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いきたいと思う場所
第十話 下灘ものがたり
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田園地帯を抜けると、線路脇の生い茂った草が車窓を隠す。
「ヒナミってさ。いっつもアクセサリー持ってるよね?」
窓の外を見ていたミホは、体をヒナミの方をむけた。
ヒナミは胸元から勾玉を取り出した。紐で首から下げ、服の中に入れていた。
「知ってたんだ。」
いつも首から下げていたけれど、外に出さないようにしていた。特に学校では。
「なにか、大切なものなんですか?」
チサトちゃんも、横からヒナミの勾玉をのぞく。
「うーん。昔ね、小学校に入る前、近所の砂浜にいったんだ。そしたら、亀が転がっててね、仰向けで。」
「亀って、仰向けになっても起き上がれるんじゃありませんでしたっけ。首の力で。」
チサトちゃんがいった。
「うん。そうらしいね。でも、その亀は起き上がれなかったみたい。」
「それで、それで。」
ミホが体を乗り出す。
「亀は海の方へ帰っていったんだけど、その後、波打ち際に落ちてた。」
「海に帰っていったってことは、海亀さんだったんですね。」
「見た目は海亀じゃないなんだけどね。手足があるし。」
そういいながら、ヒナミは正面を見た。通路を挟んだむかい側の座席。緑色の椅子の上を亀が歩いていた。甲羅の大きさが十センチくらいの、小さな亀だ。
ヒナミは二、三度まばたきをした。すると、亀は消えていた。
列車がカーブを曲がると、視界が一気に開ける。
「わあ。」
チサトちゃんの口か声が漏れる。
山肌にしがみつくように敷かれた線路。車窓より眼下に広がるのは、漁港、そして青い海。
『まもなく、下灘。下灘です。』
駅に到着した。
運転士さんに切符を渡して、ホームに降りる。ヒナミたち三人しかいない。
列車が発車すると、周囲は一気に静かになった。打ち寄せる波の音と、時おり通り過ぎる車の音だけが聞こえる。
ベンチに座る。目に入るのは、青い空、青い海、かすんで見えるあの島は、何島だろうか。
「いいところ、ですね。」
チサトちゃんが、ポツリといった。
「うん。いいところだよ。」
ミホも、ポツリといった。
「この海のむこうにも、人は住んでいるんですよね。」
チサトちゃんがいった。ヒナミは頭の中で日本地図を広げる。
「そうだね。むこう側は、山口県の防府の辺りだね。」
ヒナミがいった途端、ミホが口を開く。
「ヒナミ、算数できないくせに、社会はすごいよね。」
「一応、ほめてもらったと思っとく。ありがと。」
ヒナミはミホにむかって笑みを浮かべた。
「もしも、むこう側の誰かも、今、海を見ていて、私と同じように、きれいだなって思っていたら、ちょっと嬉しいな。」
チサトちゃんはつぶやくようにいった。詩人だ。
「また、来ようか。夕日も綺麗らしいよ、ここ。それに、たぶん、星も綺麗だから、お母さんがいいっていったら、夜に来ようよ。」
ヒナミは海を見ながらいった。広い広い海原を渡って来た風が、ヒナミの長い髪を揺らした。
「お弁当、食べよっか。」
ヒナミはいった。
「ずっと、こうしていたいな。三人で。」
膝の上にお弁当を広げながら、チサトちゃんがいった。
一時間ほどで、松山いきの列車が到着した。ヒナミ、チサトちゃん、ミホ。三人それぞれ、入り口で整理券を取って乗り込む。
列車の座席に並んで座る。順番は、ミホ、ヒナミ、チサトちゃんだ。列車はゆっくりと走り出す。
ヒナミは列車の後ろを見た。離れていく、下灘駅が見えた。
三つ目の駅をすぎた頃だろうか、ヒナミは片方の肩に重さを感じた。視線をむけると、ミホが寄りかかっていた。眠っているようだ。
ヒナミは小さく微笑んだ。
「ねえ、ヒナミさん。」
チサトちゃんが話しかける。ミホを起こさないように、かといって列車のエンジンの音にかき消されないように、声の大きさに気を付けているのがわかる。
