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善意
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朝の五時半、ナイトテーブルの時計が鳴り始める。ふっと頭が覚醒して、いつもと違う空気に瞼が上がる。朝を迎えぼんやりと明るくなった部屋。視界に開放感のある天井が広がっている。――そうだ、昨日のうちに餌を買っておいたのだ。今日は釣りに出るから朝食の時間まで寝ているわけにはいかない。
稀は上半身を起こし分厚い掛布団から脚をするすると引き抜いて、素足のままベッドから降りた。絨毯を足の裏で感じながら窓際まで行き、海の様子を窺う為にレースカーテンを引く。稀がここに来てから五日。今日で二回目の釣りになるわけだが、海が荒れることもなく中止されたことはなかった。
ポットの電源を入れて、湯が沸くまでに顔を洗い髪にくしを通す。沸いた湯で紅茶を淹れて、蒸らす間に服を着替え、外の景色を横目にミルクを足した紅茶をさっと飲み干して、壁に立て掛けてある釣り竿を手に部屋を出た。
クーラーボックスに入れておいた釣り餌は、部屋に臭いが移らないようホテル側で保管してもらっている。稀はカウンターでルームキーと交換する形で小さなクーラーボックスを受け取り、歩いて十分も掛からない海に向かう。そうして朝食の時間が始まるまで釣りをするのだ。
それが稀の一日の始まりだった。
***
「おはようございます。……貝さんですよね?」
「――えっ?」
釣り竿を手に防波堤に座り込んで、沖の方を見ていた稀は急な背後からの声に肩をびくりと揺らして振り返った。朝も早く、ここから見渡せる砂浜には誰もいない。
「突然すみません。ホテルの窓から貝さんをたまたま見掛けたことがあって、今日はいるかなって来てみたんです。僕、今日は休みなので」
眉を下げて笑う男は、稀がホテルに来た時に部屋まで案内してくれた従業員だった。ホテルの制服ではなく、ラフなTシャツにジーパンを穿いている。それだけで随分と印象が違って見える。変わらないのは髪をワックスで整えていることだ。
「びっくりしました……。えっと、確か」
「福田です。福田 勇っていいます。……どうです、釣れますか?」
そう言って稀の横にしゃがみ込んだ。少しの間、居座るらしい。
面倒だな、とは思ったが邪険にするわけにもいかないし、少し退屈していたところだったし……世間話くらい良いだろうと仕方なく応じることにした。
「来た時に一匹だけ釣れましたが、今はこの通り、うんともすんとも。どうしようもないのでそろそろ切り上げようかと思っていたところです」
「ああ、それは残念です。まあ、釣れない日はしょうがないですよね」
「私の場合はキャッチ&リリースなので、釣れないからって困ることもないんですけどね」
「――あ!」
「……なにか?」
彼は目に見えて活き活きとし始めた。
「釣りって今日が最後ってわけでもないんですよね? よかったら僕が捌きましょうか?」
「え? あなたが?」
妙案を思い付いたと言わんばかりに、彼はにこにこしながらはいと返事をした。
「仕事の日は難しいですが、今日みたいに休みの日なら! 魚さえ釣れれば僕が寮のキッチンで捌いて持っていきますよ」
「そんな、迷惑になりますから。それに、大きな魚が釣れるってわけでもないですから」
「遠慮しないでください。休みといっても、これといってする事もなくて暇してたんですよ」
「う~ん」
稀は愛想笑いを浮かべながら内心で舌打ちをした。確かに、部屋に魚を持ち込むわけにもいかず、そもそも部屋にはキッチンがないのだから釣れたそばから海に帰すしかなく、ちょっとばかしつまらないと思ってはいたのだ。しかし、彼をどこまで頼っていいものか。
「お昼は大体、ホテル横のレストランで済ませているんですよね? お昼に届けるようにしますよ。任せて下さい! 魚を捌くのは得意なんです」
困り顔の稀にぐいぐいと笑顔を押し付けてくる。口角がひくりと動きそうになるのを耐えて、稀は彼の申し出を受け入れることにした。
「そんなに言ってくれるのなら……じゃあ、お願いしてもいいですか?」
「はい! あ、えっと次の休みは――」
尻ポケットを探り始める彼を横目に、稀は竿を振り餌の付いた釣り針を海に向かって投げ込んだ。力んだ為にあまり遠くに飛ばず、ぼちゃんと情けない音が聞こえた。
こうもぐいぐいと善意を見せつけられてしまうと誰だろうと断れないだろう。彼は稀が宿泊する従業員でもあるし、何度か食堂で見掛けたことを覚えている。せっかく島までやってきたというのに、頑なに申し出を拒否して気まずい雰囲気にでもなろうものなら。生活が楽しめなくなるのは困る。そうなればただただ気分が悪い思いをするだけだ。
