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一章:貴族令嬢は罪滅ぼし活動に忙しい
第18話 サブミッション、遂行
しおりを挟む――ドアを叩いた。
「すみません」
声を出した。
「道に迷ってしまったの。誰かいませんか?」
ドアを叩いた。
「ママとはぐれてしまって、困っているの。電話を貸してくれませんか?」
また声を出して、ドアを叩いた。すると 、ドアが開いた。開けたのは――杖を持って、足を引きずらせた紳士。
「おや」
紳士が微笑む。
「これはこれは、お嬢さん、どうしたのかな?」
その親切そうな顔を見て、あたしは瞬きをする。
(あれ)
この人、見たことある。
(あれ……)
――やあ、お嬢さん。なにかお探しかな?
――ああ、スターなフラワーか。
――スターなフラワーだが、私の家にあるんだ。良かったら分けてあげよう。
「……」
――すぐそこの家なんだ。好きなだけ取っていくといい。案内しよう。
――さぁ、行こう。
あたしは、にたぁ、と口角を上げる。
「あの、道に迷ってしまって」
(こいつだ)
「電話はありますか?」
あたしは思い出す。一気に思い出す。眠っていたであろう記憶が、一斉に蘇る。
――おいで。
同じ声。同じ体型。同じ笑顔。
(こいつだ)
あたしの足がすくむ。
(怯むな)
怯んではいけない。
「電話、もしあったら、貸してもらえませんか?」
紳士が眉を下げた。
「可哀想に。さあ、中へ入って。電話ならいくらでも貸してあげよう」
あたしは家の中へと入った。紳士がドアを閉め、あたしに微笑む。あたしも微笑み返す。気づかれてはいけない。足はガタガタと震えている。恐怖でおしっこが漏れそうだ。ああ、怖い。恐怖を感じる。心臓がぶるぶると震えている。逃げ出してしまいたい。そんな衝動に駆られる。
(でも今ここで逃げたら、アメリが助かる可能性は下がる)
(メニーは今も屋敷でアメリの帰りを待っている)
これがクリア出来れば、未来回避への道は必ず開かれる。
(大丈夫よ。あたし)
あたしはここで死んだりしない。
(絶対に死なないわ)
あたしは回避してみせる。
(キッドを利用して)
利用しまくって、
(絶対、生きて、ここから出る)
紳士があたしと廊下を歩き、足を引きずらせ、声をかけてくる。
「疲れただろう。親御さんと離れて、怖くなかったかい?」
「不安でいっぱいでしたわ。ここ、広場から離れてて、戻りたくても戻れなくて、助かりました!」
「広場のはずれだからね。道も複雑だし、迷ってもしょうがない道だ。ここに辿り着けて良かったよ」
紳士がリビングへのドアを開ける。
「電話をする前に、紅茶でもいかがかな? アップルティーなんてどうだろう?」
「あたし、お紅茶は大好きなの!」
「そうかい。じゃあ、美味しいのを淹れてあげよう」
「ありがとうございます! あなたのような親切な方にお会いできて本当によかった!」
「はっはっはっ! 大袈裟だよ。私はただ、ここで静かに暮らしているだけの紳士さ。久しぶりの客人だし、これくらいはさせてほしいんだ。さあ、そのソファーへ座って」
「ありがとう」
あたしはソファーに座る。盗聴器を見えないところに貼りつける。
「わあ、ふかふかなのね!」
「ふふ。そのソファーの質は最高なんだ。紅茶を入れている間、存分に堪能すると良い。その後、電話の場所を案内してあげるからね」
「本当にありがとう!」
「どういたしまして」
紳士はそう言って微笑み、キッチンへ向かう。気配がリビングから消えたのを感じ、あたしは立ち上がる。
(ねえ、場所わかる?)
あたしは赤い靴を見下ろす。
(導いてくれない?)