「前から訊きたかったことがあるんです。いいですか?」
「いいよ。」
チサトちゃんは一度、深呼吸をした。
「どうして、ヒナミさんは私を助けてくれたんですか?」
そんなの、決まってるじゃないか。
「だって、チサトちゃんがひかれそうだったから。」
他に、理由があるはずなんてない。
「でも、そのせいで、ヒナミさんの足が……。」
「うん。ドジちゃったね。」
ヒナミはチサトちゃんがいい切る前にいった。わざとそうした。
「ドジった?」
チサトちゃんは首をかしげる。
「うん。ドジった。チサトちゃんを助けて、私も車、よけるつもりだったのにね、小石につまずいて。大事なとこで駄目なんだから。」
ヒナミはニッと笑顔を浮かべた。
「ヒナミさんも、助かるつもりだった……。」
「うん。」
「後悔してないんですか?」
「後悔か、考えたことなかったな。」
後悔先に立たず、という言葉は後悔したときに思い出す。うん。チサトちゃんを助けたこと、ヒナミは後悔してない。
ヒナミはチサトちゃんの手を握った。相変わらずスベスベだ。
「ヒナミさんの手、マメだらけ。」
「いっつも杖を握ってるから。」
「でも、あったかい。」
「いきてるからね。それでいいでしょ。」
ヒナミの手、チサトちゃんが握り返す。
「ずっと、ヒナミさん、自分が死ぬ気で私を助けてくれたんだと思ってました。」
「ごめんね。自分の命とチサトちゃんの命なら、ちょっと悩む。」
こんなところで、カッコつけたりしない。チサトちゃんには本音で話す。
「いきようとするんですね。やっと、わかりました。わかったつもりになってるだけかもしれないけど、わかりました。生き物は、最後までいきようとするんですね。」
「うん。そうだね。」
ヒナミの肩に、チサトちゃんはもたれかかる。
「ヒナミさん、私ね、決めました。転校しなくていいように、頑張ってみます。出来ること、全部やって……。頑張っちゃいます。見てて、くれますか?」
「うん。」
ヒナミは、チサトちゃんの肩をそっと抱き寄せる。
「少し、疲れました。寝ていても、いいですか?」
「いいよ。松山に着いたら、おこすから。」
それから間もなく、チサトちゃんの寝息が聞こえはじめた。ミホとチサトちゃん、両肩を貸しながら、ヒナミは微笑んでいた。とっても、嬉しかった。
結局、松山でチサトちゃんとミホに起こされるヒナミだった。
次の日、月曜日。
ヒナミは学校に着くと、階段を上り、教室へいった。朝のホームルームまではかなり時間がある。いつも通りだ。
あれ、教室のドアが閉まっている。いつも、チサトちゃんが先に登校していて、このところはドアも開けておいてくれたのに。
まあ、そんなこともあるだろう。
ヒナミは片方の杖から手を放した。腕に止めるバンドがあるから、杖はダラリと腕にぶら下がる。ドアの取手を握り、力を込める。
開かない。鍵がかかってる。
チサトちゃん、まだ来てないんだ。珍しい。
階段を降りて、職員室へいく。誰かが来るのを待って、開けてもらったほうが楽かもしれない。でも、なんだかそれはいやだ。一番はじめに登校した人が、教室の鍵を開けることになっている。
職員室の前まで来る。
杖を壁に立てかけて、職員室のドアをノックしようとすると、その前に開いた。中にいた立花先生が、開けてくれたんだ。
「おはようございます。教室の鍵ですね。」
ヒナミはうなずく。
立花先生は、壁にかかっている鍵を手に取り、ヒナミに手渡す。
「チサトちゃん、今日はお休みですか?」
ヒナミは立花先生の顔を見上げた。あれ、今、立花先生はヒナミから目をそらしたような。気のせいだろうか。
「はい、チサトさんはお休みとのことです。少し、体調を崩されたとか。」
そうなんだ。昨日、無理させちゃったんだろうか。放課後、お見舞いにいこうかな。
「ありがとうございます。」
ヒナミは鍵をポケットに入れると、首を曲げてお辞儀をして、杖を握る。
体育館のはしっこ、ヒナミは壁にもたれて授業を見ていた。
体操服姿のミホは、飛んできたボールをたやすく捕らえると、ドリブルで相手チームの人たちの間を抜けていく。
