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昔から、夜会の華やかな雰囲気が苦手だった。けれど立場上、避けて通ることはできない。だからその夜もジュニアスは、気乗りのしない夜会に参加していた──娶ったばかりの妻・アンネリゼを伴って。
「可愛い奥さんでよかったな」
そう気安く話しかけてきたのは、従兄のオーデルだった。無愛想な自分とは違い、朗らかな性格の従兄はしょっちゅう女性から声をかけられている。それを羨ましいと思ったことはないが、自分のように無闇に怖がられるよりはいいに違いないとは感じていた。
「……ああ。早く慣れてくれるといいんだが」
ジュニアスはひとつ頷くと、令嬢たちに囲まれ談笑しているアンネリゼに目を向けた。
いったい、どんな話をしているのだろう。
異国から嫁いできた娘・アンネリゼは、文化や言葉の違いに戸惑いながらも必死に応えようとしてくれていた。しかし、時折聞こえてくるリストリア特有の古い言い回しや冗談に、所々、ついていけていない節があった。
手を貸してやりたい。
向けそうになった足を、ジュニアスはそっと留まらせる。彼女は今、自分の力でこの国での地位を確立しようとしていた。どの道、いつまでも賓客扱いはできない。彼女には自身で動いてもらうしかないのだ。
「可愛いは否定しないんだ」
酒を片手に、オーデルが面白がるように言った。見やれば、その目尻は淡く赤らんでいる。随分飲んでいるらしい。
「悪いか?」
酔っぱらい相手にまともに返答する気にもなれず、ジュニアスは妻を見守ることに専念した。
夜会場の煌びやかなシャンデリアの下、令嬢たちに何か問われたらしいアンネリゼが、遠慮がちに口を開く。その控えめな笑顔は、見合いの席でしていたそれと同じものだった。
「……」
確かに、アンネリゼはとても可愛いらしい顔立ちをしていた。
高すぎない鼻に卵型の輪郭、ジュニアスを見上げる瞳は大きく、エメラルドのように輝いている。
他人の容姿にさほど頓着のないジュニアスでも、初めて会った時から、アンネリゼのことは可愛いと感じていた。
しかし、一国の后をそんな価値観だけで決めたわけではない。
ジュニアスはアンネリゼの素直さと勤勉な姿勢こそに好感を抱いていた。
今だってそうだ。早くリストリアに慣れ親しもうと、アンネリゼは懸命に貴族たちの輪に入り、交流を広げている。それは后として当然の役目と言ってしまえばそうだが──談笑の不得手なジュニアスにはわかる。あれは大変に気力を使うものだと。ましてや彼女は嫁いできたばかりの身。その労力は計り知れない。
たとえ本人がどれだけ「平気」だと言ってくれたところで、皇帝を相手に本音を言ってくれるとは思えなかった。
思い悩むジュニアスに、オーデルがくすくすと笑う。
「まあ、俺としては君が幸せそうで何よりだよ。どんな女性でも、断ることなんて出来なかったんだからね」
ジュニアスは一瞬だけ視線を共へと流す。そうして呟くように同意した。
「……ああ、そうだな」
不仲だった大国同士の協定。
その条件として結ばれたのがこの結婚で。だからそこに個の意思が通るはずもなかった。何から何までが【義務】だった。
ほろ酔いのオーデルがやんわりと肩を預けてくる。
「彼女にも、早く友だちができるといいね。そりゃ、前のお妃さまみたいに愛人をわんさか作られるのは困るけどさ、恋人の一人くらいなら許してやるつもりなんだろ?」
言われて、ジュニアスは友人を訝しげに見つめた。オーデルはのんびりした口調で言った。
「だって可哀想じゃないか。こんな遠い国で一人ぼっちで責任ばかり押し付けられるなんて。少しは息抜きさせてあげないと。恋愛くらい、自由にさ」
「……」
アンネリゼに、恋人。
ジュニアスはその光景を思い浮かべることもできず、ただ困惑した。
過去の皇帝やその后たちに、秘密の、或いは暗黙の恋人がいたことは否定できない。それは貴族社会の、個人的にはあまり好きにはなれない古い慣習だった。
だからジュニアスも、アンネリゼが責務さえ果たしてくれれば、できる限りの望みは叶えてやるつもりだった。オーデルの言う恋人だって、問題さえなければ黙認するつもりだった。
しかし。
「……恋人は、まだ早いんじゃないか。まずは友人作りから──」