赤い靴は動かない。
(……畜生)
あたしはてくてく歩き出す。
(いいわよ、こうなったら手あたり次第歩いてやる)
あたしはてくてく歩く。
(畜生。覚えてないわよ。こんな昔のこと)
助けられた日、あたしはこの家の部屋を確かに見たけど、
(死体がショックで覚えてないわよ)
(あたし、あいつの目から視線を逸らせなかったんだもの)
あたしはてくてく歩く。
(あの青い目に)
充血に囲まれたあの青い目。
(キッド)
あたしは確信している。
(あの死体はキッドだ)
キッドが死ぬはずの作戦Cが、新たなプラン、作戦Dに変更された。
(これで、何かが変わるのだろうか)
あたしは誘拐されなかった。誘拐されずにキッドと出会った。あたしはてくてく歩く。
(白い扉)
赤く染まる白い扉。
(それだけは覚えてる)
あたしはてくてく歩く。
(キッドがあたしをかばうのよ)
怯えていたあたしをかばう。キッドは刺される。
(あいつはここで死ぬ)
あたしはてくてく歩く。
(ごめんね)
流石に、人の死まで回避出来ないわ。
(ごめんね、キッド)
あたし、他人が死ぬ運命を変えてみせる、なんて考えるような良い子ちゃんじゃないのよ。
(せいぜい、あたしとアメリを助けてから死んでいってね)
そこで、あたしの足が止まった。
(ん?)
足が動かなくなった。
(あれ?)
気が付くと、目の前には白い扉。
「あった」
ぽかんと、思わず呟く。
(あたし、やるじゃない!)
あたしはドアノブを捻って開けてみる。鍵はかかってない。
(確認できた)
そして、少し来た廊下を戻り、ドレスのポケットに入ってた石を、窓ガラスに向けて投げた。窓ガラスが割れる。紳士に音で気づかれるが、窓ガラスが割れたら突入の合図。キッドが集めた人々がドアから、窓から、家の中へ侵入して、助けに来る。
案の定、紳士の叫び声が響き渡った。
「お、お前ら! 誰だ!!」
(今だ)
あたしはその隙に白い扉に入り、見覚えのある地下への階段を駆け下りる。
(ここだ)
見覚えがある。
(引っ張られた)
入る時に紳士に。
出る時にキッドに。
(ここにアメリが、誘拐された子供たちがいる)
あたしは一気に駆け下りる。が、大事なことを忘れていたことにここで気づく。
(……そうだ。キッドは、確か、乱暴にドアを蹴ってきた)
これが、その理由か。地下室のドアに頑丈な錠が五つ。
(……どうしよう……)
一歩後ずさった瞬間、叫び声が響く。
「うわあああああああああああああああああああああああああああ!!」
暴れる声、剣の音、銃の音、ぎょっとして、上を見上げる。
「俺の楽園に手を出すなあああああああああああああああああああ!!」
叫び声が反響して、地下室がぶるぶると揺れる。
(ひっ!)
あたしの足がすくむ。
(これ、覚えてる……)
あたしが逃げようとしたときに、犯人が叫んでいた言葉。
『俺の楽園に手を出すな』
そして、包丁を握り、こう叫ぶのだ。
『「邪魔する奴は殺してやる!!」』
――殺される!!!
「テリー!」
名前を呼ばれ、ぎょっとする。振り向くと、上から落ちるようにキッドがドアの前に下りてきた。地面に華麗に着地し、キッドが顔を上げる。
「地下室は!?」
「それが、あの、鍵が!」
「退け!」
二歩下がると、キッドが、ふっと息を吸って、次の瞬間、鍵がついていたドアを一気に蹴飛ばし、無理やりこじ開けた。
中には12人程度の子供たち。その中に、怯えるアメリの姿があった。
「君たちを助けに来た! 上には応援がいる! 早くここから出るんだ!」
キッドが高らかに叫ぶと子供たちもキッドを味方だと判断し、我先にと慌てて部屋から走り出した。アメリが怯えて、うずくまっている。あたしはアメリの背中を叩いた。
「アメリ! アメリ!!」
「やだ! ママじゃないと、わたし……!」
「アメリ!!」
あたしが怒鳴ると、アメリが顔を上げる。
「え?」
あたしの顔を見て、アメリが目を見開く。
「テリー!?」
「アメリ! 怪我は!?」
「ああ、テリー!!」
アメリが泣き顔であたしに抱き着いた。
「わたし、すごく怖くて……!」
「そんなの後でいくらでも聞くから、さっさと逃げなさい!」
「でも、わたし、こ、腰が抜けて……!」
「アメリ、あれ見て!!」
「え?」
あたしはキッドに指を差す。キッドがきょとんとする。アメリがきょとんとする。キッドを見る。アメリの目がハートに変わった。
「きゃ! 超好みのイケメン!!」
「立て!!」
あたしは無理矢理アメリの腕を引っ張る。無理矢理立たせる。
「ぎゃ!」
アメリが悲鳴をあげる。しかし、あたしは気にせず、アメリの尻に向かって勢いのまま手を振り下ろした。
「走れーーーー!!」
ぶわぁちーーーーーん!!