「すごいな。」
ヒナミはつぶやいた。
ボールが転がってくる。立花先生がヒナミにむかって転がしたものだった。
ヒナミは座ったままボールを抱きかかえた。小柄なヒナミには小学生用のボールでも大きく感じる。
立花先生は、黙って一番近いゴールを指差す。使っていないゴールだ。
ヒナミはゴールめがけて、座ったまま全力でボールを投げた。放物線を描き、ボールはゴールのリングに当たり、床へ落ちた。
床の上で跳ねるボールを、ヒナミは見つめていた。
放課後、ヒナミはチサトちゃんの家、小さな洋食店にやって来た。ミホも一緒だ。
「あれ?」
ミホは声をあげた。
店の扉は閉まっていて『臨時休業』の札が出ている。
「どうしたんだろう。」
ヒナミはつぶやいた。返事はなかった。
「あら、あなたたちチサトちゃんのお友達?」
通りかかった女の人が声をかけた。買い物帰りの主婦って感じの人だ。近所の人だろうか。
「はい。」
ミホが返事をした。
「チサトちゃん、大丈夫なの。昨夜、救急車で運ばれてたけど。」
女の人は心配そうな表情を浮かべる。ヒナミはミホと顔を見合わせた。
当たりだった。受付で『森松チサト』の名前を出すと、病室を教えてくれた。救急搬送されるとしたら、この病院だと思った。
小児科の、一室。ミホはノックしてから、ドアを開ける。
「チサト、大丈夫?」
ミホが入った後、ミホにドアを抑えておいてもらいながら、病室に入る。
「いらっしゃいませ。」
チサトちゃんはベットにあおむけで横たわり、スマートフォンを触っていた。ヒナミたちに気が付くと、スマートフォンはサイドテーブルに置く。
「大丈夫なの?」
ヒナミが尋ねる。
「ええ、大丈夫ですよ。ちょっとした風邪です。叔父が、心配して救急車を呼んでしまったんです。お騒がせしました。」
ヒナミはベットの横の丸椅子に座った。
「すぐ元気になりますからね。また三人でどこかいきましょう。」
チサトちゃんの言葉に、ヒナミとミホはそれぞれうなずく。
「どこか、いきたいとこある?」
ヒナミが尋ねると、チサトちゃんは天井を見上げる。
「うーん。思いつきません。」
「そういえば前にいってたよね、チサト、瀬戸大橋見たことないって。」
ミホがいった。
「うん。引っ越して来たときは、飛行機でしたから。」
「夏休み、いってみよっか。ね、ヒナミ。」
ミホの表情は、輝いている。
瀬戸大橋を渡ろうと思ったら、特急列車に乗らないといけない。海沿いに東へ。前みたいに簡単にはいかないだろう。お母さんだって、簡単には許可してくれないと思う。
「瀬戸大橋、いいよね。下に海が広がってて、まるで空を飛んでるみたいで。」
ヒナミは以前、渡ったときのことを思い出しながらいった。
「空を。すごいですね。私、いきたいです。」
チサトちゃんは大きな声で、元気よくいった。よかった。そんなに体調が悪いわけではなさそうだ。
ヒナミは首の後ろへ手を回す。
皮の紐に通して、首から下げていた赤い勾玉。手探りで紐の結び目を解く。
「チサトちゃん、お守り。」
ヒナミは、紐を横たわるチサトちゃんの首に紐を回し、後ろで結んだ。
「いいんですか? 大事なものなんじゃ。」
「大事なものだから、今、チサトちゃんに貸したげる。今度、返してね。」
チサトちゃんはうなずく。
「ヒナミさん、ミホ、わがままいって、いいですか。」
ヒナミも、ミホも、黙ってうなずく。
「私、少し寝ようと思います。眠るまで手を握っててくれませんか。」
ヒナミはチサトちゃんの手を握った。その上からミホも手を重ねる。
「おやすみなさい。ヒナミさん、ミホ。」
「チサト、おやすみ。」
「おやすみ。チサトちゃん。」
チサトちゃんは、ゆっくりとまぶたを閉じた。
チサトちゃんの寝息が聞こえはじめると、ヒナミとミホは手を放した。
「帰ろっか。」
ミホは小さな声でいった。
「うん、帰ろ。」
ヒナミも小さな声で返した。
そっと、病室を出て、廊下を歩く。
前から、女の子が歩いて来るのが見えた。五、六歳だろうか。銀色の短髪、青い瞳。ウミだ。薄いピンク色の、看護師さんの服を着ている。
