皇帝陛下のかわいい愛妻

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5(帰郷2)

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 馬車に揺られること七日間。
 長い旅路の末、やっとアンネリゼは住み慣れた王城へと足を踏み入れた。三ヶ月ぶりの帰郷だった。
 城内部は言うまでもなく、迎えてくれた召使の顔ぶれも、漂う匂いすら暮らしていた頃そのままで。襲いくる哀愁に、アンネリゼの胸はいっぱいになる。まるで遠い夢を見ているようだった。

「お姉さま! お待ちしておりましたわ」

 と、吹き抜けのエントランスの上階から、明るい声が降ってきた。見上げれば、満面の笑みを浮かべた妹が手すりから身を乗り出すようにしている。
 全く、いつまでも子供なんだから。
 困ったように微笑みながら、アンネリゼは可愛い妹に声をかけた。

「ただいま、ローザ。具合はもういいの?」
「ええ! お姉さまがお手紙をくださったからかしら。すごく良くなったの」

 ローザが滑るように螺旋階段を降りてくる。

「走らないの」

 アンネリゼが階下から嗜めると、妹はすぐに「ごめんなさい」と首をすくめて従った。
 それは、一流の淑女教育を受けている娘とは思えない、あまりにもお粗末な姿だった。
 妹のためにも、もっときちんと怒らなければと思うのに、けれどその可愛らしい笑顔を向けられると、アンネリゼはそれ以上小言を向けることが出来なかった。
 小さな頃から、ずっとそうだった。
 お姉さまお姉さまと自分を慕ってくる二つ下のローザが可愛くて、多少のわがままは許してしまう。それは、教師陣も同様のようだった。
 今年で十四になると言うのに、未だ子鹿のように外で遊び回り「お転婆」だの「じゃじゃ馬で困ります」だのと、苦言を呈されながらも皆から愛されている。
 アンネリゼは教師と勉強以外の話をしたことはない。けれどローザは、教師の家庭環境、恋愛面に至るまで知っていた──授業の腰をおって、雑談をしていたからだ。
 けれどそれはきっと、とても大切な能力だった。勉強ができることより、ずっとずっと。
 模範的で優等生なアンネリゼと、それと真逆の妹ローザ。
 いつしかアンネリゼは、自由で正直なローザを尊敬するようになっていた。
 この子には、傷ついてほしくない。
 アンネリゼの政略結婚が決まったときも、ローザは涙を流して反対してくれた。もうどうにもならないことだと何度も言い聞かせても、最後の夜までローザはアンネリゼを思ってくれていた。

 ──思えばその夜から、三ヶ月が経ったのだった。

 階段を下りきったローザは、喜びを隠し切れない犬みたいに駆け寄ると、アンネリゼの両手を力強く握りしめた。

「お帰りなさい! 長旅お疲れ様でした。お部屋に行きましょう? 美味しいお菓子を用意したの」

 さあ、とローザがアンネリゼの手を引く。

「待って。ローザ」

 可愛い妹のはしゃぐ様子に、アンネリゼが微笑む──その耳に、低い声が届いた。

「安静にされなくよろしいのですか。ローザ殿」

 それは、アンネリゼにとっては慣れ親しんだ声。けれど、ローザには。

「……ご無沙汰しております。…………お義兄さま」

 流石のローザも、冷徹と評される皇帝を前にしては緊張せざる得なかったようだ。
 笑顔を引っ込め、姉から手を離し、しおらしく挨拶をする。

 二人の対面は、三月前の、結婚式以来だった。

 アンネリゼは隣に並んだ夫を見上げる。
 機嫌が悪いわけでも、怒っているわけでもないはずだが、彼の無表情はそれだけで相手に威圧感を与えてしまう。アンネリゼも、お見合いの前までは怖くて仕方がなかったからよくわかる。

 ジュニアスは外套の紐を緩めながら言った。

「ご健在そうで何よりです。アンネリゼから療養中とうかがっておりましたが……」

 ローザは小さく「ええ」と頷く。

「お義兄様の送ってくださった薬が効いたようです。熱も下がって、この通りに」
「それはよかった」

 ジュニアスのほっとしたような声音が意外だったのだろう。ローザの両目がわずかに見開かれる。ジュニアスは気づかずに続けた。

「見舞いが遅くなり申し訳ありませんでした。もっと早くに伺いたかったのですが、何分、日程の調整が難しく」
「いいえ……わざわざありがとうございます」

 ローザは言って、姉夫妻を貴賓室へと案内した。



(やっぱり、わたしひとりの方がよかったかしら……。)

 緊張に顔を硬らせていた妹と召使を思い出して、アンネリゼは後悔する。
 お茶をする前に部屋着に着替えたくて、別室に入っていた。メイドに手伝ってもらいながら、軽い生地のドレスに袖を通す。ついでに、髪も整え直した。

 でも、ローザが治っていて、本当によかったわ。

 血色もよく、溌剌としていた妹を思い出し、アンネリゼは小さく微笑む。
 ローザの具合がよくないと報せを受け取ったのが、ひと月前。
 アンネリゼは見舞いに行きたいと夫に願い出、彼もそれを快諾してくれた。
 しかしその翌日、夫は「やはり自分も同行する」と言い出したのだった。
 確かに、嫁いだばかりの妻がひとり、生家に戻ると言うのも外聞が悪い。二国間の友好を目的としたこの結婚にも亀裂が入ってしまいかねなかった。
 ジュニアスはそれを懸念してくれたのだろう。
 感情的に動いてしまった自分を反省しながらも、自由気質な妹の緊張した姿を目にしてしまった今は、果たして夫を連れての帰郷が正しかったのかと自答してしまう。