「ぎゃあああああああああああ!!!!」
アメリが悲鳴をあげて、慌てて駆け出す。
「ふえええん! もうお嫁に行けないじゃないーー!」
泣きながら、馬のように駆け出す。あたしはふう、と息を吐いた。
「よし」
あたしはやり遂げたようだ。
罪滅ぼし活動サブミッション、アメリアヌを助け出す。
(クリアよ)
周りを見回す。
「キッド、姉さんで最後よ。誰も残ってない」
「よし、きた!」
キッドが笑う。
「撤退だ! おいで!」
キッドがあたしに手を差し出す。あたしはその手を掴もうと手を伸ばした――、
――その瞬間、
「お逃げください! キッドさま!!」
上からそんな叫び声が響き渡る。キッドがはっと部屋のドアに顔を向けた。凄まじい音で階段を駆け下りてくる音がそこから聞こえてくる。
「テリー!」
「っ」
キッドが走り出し、あたしの腕を引っ張った。だだっ広い地下室の角にあたしを押し付け、キッドがその盾になる。背中に隠される。唯一の出口からは、誰かが駆け下りてくる音。
(この音だ)
凄まじいほどの駆け下りてくる音。
(この音)
追いかけてくる音。
(ああ、嫌だ)
あたしは耳を塞ぐ。だけど聞こえてくる。
(この音)
ドドドドドドドドドドドドドド。
(この音)
ドドドドドドドドドドドドドド。
(気持ち悪い)
ドドドドドドドドドドドドドド。
(怖い)
ドドドドドドドドドドドドドド。
(怖い……!)
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド。
音が、止んだ。
突然、しんとする。
突然、沈黙が訪れる。
突然、静寂が訪れる。
静かになる。
あたしとキッドが黙る。
キッドがドアを睨む。
あたしはキッドの背中に隠れて、体を震わせる。
無音になる。
無音になる。
――ドアが、吹っ飛んできた。
「きゃああああああ!!!」
体を縮こませると、キッドが瞬時に腰に備えていた剣を抜いた。
「せい!」
キッドが縦に腕を振ると、吹っ飛んできたドア板が真っ二つに割れる。あたしとキッドの両側の壁に、勢いよく飛ばされた。
「ひぃ!」
(キッドの剣)
玩具じゃない。本物だ。
(本物の、剣……!?)
あたしはがたがたと体を震わせ、手で口を押さえる。キッドが剣を再び構える。ドアがあった入り口から、紳士の手が伸びて出てきた。
「なんてことをしてくれたんだ……」
紳士の細くなった右腕が伸びた。一本、二本、三本、四本。
(え?)
紳士の左腕が出てくる。一本、二本、三本、四本。
(……え?)
それは確かに誘拐犯の紳士だった。
それは確かに誘拐犯の紳士だったものだった。
その姿は紳士のものではなかった。
その姿は人間のものではなかった。
さっきまでの細身の紳士の姿ではなく、爆発したように筋肉が膨れ、体が何倍も大きくなり、皮膚が破れ、肌が白くなり、片方の腕が四本ずつになって、触手のようにうねらせ、白くなった頭はガイコツのように小さくなり、皮膚の中から目玉が飛び出る。
それは紳士だったもの。
それは、人間の姿には見えなかった。
(なに……?)
あたしはばけものを見る。
(これはなに……?)
紳士だったものの口の皮膚が動いた。
「僕の楽園を返せええええええ!!」
化け物のような叫びに、あたしは血の気が下がる。おばけを目の前で見た感覚だ。頭がパニックになり、足がすくんで、動けなくなる。だが、キッドは怯まない。あたしの壁になり、剣を構えたまま、パニックになるどころか、にこやかに口角を上げた。
「なるほど、やっぱり中毒者か。何度見ても、その姿は、非常に異常で無情で過剰で不快でしょうがないね」
(中毒者?)