「チサトちゃんのこと、よろしくね。」
すれ違いざま、ヒナミはいった。
「ヒナミってさ。いっつもアクセサリー持ってるよね?」
窓の外を見ていたミホは、体をヒナミの方をむけた。
ヒナミは胸元から勾玉を取り出した。紐で首から下げ、服の中に入れていた。
「知ってたんだ。」
いつも首から下げていたけれど、外に出さないようにしていた。特に学校では。
「なにか、大切なものなんですか?」
チサトちゃんも、横からヒナミの勾玉をのぞく。
「うーん。昔ね、小学校に入る前、近所の砂浜にいったんだ。そしたら、亀が転がっててね、仰向けで。」
「亀って、仰向けになっても起き上がれるんじゃありませんでしたっけ。首の力で。」
チサトちゃんがいった。
「うん。そうらしいね。でも、その亀は起き上がれなかったみたい。」
「それで、それで。」
ミホが体を乗り出す。
「亀は海の方へ帰っていったんだけど、その後、波打ち際に落ちてた。」
「海に帰っていったってことは、海亀さんだったんですね。」
「見た目は海亀じゃないなんだけどね。手足があるし。」
そういいながら、ヒナミは正面を見た。通路を挟んだむかい側の座席。緑色の椅子の上を亀が歩いていた。甲羅の大きさが十センチくらいの、小さな亀だ。
ヒナミは二、三度まばたきをした。すると、亀は消えていた。
列車がカーブを曲がると、視界が一気に開ける。
「わあ。」
チサトちゃんの口か声が漏れる。
山肌にしがみつくように敷かれた線路。車窓より眼下に広がるのは、漁港、そして青い海。
『まもなく、下灘。下灘です。』
駅に到着した。
運転士さんに切符を渡して、ホームに降りる。ヒナミたち三人しかいない。
列車が発車すると、周囲は一気に静かになった。打ち寄せる波の音と、時おり通り過ぎる車の音だけが聞こえる。
ベンチに座る。目に入るのは、青い空、青い海、かすんで見えるあの島は、何島だろうか。
「いいところ、ですね。」
チサトちゃんが、ポツリといった。
「うん。いいところだよ。」
ミホも、ポツリといった。
「この海のむこうにも、人は住んでいるんですよね。」
チサトちゃんがいった。ヒナミは頭の中で日本地図を広げる。
「そうだね。むこう側は、山口県の防府の辺りだね。」
ヒナミがいった途端、ミホが口を開く。
「ヒナミ、算数できないくせに、社会はすごいよね。」
「一応、ほめてもらったと思っとく。ありがと。」
ヒナミはミホにむかって笑みを浮かべた。
「もしも、むこう側の誰かも、今、海を見ていて、私と同じように、きれいだなって思っていたら、ちょっと嬉しいな。」
チサトちゃんはつぶやくようにいった。詩人だ。
「また、来ようか。夕日も綺麗らしいよ、ここ。それに、たぶん、星も綺麗だから、お母さんがいいっていったら、夜に来ようよ。」
ヒナミは海を見ながらいった。広い広い海原を渡って来た風が、ヒナミの長い髪を揺らした。
「お弁当、食べよっか。」
ヒナミはいった。
「ずっと、こうしていたいな。三人で。」
膝の上にお弁当を広げながら、チサトちゃんがいった。
一時間ほどで、松山いきの列車が到着した。ヒナミ、チサトちゃん、ミホ。三人それぞれ、入り口で整理券を取って乗り込む。
列車の座席に並んで座る。順番は、ミホ、ヒナミ、チサトちゃんだ。列車はゆっくりと走り出す。
ヒナミは列車の後ろを見た。離れていく、下灘駅が見えた。
三つ目の駅をすぎた頃だろうか、ヒナミは片方の肩に重さを感じた。視線をむけると、ミホが寄りかかっていた。眠っているようだ。
ヒナミは小さく微笑んだ。
「ねえ、ヒナミさん。」
チサトちゃんが話しかける。ミホを起こさないように、かといって列車のエンジンの音にかき消されないように、声の大きさに気を付けているのがわかる。
「前から訊きたかったことがあるんです。いいですか?」
「いいよ。」
チサトちゃんは一度、深呼吸をした。
「どうして、ヒナミさんは私を助けてくれたんですか?」
そんなの、決まってるじゃないか。
「だって、チサトちゃんがひかれそうだったから。」
