って食っちゃうわよ!」
「俺のこと好きすぎて、肩にバナナついてたら、取って食べちゃうの?」
「食べる食べる! 美味しくいただきます!」
「俺のこと好きすぎて、俺の顔見たら、チムがドンドンしちゃうの?」
「するする! どんどんドンドンしちゃう!」
「俺のこと好きすぎて、俺と会いたくて体震えてたの?」
「震える震える! ほらほら! 見て見て! 今もうこぉんなに震えてる!!」
「……大丈夫だよ。俺、もうお前の傍にいるんだから」
キッドが剣を下ろして、鞘にしまい、あたしに近づいて、そっと、優しく、白目のあたしを抱き締めた。
「信じてるよ、テリー。……愛してる」
「おほほほほほほほほ!!!!!」
(吐きそう……。我ながら吐きそう……)
青ざめた顔でキッドに大人しく抱きしめられる。
「テリー。会いたかった。……驚かせてごめん」
「おほほほ……。……いいのよ……。……そのままさっさと城に帰りなさい……」
「何言ってるの。せっかくお前がいるんだから、仕事が無かったらこっちに帰ってくるよ」
「いや……城にいて……」
「気を使ってくれてるんだね。テリーってば、優しい。お前、本当、好き。……俺も大好きだよ。テリー……」
(ああああ……)
キッドの体から身を少しずらして、やれやれとのんびり首をさするじいじを見る。
「……じいじ」
呼ぶと、じいじが首を振る。
「手に負えん」
(ううっ……!)
あたしはうなだれて、げっそりしながら耳元で愛を囁いてくるキッドの声を聞き続けた。
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