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第十一章
あたしがやりました。(1)
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Re.ハローワールド
『朱里、おはよう!
今日から短縮授業。はやく帰ってこれるよ!
そして今日からは、あたし思いっきり失敗するつもり!
帰ってきて元気がなかったら、またはげましてね!』
朝のメールを送るとパソコンを閉じ、手さげかばんを持ってリビングにおりる。お父さんは、今日もフライパン片手にトーストを焼く。わたわたしているのもいつもと同じ。
「おはよ、おう、お…お父さん!」
「おはよう、茜。朱里ちゃんへのメールはすんだのかい?」
「うん!」
「よし! じゃあ茜隊員! 顔を洗って朝ご飯を食べたら、三〇分で任務に出発だ! 目標! ハチマルニイマル!」
突然軍曹みたいな口調でいい出したから、あたしもお父さんに合わせる。
「サー! イエッサー!」
朝ご飯を食べて、洗い物を片づけて、お母さんの写真にふたりでいってきますのキスをする。いってきます! お母さん。
「あれ? 茜、今日はランドセルじゃないの?」
「は…はっ話した、したでしょ? 今日かっ…からたた、たん短縮授業だよっ」
「しまった、お父さんすっかり忘れてたよ」
玄関でいつもの革靴を履こうとしていたお父さんは、手にしていた靴ベラを置くと、もう一度家の中に入っていこうとした。
「お父さん! 大丈夫、き…きょ、うまでは給食ある給食あるよ!」
「ん? そうなのか、……あ、じゃあ茜、今日お父さん夕方に会議があってちょっとだけ遅くなりそうなんだ。もしよかったら夕食の買い出しをお願いしてもいいかい?」
「う、うう、うん!」
お父さんは見ていた腕時計から目を離してほっとする。
「ちょっと買い物リストだけ作ってくるから、茜、悪いけど先に行ってくれるかい?」
「わ、わかった!」
「よし! 今日も突撃だぞ! いってらっしゃい!」
「いーいいってきます! お父さん」
♮
今日も朝から茹だるような暑さと逃げ水とセミの声。空高くふくらみあがった入道雲が、いよいよ目前に控えた夏休みを連想させる。
校門をくぐり、ひんやりとした昇降口に到着すると、外がいかに暑かったかよくわかる。上履きに履きかえていると、聞き慣れた楽しそうな女子の話し声が校庭から聞こえてきた。
友子とかなえ、竹下さんだ。三人と目が合いそうになり、あたしはとっさに顔を背けると振り返り、階段へと歩き出そうとしていた。
……ダメだ! これじゃ昨日までと同じだ! 失敗する勇気さえ持ってなかった今までのあたしと……。でもこわい、足がすくむ、彼女たちを怒らせたのはあたしなのに。
お腹の下がズンと重い、きっと緊張してるせいだ。今、頑張って声をかけても、きっと震えて、上手に話すことなんてできっこない。
このまま気づかなかったふりをして、後でもう一度挑戦しようか? そうよ、今話したところで、きっと彼女たちもあたしの言葉なんて聞き取れないに決まってる。
……だから、あとでちゃんとがんばろう。でもこわい、足がすくむ、彼女たちを怒らせたのはあたしだから。
「オース! 茜、生理は落ちついた?」
かなえの弾んだ声が背中をポンとやさしく叩いた。
「茜ちゃん、おはよう!」
いつもの友子の声があたしの心をなでる。
「椎名さん、もう具合は大丈夫? あのときはびっくりしたよ」
竹下さんの落ちついた声が緊張をほぐした。
あたしはたまらず彼女たちに振り返った。
「ご、ご、ごごごごごめめめめめ……うわああああああー」
「ちょっ! ちょっと茜ー⁉」
気づくと、あたしはわんわん泣きながらあやまっていた。まわりは生徒でいっぱいだったのに、あたしは泣きながらひたすらあやまり続けていた。
なんていってあやまったのかこれっぽっちも覚えていない。たぶん本当に無茶苦茶で口にしていた言葉は、吃りもなにも関係なく日本語でさえなかった気がする。でもみんなは、そんなあたしをしっかりと受けとめてくれた。
失敗なんてできなかった、失敗なんてできなかった!
あたしはちゃんと失敗なんてできなかったんだ。
「ごめんごめん、ほ、ほんとうにごごおめんなさい……」
かなえや友子たちが「もぉー」と笑って、しゃくりあげるあたしのかばんを持ってくれた。失敗できなかった代わりに、あたしは大きすぎるくらいの成功を手に入れた気がしていた。
始業のチャイムが鳴っても、かなえたちはずっとそばにいた。下駄箱で泣き喚いてるあたしを、登校中の他の生徒たちが大勢見ていたから、すぐに先生がやって来て、みんなそろって職員室に連行されちゃったけど、こんな間抜けな出来事が将来とてもいい思い出になるって、なぜかそのとき確信していた。
職員室では古い扇風機から、パタパタと色のついたテープがはためいている。隣でかなえがぼそっと、「ながいなー」と先生の説教をぐちると、友子が「かなえちゃんっ」と小さくたしなめた。竹下さんが渡してくれたハンカチを握りしめながら、あたしは背中に流れる汗をしっかり感じていた。
頬を伝った涙のあとが乾いて、さわるとパリパリとしている。
窓からのぞく、ふくらみあがった入道雲――。
白い……、そしてでかい……。
気持ちよさそうなもくもくとした雲を見ながら、それまでに感じたことのない、まったく新しい一日の始まりに足を踏み入れた気がしていた。
『朱里、おはよう!