他に、理由があるはずなんてない。
「でも、そのせいで、ヒナミさんの足が……。」
「うん。ドジちゃったね。」
ヒナミはチサトちゃんがいい切る前にいった。わざとそうした。
「ドジった?」
チサトちゃんは首をかしげる。
「うん。ドジった。チサトちゃんを助けて、私も車、よけるつもりだったのにね、小石につまずいて。大事なとこで駄目なんだから。」
ヒナミはニッと笑顔を浮かべた。
「ヒナミさんも、助かるつもりだった……。」
「うん。」
「後悔してないんですか?」
「後悔か、考えたことなかったな。」
後悔先に立たず、という言葉は後悔したときに思い出す。うん。チサトちゃんを助けたこと、ヒナミは後悔してない。
ヒナミはチサトちゃんの手を握った。相変わらずスベスベだ。
「ヒナミさんの手、マメだらけ。」
「いっつも杖を握ってるから。」
「でも、あったかい。」
「いきてるからね。それでいいでしょ。」
ヒナミの手、チサトちゃんが握り返す。
「ずっと、ヒナミさん、自分が死ぬ気で私を助けてくれたんだと思ってました。」
「ごめんね。自分の命とチサトちゃんの命なら、ちょっと悩む。」
こんなところで、カッコつけたりしない。チサトちゃんには本音で話す。
「いきようとするんですね。やっと、わかりました。わかったつもりになってるだけかもしれないけど、わかりました。生き物は、最後までいきようとするんですね。」
「うん。そうだね。」
ヒナミの肩に、チサトちゃんはもたれかかる。
「ヒナミさん、私ね、決めました。転校しなくていいように、頑張ってみます。出来ること、全部やって……。頑張っちゃいます。見てて、くれますか?」
「うん。」
ヒナミは、チサトちゃんの肩をそっと抱き寄せる。
「少し、疲れました。寝ていても、いいですか?」
「いいよ。松山に着いたら、おこすから。」
それから間もなく、チサトちゃんの寝息が聞こえはじめた。ミホとチサトちゃん、両肩を貸しながら、ヒナミは微笑んでいた。とっても、嬉しかった。
結局、松山でチサトちゃんとミホに起こされるヒナミだった。
次の日、月曜日。
ヒナミは学校に着くと、階段を上り、教室へいった。朝のホームルームまではかなり時間がある。いつも通りだ。
あれ、教室のドアが閉まっている。いつも、チサトちゃんが先に登校していて、このところはドアも開けておいてくれたのに。
まあ、そんなこともあるだろう。
ヒナミは片方の杖から手を放した。腕に止めるバンドがあるから、杖はダラリと腕にぶら下がる。ドアの取手を握り、力を込める。
開かない。鍵がかかってる。
チサトちゃん、まだ来てないんだ。珍しい。
階段を降りて、職員室へいく。誰かが来るのを待って、開けてもらったほうが楽かもしれない。でも、なんだかそれはいやだ。一番はじめに登校した人が、教室の鍵を開けることになっている。
職員室の前まで来る。
杖を壁に立てかけて、職員室のドアをノックしようとすると、その前に開いた。中にいた立花先生が、開けてくれたんだ。
「おはようございます。教室の鍵ですね。」
ヒナミはうなずく。
立花先生は、壁にかかっている鍵を手に取り、ヒナミに手渡す。
「チサトちゃん、今日はお休みですか?」
ヒナミは立花先生の顔を見上げた。あれ、今、立花先生はヒナミから目をそらしたような。気のせいだろうか。
「はい、チサトさんはお休みとのことです。少し、体調を崩されたとか。」
そうなんだ。昨日、無理させちゃったんだろうか。放課後、お見舞いにいこうかな。
「ありがとうございます。」
ヒナミは鍵をポケットに入れると、首を曲げてお辞儀をして、杖を握る。
体育館のはしっこ、ヒナミは壁にもたれて授業を見ていた。
体操服姿のミホは、飛んできたボールをたやすく捕らえると、ドリブルで相手チームの人たちの間を抜けていく。
「すごいな。」
ヒナミはつぶやいた。
ボールが転がってくる。立花先生がヒナミにむかって転がしたものだった。
ヒナミは座ったままボールを抱きかかえた。小柄なヒナミには小学生用のボールでも大きく感じる。
