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口直し

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 彼、福田勇は派遣社員で、ホテルでのノウハウを学ぶ為にここで働いているらしい。歳は二十三、あと一か月で一つ歳をとる。来年には実家に帰って、旅館を手伝うことになっている。要するに彼は旅館の跡取り息子というわけだ。
 これから宿を経営していく為に外で学んで来いと言われたらしいが、旅館に縛られる前に自由な時間を作ってやろうという意味もあるらしい。それであのちょっと気の抜けた態度だったというわけだ。まあ、格式高いホテルではないし、少し砕けた態度の方が喜ばれるのかもしれないが。
 稀は自分が苛立っていることを強制的に忘れることにして、にこにこと愛想良く、時に女性らしく驚いてみたりしながら彼の話をひたすら聞き流した。これでは釣りに集中できない。たとえ釣果が良くなくとも、針の先に着いた餌を意識して泳がせることが大事なのだ。稀が反応をするからいけないのかもしれないが、聞いてもいないことを次々と話す男は邪魔でしかない。気が散って腹の底に嫌なものが溜まっていくのが分かった。
 限界だと思ったところで話しに一区切りついたので、腹が減ったと適当に理由を付けて帰ることにしたのだった。

 再びクーラーボックスをカウンターに預けて、自分の部屋に戻る。手に付いた臭いはとっくに海辺に設置されている水道で洗い流した。丸い、小判型のステンレスで出来ているもので、臭いを落としてくれる商品が売っているのだ。手で転がしながら洗うのだがなかなかの効果があった。海のにおいを纏って帰ってくる宿泊客は想定しているだろうが、魚臭いままホテルをうろつくのはこちらとて気が引ける。持ってきて良かった。
 釣り竿を部屋に置いて、本館にある食堂に行く。夕食と違い朝食はバイキング形式で、朝は日によって食べる量が極端に変わる稀にとって調節出来るのは有り難い。温め直したロールパン二つと、シーザーサラダ、スクランブルエッグ、ウインナー二本を皿に盛ると、コーヒーを淹れて席に着いた。もう少し食べられそうだったが、足らなければ後で取りに行けばいい。

 何でもいいから腹に入れて、気分を変えよう。

 一先ずサラダを口に放り込んで、咀嚼している間にロールパンを昨日より大きめに千切る。千切ったパンにマーガリンを塗り込んで、苛立ちを封じ込めるように口の中で弾力を感じながら噛み締める。何度か噛んで弾力がなくなったらコーヒーで流し込む。それを三回繰り返し、稀は息を吐いた。
 朝の七時半、周りを見渡せば他の客も増え始めている。残りを海を眺めながら食べるのも良いが、さっき行ってきたばかりで少し疲れてしまいそうだ。稀は目を休ませる為に食堂内にいる客を観察することにした。
 友人同士で旅行に来ているらしいお年寄りが多い。あとは家族連れと、今入ってきた女性の三人組。昨日は団体客がいたのだが、昨日のうちに島を出たらしい。
 海の見える景色がそうさせているのだろうか、このホテルは比較的のんびりとしていて、落ち着いた空気が漂っていた。朝からうるさく喋るような、騒がしい客はいない。仮にそのような人間がいたとしても、ここの空気を感じ取って大人しく過ごしているのではないだろうか。
 稀は時間を掛けて料理を口に運び、コーヒーをちびちびと飲んだ。昨日はよく眠れた、風呂からの眺めが良かった、これからどうする、帰りの船の便は何時だっけ。

 気が付けばコーヒーが冷めて、アイスティーとフルーツをおかわりしていた。といってもアイスティーはほとんど減っていないのだけど。
 これ以上ここに居ても意味がないな、そろそろ部屋に戻ろう、そう思った時だった。一人の女性が食堂に入ってきた。カーディガンを羽織って、ガウチョパンツを穿いている。身長は稀より少し低いくらい。昨日の夕食時には見掛けなかったが、一人で食事をしている客を見たのは始めてだ。
 彼女は料理を皿に盛ると、海がよく見える窓際の席に着いた。アイスティーを一口飲んで、半分に千切ったクロワッサンを口に運ぶ。どこか寂しそうに見えるのは彼女が一人だからだろうか。

 少し待ってみてから、稀は新しくフルーツを盛った皿と紅茶を手に彼女の席に近付く。

「ここ、座ってもいいですか」
「――え? えっと」

 伏し目がちだった彼女は突然声を掛けられて驚いている。だが嫌というわけでもなく、ただ戸惑っているようだ。

「私、五日前からここに泊まっているんですけど話し相手がいなくて。ちょっとだけいいですか?」
「……もしかして、おひとりで?」
「はい。突然すみません、つい声を掛けちゃって……」
「いえ、いえ。どうぞ、私でよければ。私も一人なので」
「よかった! 断られたらどうしようかと」
「そんな」

 稀は大袈裟に喜んでみせた。皿と飲み物をテーブルにさっと置いて、許可は得たと言わんばかりに遠慮なく椅子に座る。今の会話の中で表情を注意深く見ていれば大体分かる。彼女は好意に弱く、またリードされている方が楽だと感じるタイプだ。

 快く受け入れてくれた一方で、少し居心地が悪いのか彼女はアイスティーに口を付けた。

「五日前って、随分長い間泊まられてるんですね」
「一か月は泊まる予定ですよ」
「……一か月? えっと、この島に用があるとか?」

 稀はフォークで半分に切った桃とオレンジを紅茶の中に落として、スプーンでくるくると回した。

「私、一応小説を書いてるんです。次の話を書かなくちゃいけないんですけど、どうもアイデアが浮かんでこなくて。それで気分転換も込めて島に来てみたんです」
「小説家ですか……!? ええ、すごいですね……」

 スクランブルエッグを食べようとした手を止めて、彼女が目を真ん丸にして驚いた。稀は困った顔で笑いそれを制した。

「そんな大したものじゃないですよ。今は何を書けばいいのか行き詰ってる有り様で……。えっと私、貝稀って言います。お名前を教えてもらっても?」
「あ、私は瀬田 絵里っていいます」
「よろしくお願いします。えっと、私達歳は近いですよね。私は今年で二十四になったんですけど」

 そう言えば彼女は意外そうな顔をした。

「私は今年で二十六です。……すごくしっかりして見えたから、年下とは思いませんでした」
「私が? しっかり?」

 そりゃあそうだろう。こっちのペースに乗せて自分が有利な立場に立てるよう、何事にも動じない人間を演じているのだから。

 稀は紅茶に沈んだ桃をスプーンですくってほとんど噛まずに飲み込んだ。

「そう見えたとしたら、向こう見ずな性格のお蔭かな? 絵里さんの食事のお邪魔しちゃって」

 そんなこと、と手を振ってフォローしてくれる彼女に、稀は歯を見せて笑顔をつくった。

「あ、絵里さんって呼んでも? このホテルにいる間だけですが、良かったら暇な時にでも話し相手になってください」

 同じホテルに泊まっているという共通点があるのは助かる。彼女は警戒心を解いてくれたようで、最初に漂っていた緊張感が今は感じられない。
 稀は思い通りの展開に上機嫌だった。彼女を選んだのは特別意味があるわけでもないけれど。話し掛けたのは先程の青年との会話を上書きしたかったからだ。

 そうだな、適当に彼女に話をさせて、小説のネタを探すのもいいかもしれない。
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