 わたしが二人の間をとり持たないと。

 それが妻として姉としての自分の役割だと思い直し、アンネリゼは急いで二人の待つ貴賓室へ向かった。
 と、たどり着いた部屋の装飾扉を衛兵が開いた。瞬間──飛び込んできたのは割れるようなローザの笑い声だった。

「嫌だわ、お義兄さまったら」
「……そんなに笑うことか?」

 アンネリゼは驚きながらも歩を進める。場は、思っていた以上に和やかだった。

「お待たせしました」

 会話の流れを止めはしないかと気にかかり、声は小さくなった。
 ジュニアスとローザは、大理石のテーブルを挟んで向かい合うように座っていた。ローザが、笑いを堪えながら振り返る。

「ああ、お姉さま」

 手招きされて、アンネリゼは妹の隣に腰掛けた。

「なあに? 何をそんなに笑っていたの?」
「だって、お義兄さまったらおかしいんですもの。わたしに送ってくださったお薬、『いい薬だ』なんておっしゃるくせに、ご自分は飲みたくないのですって。苦いから」
「まあ」

 そうだったの、とアンネリゼが夫に顔を向ければ、ジュニアスは気恥ずかしそうに眉をひそめた。その頬はほんのりと赤い。こんな彼を見るのは、初めてだった。

「ローザ殿も苦いと言っていただろう」
「ええ。すごく苦かったです。でも、人に勧めるのに自分は飲めないだなんて……子供みたいで」
「悪かったな。でも、あの薬だけは嫌なんだ。苦すぎる」

 深刻そうに言ったジュニアスに、ローザが再び笑い出す。

(陛下から、敬語が取れている……。)

 すっかり打ち解けているジュニアスとローザを前に、肩の力が抜けていく。ふたりの間を取りもたないと、なんて気負っていた自分が、少し恥ずかしくなった。

「……そんなに笑っては失礼よ。ローザ」
「はい。ごめんなさい、お姉さま」
「全く、アンネリゼとは似ても似つかないな」

 可愛らしく謝る妹と、それを仕方なさそうに見守る夫。安堵すべき場面。そのはずなのに、アンネリゼはどうしてか気落ちしていた。

 ジュニアスの花嫁に選ばれたのは、年齢的な問題でアンネリゼだった。
 けれど生まれる順番さえ違ったら、ローザが彼の妻になる可能性だってあったのだ。
 いつだって楽しそうに笑う、物おじしない可愛い妹。この子がお后だった方が、陛下の生活は明るかったかもしれない。
 そんな考えが脳裏をよぎって、ちくりと心臓が痛む。

 愛のない政略結婚。今のところジュニアスとアンネリゼの関係は良好で、そこに恋情はなくとも、十分だと思っていた。でも──もしもローザが相手だったのなら、恋や愛が芽生えていたかもしれない。
 だって二人は、こんなに簡単に仲良くなっているのだから。

 ばかね、わたしったら。
 
 卑屈な考えを振り払うように、アンネリゼはかぶりを振る。こんなこと、考えるだけ無駄だ。ジュニアスはすでに自分と結婚しているのだから。

「……アンネリゼ? どうかしたのか?」

 ジュニアスの物憂げな声がして、アンネリゼは顔をあげる。黒い瞳が心配そうにこちらを覗いていた。
 冷徹だなんてとんでもない。ジュニアスはとてもやさしい人だった。

「具合でも悪いのか?」
「いえ、大丈夫です」

 しかしジュニアスは納得しなかった。

「移動続きで疲れたんだろう。ローザ殿、すまないが部屋で休ませてくれないか」
「ええ。もちろんです! ごめんなさい、わたし、お姉さまが帰ってきてくれたのが嬉しくて、配慮が足りませんでした」

 項垂れるローザに、アンネリゼは首を横に振る。

「いいの。わたしも話したいことがたくさんあるもの」
「……後でお部屋に行ってもいい?」
「もちろんよ」

 とたん、ローザは花開くような笑顔を浮かべた。

「じゃあ、夕食で会いましょう」
「ええ」

「行こう、アンネリゼ」

 ジュニアスに手を引かれ、サロンを後にする。
 召使が滞在用の部屋へ案内するため、先頭を歩いていた。
 その途中、ジュニアスがすまなそうにアンネリゼを見下ろす。

「悪かった、すぐに気がつかなくて」

 アンネリゼは首を左右に振る。

「私なら本当に平気ですよ。でも、心配してくださってありがとうございます」
「…………顔色がよくない。夕食まで少し、眠った方がいいと思う」
「……はい」

 ローザみたいに、会話上手だったらよかった。
 それからは無言のまま。慣れ親しんだ王城の廊下を進む。

 繋がれたままの手を見つめて、思った。
 
(これも【義務】だからかしら)

「……」

 ……長い馬車旅で、本当に疲れているのかもしれない。

 アンネリゼは深く息を吸い込むと、ゆっくりとその全てを吐き出した。悪いものを、追い払いたかった。
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