立花先生は、黙って一番近いゴールを指差す。使っていないゴールだ。
ヒナミはゴールめがけて、座ったまま全力でボールを投げた。放物線を描き、ボールはゴールのリングに当たり、床へ落ちた。
床の上で跳ねるボールを、ヒナミは見つめていた。
放課後、ヒナミはチサトちゃんの家、小さな洋食店にやって来た。ミホも一緒だ。
「あれ?」
ミホは声をあげた。
店の扉は閉まっていて『臨時休業』の札が出ている。
「どうしたんだろう。」
ヒナミはつぶやいた。返事はなかった。
「あら、あなたたちチサトちゃんのお友達?」
通りかかった女の人が声をかけた。買い物帰りの主婦って感じの人だ。近所の人だろうか。
「はい。」
ミホが返事をした。
「チサトちゃん、大丈夫なの。昨夜、救急車で運ばれてたけど。」
女の人は心配そうな表情を浮かべる。ヒナミはミホと顔を見合わせた。
当たりだった。受付で『森松チサト』の名前を出すと、病室を教えてくれた。救急搬送されるとしたら、この病院だと思った。
小児科の、一室。ミホはノックしてから、ドアを開ける。
「チサト、大丈夫?」
ミホが入った後、ミホにドアを抑えておいてもらいながら、病室に入る。
「いらっしゃいませ。」
チサトちゃんはベットにあおむけで横たわり、スマートフォンを触っていた。ヒナミたちに気が付くと、スマートフォンはサイドテーブルに置く。
「大丈夫なの?」
ヒナミが尋ねる。
「ええ、大丈夫ですよ。ちょっとした風邪です。叔父が、心配して救急車を呼んでしまったんです。お騒がせしました。」
ヒナミはベットの横の丸椅子に座った。
「すぐ元気になりますからね。また三人でどこかいきましょう。」
チサトちゃんの言葉に、ヒナミとミホはそれぞれうなずく。
「どこか、いきたいとこある?」
ヒナミが尋ねると、チサトちゃんは天井を見上げる。
「うーん。思いつきません。」
「そういえば前にいってたよね、チサト、瀬戸大橋見たことないって。」
ミホがいった。
「うん。引っ越して来たときは、飛行機でしたから。」
「夏休み、いってみよっか。ね、ヒナミ。」
ミホの表情は、輝いている。
瀬戸大橋を渡ろうと思ったら、特急列車に乗らないといけない。海沿いに東へ。前みたいに簡単にはいかないだろう。お母さんだって、簡単には許可してくれないと思う。
「瀬戸大橋、いいよね。下に海が広がってて、まるで空を飛んでるみたいで。」
ヒナミは以前、渡ったときのことを思い出しながらいった。
「空を。すごいですね。私、いきたいです。」
チサトちゃんは大きな声で、元気よくいった。よかった。そんなに体調が悪いわけではなさそうだ。
ヒナミは首の後ろへ手を回す。
皮の紐に通して、首から下げていた赤い勾玉。手探りで紐の結び目を解く。
「チサトちゃん、お守り。」
ヒナミは、紐を横たわるチサトちゃんの首に紐を回し、後ろで結んだ。
「いいんですか? 大事なものなんじゃ。」
「大事なものだから、今、チサトちゃんに貸したげる。今度、返してね。」
チサトちゃんはうなずく。
「ヒナミさん、ミホ、わがままいって、いいですか。」
ヒナミも、ミホも、黙ってうなずく。
「私、少し寝ようと思います。眠るまで手を握っててくれませんか。」
ヒナミはチサトちゃんの手を握った。その上からミホも手を重ねる。
「おやすみなさい。ヒナミさん、ミホ。」
「チサト、おやすみ。」
「おやすみ。チサトちゃん。」
チサトちゃんは、ゆっくりとまぶたを閉じた。
チサトちゃんの寝息が聞こえはじめると、ヒナミとミホは手を放した。
「帰ろっか。」
ミホは小さな声でいった。
「うん、帰ろ。」
ヒナミも小さな声で返した。
そっと、病室を出て、廊下を歩く。
前から、女の子が歩いて来るのが見えた。五、六歳だろうか。銀色の短髪、青い瞳。ウミだ。薄いピンク色の、看護師さんの服を着ている。
「チサトちゃんのこと、よろしくね。」
すれ違いざま、ヒナミはいった。
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