なに言ってるの、こいつ。なんでこんなににこやかなの? なんで笑顔なの? こいつもパニックで頭がおかしくなった?
しかし、キッドは冷静に紳士だったものを見つめる。
「その様子じゃ、上には怪我人がいるな。三十人近く集めたってのに、いやいや、こりゃまいったな」
キッドがおどけた声で言ってみせる。紳士だったものの口の皮膚がぱくぱくと動く。
「俺の、おれの楽園、ぼく、返せ、子供、可愛い、子ども、返せ、お前の、お前が奪った、子ども、返せ、返せ、返せ!」
「テリー、意識ある?」
あたしはキッドの足を軽く蹴った。
「大丈夫だね。良かった」
キッドがにかっと笑う。
「そこで俺のこと見ててくれる? 愛しいお前に見られてたら、死ぬ気がしない」
「あんた……頭おかしいわよ……」
あたしは掠れる声で呟く。
「あんなの、見て、よく、そんな、冷静でいられるわね……」
「慣れてるもんでね」
キッドが一歩前に出て、剣を構える。あたしは慌てて手を伸ばす。
「や、やめなさい! あんた、殺されるわよ!」
「だから見ててよ」
「死ぬところを見てろっての!?」
「くくっ。死なないよ。死ぬわけにはいかない。だって、俺の後ろにはテリーがいる」
俺が死んだら、テリーが殺されてしまう。
「守る相手がいるのといないのとでは訳が違う」
集中力も違う。
「ま、見惚れてて。俺、すげえ強いから」
「わあああああああああああああああああああああああ!!!!!」
紳士だったものが叫ぶ。キッドが薄く微笑む。
「かかっておいで、中毒者。俺が消毒してあげよう」
そう言うと、キッドがステップを踏み、紳士だった生き物に走りこむ。紳士がキッドを睨み、四本の腕を上げる。キッドにめがけて振り下ろす。キッドが目を見開き笑顔になる。キッドの腕が振られる。
直後、紳士だったものの四本の腕がパカリと斬られ、地面に落ちる。膨らんだ皮膚の腕から、噴水のように血が噴き出た。紳士だったものが悲鳴を上げる。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
紳士だったものが悲鳴をあげた隙に、キッドがもう一方の四本の腕も斬りつけた。
「ぴぇっ」
紳士だったものがぽかんと声を漏らす。またパカリと斬られ、血が噴き出す。
「きゃあああああああああああああああああああああああ!!!」
紳士だったものの腕が血に染まる。
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
キッドが剣で斬り刻む。皮膚がぷつんぷつんとニキビが潰れるように潰れていく。その潰れた穴から血が噴き出る。
「ああああああああああああああああああああああああ!!!!」
地下室が紳士の血で染められていく。
「おぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ!!!」
紳士だったものが腕から血を。皮膚から血を。キッドに斬りつけられるたびに、噴水のように、噴き出す。噴き出す。噴き出す。
「残念ながら、俺は容赦しないよ」
キッドが冷たい目を向け、紳士だったものの膨らんだ右足を斬りつけた。切断される。
「ぴぇっ」
切断されるが、皮膚が膨らんで再生される。キッドが再生途中の段階で、左足を斬りつけた。
「ぱぁっ」
( ᐛ) パァ。
紳士だったものが倒れた。
「ぱぁああああんっ!」
足の皮膚が膨らむ。ぶくぶくに膨らんでいく。あたしは目を見開いて、口を押さえて縮こまる。キッドが倒れた紳士だったものを見下ろし、睨んだ。
「返して! ぱあ! 返して! ぼくの楽園! ぱあ! 子ども! ぱあ! 可愛い子ども! ぱああ! 返して!! 返して!」
ぶくぶくと足の皮膚が再生していく。キッドが腰のベルトから、何かを握って、腕を上に伸ばす。
「消毒!!」
振りかざす。
紳士の顔の皮膚に刺さる。
キッドの握っていた『注射器』。
中に入っていた液体を、紳士だったものにぐっと入れ込んだ。
「ぱ」
紳士だったものの口の皮膚が、痙攣しだす。
「ぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱ」
紳士だったものがぱらぱら震えだす。
「ぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱ!!!!!!!!」
( ᐛ) パァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!