今日から短縮授業。はやく帰ってこれるよ!
そして今日からは、あたし思いっきり失敗するつもり!
帰ってきて元気がなかったら、またはげましてね!』
朝のメールを送るとパソコンを閉じ、手さげかばんを持ってリビングにおりる。お父さんは、今日もフライパン片手にトーストを焼く。わたわたしているのもいつもと同じ。
「おはよ、おう、お…お父さん!」
「おはよう、茜。朱里ちゃんへのメールはすんだのかい?」
「うん!」
「よし! じゃあ茜隊員! 顔を洗って朝ご飯を食べたら、三〇分で任務に出発だ! 目標! ハチマルニイマル!」
突然軍曹みたいな口調でいい出したから、あたしもお父さんに合わせる。
「サー! イエッサー!」
朝ご飯を食べて、洗い物を片づけて、お母さんの写真にふたりでいってきますのキスをする。いってきます! お母さん。
「あれ? 茜、今日はランドセルじゃないの?」
「は…はっ話した、したでしょ? 今日かっ…からたた、たん短縮授業だよっ」
「しまった、お父さんすっかり忘れてたよ」
玄関でいつもの革靴を履こうとしていたお父さんは、手にしていた靴ベラを置くと、もう一度家の中に入っていこうとした。
「お父さん! 大丈夫、き…きょ、うまでは給食ある給食あるよ!」
「ん? そうなのか、……あ、じゃあ茜、今日お父さん夕方に会議があってちょっとだけ遅くなりそうなんだ。もしよかったら夕食の買い出しをお願いしてもいいかい?」
「う、うう、うん!」
お父さんは見ていた腕時計から目を離してほっとする。
「ちょっと買い物リストだけ作ってくるから、茜、悪いけど先に行ってくれるかい?」
「わ、わかった!」
「よし! 今日も突撃だぞ! いってらっしゃい!」
「いーいいってきます! お父さん」
♮
今日も朝から茹だるような暑さと逃げ水とセミの声。空高くふくらみあがった入道雲が、いよいよ目前に控えた夏休みを連想させる。
校門をくぐり、ひんやりとした昇降口に到着すると、外がいかに暑かったかよくわかる。上履きに履きかえていると、聞き慣れた楽しそうな女子の話し声が校庭から聞こえてきた。
友子とかなえ、竹下さんだ。三人と目が合いそうになり、あたしはとっさに顔を背けると振り返り、階段へと歩き出そうとしていた。
……ダメだ! これじゃ昨日までと同じだ! 失敗する勇気さえ持ってなかった今までのあたしと……。でもこわい、足がすくむ、彼女たちを怒らせたのはあたしなのに。
お腹の下がズンと重い、きっと緊張してるせいだ。今、頑張って声をかけても、きっと震えて、上手に話すことなんてできっこない。
このまま気づかなかったふりをして、後でもう一度挑戦しようか? そうよ、今話したところで、きっと彼女たちもあたしの言葉なんて聞き取れないに決まってる。
……だから、あとでちゃんとがんばろう。でもこわい、足がすくむ、彼女たちを怒らせたのはあたしだから。
「オース! 茜、生理は落ちついた?」
かなえの弾んだ声が背中をポンとやさしく叩いた。
「茜ちゃん、おはよう!」
いつもの友子の声があたしの心をなでる。
「椎名さん、もう具合は大丈夫? あのときはびっくりしたよ」
竹下さんの落ちついた声が緊張をほぐした。
あたしはたまらず彼女たちに振り返った。
「ご、ご、ごごごごごめめめめめ……うわああああああー」
「ちょっ! ちょっと茜ー⁉」
気づくと、あたしはわんわん泣きながらあやまっていた。まわりは生徒でいっぱいだったのに、あたしは泣きながらひたすらあやまり続けていた。
なんていってあやまったのかこれっぽっちも覚えていない。たぶん本当に無茶苦茶で口にしていた言葉は、吃りもなにも関係なく日本語でさえなかった気がする。でもみんなは、そんなあたしをしっかりと受けとめてくれた。
失敗なんてできなかった、失敗なんてできなかった!
あたしはちゃんと失敗なんてできなかったんだ。
「ごめんごめん、ほ、ほんとうにごごおめんなさい……」
かなえや友子たちが「もぉー」と笑って、しゃくりあげるあたしのかばんを持ってくれた。失敗できなかった代わりに、あたしは大きすぎるくらいの成功を手に入れた気がしていた。
始業のチャイムが鳴っても、かなえたちはずっとそばにいた。下駄箱で泣き喚いてるあたしを、登校中の他の生徒たちが大勢見ていたから、すぐに先生がやって来て、みんなそろって職員室に連行されちゃったけど、こんな間抜けな出来事が将来とてもいい思い出になるって、なぜかそのとき確信していた。
職員室では古い扇風機から、パタパタと色のついたテープがはためいている。隣でかなえがぼそっと、「ながいなー」と先生の説教をぐちると、友子が「かなえちゃんっ」と小さくたしなめた。竹下さんが渡してくれたハンカチを握りしめながら、あたしは背中に流れる汗をしっかり感じていた。
頬を伝った涙のあとが乾いて、さわるとパリパリとしている。
窓からのぞく、ふくらみあがった入道雲――。
白い……、そしてでかい……。
気持ちよさそうなもくもくとした雲を見ながら、それまでに感じたことのない、まったく新しい一日の始まりに足を踏み入れた気がしていた。
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