かと言って最初からこちらには選択権のない、断ることのできない善意を押し付けられ、稀は行き場のない小さな苛立ちを竿を振ることで誤魔化したのだった。
稀は上半身を起こし分厚い掛布団から脚をするすると引き抜いて、素足のままベッドから降りた。絨毯を足の裏で感じながら窓際まで行き、海の様子を窺う為にレースカーテンを引く。稀がここに来てから五日。今日で二回目の釣りになるわけだが、海が荒れることもなく中止されたことはなかった。
ポットの電源を入れて、湯が沸くまでに顔を洗い髪にくしを通す。沸いた湯で紅茶を淹れて、蒸らす間に服を着替え、外の景色を横目にミルクを足した紅茶をさっと飲み干して、壁に立て掛けてある釣り竿を手に部屋を出た。
クーラーボックスに入れておいた釣り餌は、部屋に臭いが移らないようホテル側で保管してもらっている。稀はカウンターでルームキーと交換する形で小さなクーラーボックスを受け取り、歩いて十分も掛からない海に向かう。そうして朝食の時間が始まるまで釣りをするのだ。
それが稀の一日の始まりだった。
***
「おはようございます。……貝さんですよね?」
「――えっ?」
釣り竿を手に防波堤に座り込んで、沖の方を見ていた稀は急な背後からの声に肩をびくりと揺らして振り返った。朝も早く、ここから見渡せる砂浜には誰もいない。
「突然すみません。ホテルの窓から貝さんをたまたま見掛けたことがあって、今日はいるかなって来てみたんです。僕、今日は休みなので」
眉を下げて笑う男は、稀がホテルに来た時に部屋まで案内してくれた従業員だった。ホテルの制服ではなく、ラフなTシャツにジーパンを穿いている。それだけで随分と印象が違って見える。変わらないのは髪をワックスで整えていることだ。
「びっくりしました……。えっと、確か」
「福田です。福田 勇っていいます。……どうです、釣れますか?」
そう言って稀の横にしゃがみ込んだ。少しの間、居座るらしい。
面倒だな、とは思ったが邪険にするわけにもいかないし、少し退屈していたところだったし……世間話くらい良いだろうと仕方なく応じることにした。
「来た時に一匹だけ釣れましたが、今はこの通り、うんともすんとも。どうしようもないのでそろそろ切り上げようかと思っていたところです」
「ああ、それは残念です。まあ、釣れない日はしょうがないですよね」
「私の場合はキャッチ&リリースなので、釣れないからって困ることもないんですけどね」
「――あ!」
「……なにか?」
彼は目に見えて活き活きとし始めた。
「釣りって今日が最後ってわけでもないんですよね? よかったら僕が捌きましょうか?」
「え? あなたが?」
妙案を思い付いたと言わんばかりに、彼はにこにこしながらはいと返事をした。
「仕事の日は難しいですが、今日みたいに休みの日なら! 魚さえ釣れれば僕が寮のキッチンで捌いて持っていきますよ」
「そんな、迷惑になりますから。それに、大きな魚が釣れるってわけでもないですから」
「遠慮しないでください。休みといっても、これといってする事もなくて暇してたんですよ」
「う~ん」
稀は愛想笑いを浮かべながら内心で舌打ちをした。確かに、部屋に魚を持ち込むわけにもいかず、そもそも部屋にはキッチンがないのだから釣れたそばから海に帰すしかなく、ちょっとばかしつまらないと思ってはいたのだ。しかし、彼をどこまで頼っていいものか。
「お昼は大体、ホテル横のレストランで済ませているんですよね? お昼に届けるようにしますよ。任せて下さい! 魚を捌くのは得意なんです」
困り顔の稀にぐいぐいと笑顔を押し付けてくる。口角がひくりと動きそうになるのを耐えて、稀は彼の申し出を受け入れることにした。
「そんなに言ってくれるのなら……じゃあ、お願いしてもいいですか?」
「はい! あ、えっと次の休みは――」
尻ポケットを探り始める彼を横目に、稀は竿を振り餌の付いた釣り針を海に向かって投げ込んだ。力んだ為にあまり遠くに飛ばず、ぼちゃんと情けない音が聞こえた。
こうもぐいぐいと善意を見せつけられてしまうと誰だろうと断れないだろう。彼は稀が宿泊する従業員でもあるし、何度か食堂で見掛けたことを覚えている。せっかく島までやってきたというのに、頑なに申し出を拒否して気まずい雰囲気にでもなろうものなら。生活が楽しめなくなるのは困る。そうなればただただ気分が悪い思いをするだけだ。
かと言って最初からこちらには選択権のない、断ることのできない善意を押し付けられ、稀は行き場のない小さな苛立ちを竿を振ることで誤魔化したのだった。
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