「えい」
キッドがもう一度、注射器を打った。
「ぱぱぁ」
紳士だったものが呟き、ぴくりと、一度痙攣して、動かなくなった。皮膚がぶくぶくと動き、やがて溶け出す。血が溢れる。血が溶かすように膨らんだ皮膚が溶けていく。
紳士だったものが、人間の形に戻っていく。両腕はきちんとあって、両足も残っていて、ただ、顔の皮膚は、ガイコツの上に一枚付いているだけのように、薄く、ひらべったい。
動かなくなる。
一度目の世界のキッドの代わりに、紳士が動かなくなる。
「ふう」
キッドが起き上がる。
「消毒完了」
部屋に、大人たちが入ってくる。
「キッドさま!」
「ご無事ですか!!」
「大丈夫、大丈夫。怪我一つない」
紳士の返り血に染まったキッドがケタケタ笑う。
「その人、運んでくれる? 薬は打ったよ」
「御意!」
「はあー。疲れた。疲れた」
キッドが微笑む。
「一件落着」
呟いて、キッドがくるりと、あたしに振り向く。返り血だらけのキッドが、あたしに近づく。その顔は、明るく、にこやかだ。
「テリー」
びくっ、とあたしの肩が揺れる。キッドは、にっこりと微笑み、訊いてくる。
「怪我はない?」
「……平気」
「そう」
キッドがあたしを見つめる。
「怖かった?」
「……怖かった」
「ふふっ。正直でよろしい」
「……キッド」
「ん?」
「ちょっと動かないで」
ポケットからハンカチを取り出すと、かかとを上げて背伸びをしてキッドの顔についた血を拭う。
「ん」
キッドが不快そうに眉をひそめた。
「いいよ、テリー。これくらい」
「顔くらい拭かせて」
「ハンカチが汚れるだろ」
「ハンカチは汚れるためにあるのよ」
「……多くの貴族のレディは、そう思ってるかな?」
「濡れた手を拭いたり、馬車から手を振る代わりにハンカチを風に当てるのはマナーの一環であり、婚約者の血を拭くのもハンカチの役割の一つだわ」
「ふふ、そう。なら、拭いてもらおうかな」
キッドは血だらけの手であたしに触れようとはせず、背中に両手を組み、そのまま屈んで顔だけをあたしに向ける。あたしのハンカチが血で染み込む。あっという間に赤く染まる。キッドが赤く染まったハンカチを見つめた。
「そのハンカチは捨てないとね」
「……洗えば、また使えるわ」
「捨ててよ。他の男の血が付いたハンカチを、大切なテリーに使わせたくない」
「……この期に及んで冗談を言えるなんて、すごいわね」
「そのハンカチさ、俺にくれる?」
あたしは首を傾げる。
「どうして?」
「一つ、口説き文句を言いたいところだけど、この血は真面目に危険なんだ。洗う使用人も可哀想。一度、俺に預けてくれる?」
確かに、こんなに赤く染まったハンカチを渡される使用人は可哀想だ。
「……わかった」
「ん」
キッドが血だらけの手を差し出す。あたしは差し出された手にハンカチを乗せる。
「……余計なお世話だった?」
「いいや。愛しいお前からの愛を感じたよ。ありがとう」
「……胡散臭い言葉は結構」
ちらっと、紳士に視線を向ける。
「あいつ死んだの?」
「いいや、死んでない。近づいちゃ駄目だよ」
「……誰も死んでないの?」
キッドが大人たちに振り向く。
「死人はいないだろ?」
キッドが聞くと、銀髪の男が敬礼して答えた。
「ふっ! ご安心を! キッドさま! 死人は一人もおりません!」
「怪我人は?」
「21人でございます!」
「ちゃんと手当てするように」
「御意!」
「ご苦労さま」
キッドが血まみれのハンカチを持って、自らのポケットに突っ込んだ。
「テリー、上に戻ろう。いつまでもこんな血にまみれた場所に居たくないだろ?」
「ええ。出来ることなら早くここから出たい」
「お姉さんと感動の再会も果たさないとね」
「……ええ」
あたしは歩き出す。キッドが歩き出す。大人たちが紳士を運ぶ準備をする。あたしは紳士を通り過ぎる。キッドが紳士を通り過ぎる。あたしは地下室から出る。キッドが地下室から出る。あたしは階段を上る。キッドが階段を上る。
(これでおしまい?)
死人は出なかった。
(キッドは死ななかった)
死人は出なかった。
(これで終わり?)
あたしは一段上る。
(そんなはずない)
だって、キッドはここで死ぬ。
(あたしをかばって死んだ)
あたしは一段上る。
(白い扉が赤く染まる)
キッドの血で赤く染まる。
(包丁で刺されて、)
(やがて、動かなくなる)
あたしは一段上った。
「テリー」
キッドの血だらけの手が、あたしの顎を鷲掴んだ。
「んっ」
後ろに体重が引っ張られる。
「きゃっ……!」
あたしの体を捕まえ、顎を掴み、返り血だらけのキッドがあたしの顔を覗き込み、くすくす笑いだす。
「テリー」
薄暗い階段の中、青い瞳があたしから離れない。
「これで契約は成立だ。俺はお前のお姉さんを助けた。事件を解決した」
充血した青い瞳が、あたしの目玉を引き寄せるように、見つめてくる。
「もう後戻りはできない。わかってるな?」
あたしは口を閉じて、キッドの目を見るだけ。キッドの青い瞳が、あたしの視線を放さない。
「愛しいテリー。俺の婚約者」
キッドが悪魔のように、微笑んだ。
「愛してるよ、テリー」
キッドが天使のように、微笑む。
「大切にするよ。テリーは俺の宝物だ」
そこに愛はない。空っぽの言葉だけが存在する。
「どんなことがあっても、守ってあげる」
その微笑みには、嘘があり、嘘はない。
(一体、何から守るわけ?)
訊けない。
それを訊いてしまえば、なにか、面倒なことに巻き込まれるような気がして、あたしは口を閉じる。それは、あたしが知る必要はない。
きっとこの契約もすぐに終わる。所詮、子どもの口約束だ。消えて無くなるまで、この肩書だけ背負っていればいい。
あたしは、キッドの婚約者。
「……離してくれない?」
あたしはキッドを睨む。キッドはにやける。
「俺の婚約者さまは、ずいぶんとシャイらしい」
キッドがあたしの顎と体から手を離す。
(最悪)
顎とドレスが血で汚れたわ。
(なにが、他の男の血がついたハンカチを使わせたくないよ)
あんたがばりばりあたしにつけたじゃない。
あたしは再び階段を上り出す。
「ねえ、テリー、次はいつ会える?」
キッドが訊いてくる。あたしは無視する。
「俺、ちょっと忙しくなっちゃうんだ。だから、予定を合わせて、デートに行こう。二人の仲を深めるためにも」
あたしは階段を上り切る。廊下に足をつける。
「大丈夫。俺、お前の屋敷には近づかないよ。屋敷の人たちが驚いちゃうし、お前に迷惑をかけたくないんだ」
あたしは廊下を進む。キッドが廊下に足をつける。――あたしは振り返る。
「ん?」
後ろにいたキッドが振り返ったあたしを見て、微笑んだまま、きょとんとする。
「どうかした?」
「いいえ」
あたしは白い扉を見て、肩から息を吐く。
「これで全部終わったんだなって、思っただけ」
「そうだよ。一件落着」
「そうね」
あたしは白い扉に背を向ける。
「本当に、終わったのね」
死人は出なかった。
キッドは死ななかった。
キッドは生きている。
あたしの背中を見て、にやにや笑っている。
(また歴史が変わった)
キッドが、生きている。
(でも、終わったんだ)
あたしはこの廊下を歩いている。
(終わったんだ)
返り血だらけのキッドがあたしの後ろを歩く。
(変なの)
歴史が変わった。
(……歴史って、変わるものなのね)
あたしは、呑気にそんなことを思って、光に向かって歩いていく。
白い扉は、キッドの血ではなく、紳士から出たであろう血で、赤く染まっていた。
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