言いつつ、気づく。まるで父親みたいなセリフだと。オーデルも同じように思ったのだろう。ぷっと吹き出した。
「そうだね。悪い男にでも引っ掛かったら大変だものね。だから君が目を光らせてあげないと」
そうして、「酔いを覚ましてくる」と、片手を振りながら立ち去ってしまった。
場に残されたジュニアスはひとり、片手で口元を覆う。
何を言ってるんだ、俺は。
アンネリゼには早くこの国に慣れ親しみ、友人も、趣味だって持ってほしいと思う。その気持ちに嘘偽りはないのに、彼女が恋人を作ることを快く許容できない自分がいた。
ジュニアスは自身を落ち着かせるように息を吐くと、談笑を続けているアンネリゼに視線を戻した。
若い貴公子が何事か冗談を言って、周囲の令嬢や夫人が笑っていた。だけどアンネリゼだけがついていけなくて、困ったように少し遅れて笑っていた。
今夜はもういいだろう。
「アンネリゼ」
ジュニアスが近づけば、人だかりから笑顔が消えた。
「陛下」
けれどアンネリゼだけが、自分を見てほっとしたように微笑んでくれた。
ああ。もっと早く助けてやればよかった。
アンネリゼの細い手を取り、微笑みかける。上手く笑えた自信はないけれど、彼女が怯えた様子はないから成功したのだと思う。
「そろそろ戻ろうか」
「はい。では皆様、また」
「ええ。また」
貴婦人たちが強張った表情でアンネリゼとジュニアスを見送る。
軽く曲げた自分の腕に、アンネリゼがそっと手を乗せた。
「今夜は初めての方ばかりで緊張してしまいました」
内緒話をするみたいに囁かれて、ジュニアスはこそばゆくなる。
「部屋でゆっくり聞かせてくれ」
「はい」
素直に頷くアンネリゼに、親しみが湧く。
──彼女に、恋愛を許すべきか。
もしも【その時】が来たら、自分は受け入れることができるのだろうか。
考え、出ない答えに頭を悩ませる。
とにかく今はこの騒がしい会場を出て彼女と二人になりたい。そう思っていた。
「可愛い奥さんでよかったな」
そう気安く話しかけてきたのは、従兄のオーデルだった。無愛想な自分とは違い、朗らかな性格の従兄はしょっちゅう女性から声をかけられている。それを羨ましいと思ったことはないが、自分のように無闇に怖がられるよりはいいに違いないとは感じていた。
「……ああ。早く慣れてくれるといいんだが」
ジュニアスはひとつ頷くと、令嬢たちに囲まれ談笑しているアンネリゼに目を向けた。
いったい、どんな話をしているのだろう。
異国から嫁いできた娘・アンネリゼは、文化や言葉の違いに戸惑いながらも必死に応えようとしてくれていた。しかし、時折聞こえてくるリストリア特有の古い言い回しや冗談に、所々、ついていけていない節があった。
手を貸してやりたい。
向けそうになった足を、ジュニアスはそっと留まらせる。彼女は今、自分の力でこの国での地位を確立しようとしていた。どの道、いつまでも賓客扱いはできない。彼女には自身で動いてもらうしかないのだ。
「可愛いは否定しないんだ」
酒を片手に、オーデルが面白がるように言った。見やれば、その目尻は淡く赤らんでいる。随分飲んでいるらしい。
「悪いか?」
酔っぱらい相手にまともに返答する気にもなれず、ジュニアスは妻を見守ることに専念した。
夜会場の煌びやかなシャンデリアの下、令嬢たちに何か問われたらしいアンネリゼが、遠慮がちに口を開く。その控えめな笑顔は、見合いの席でしていたそれと同じものだった。
「……」
確かに、アンネリゼはとても可愛いらしい顔立ちをしていた。
高すぎない鼻に卵型の輪郭、ジュニアスを見上げる瞳は大きく、エメラルドのように輝いている。
他人の容姿にさほど頓着のないジュニアスでも、初めて会った時から、アンネリゼのことは可愛いと感じていた。
しかし、一国の后をそんな価値観だけで決めたわけではない。
ジュニアスはアンネリゼの素直さと勤勉な姿勢こそに好感を抱いていた。
今だってそうだ。早くリストリアに慣れ親しもうと、アンネリゼは懸命に貴族たちの輪に入り、交流を広げている。それは后として当然の役目と言ってしまえばそうだが──談笑の不得手なジュニアスにはわかる。あれは大変に気力を使うものだと。ましてや彼女は嫁いできたばかりの身。その労力は計り知れない。
たとえ本人がどれだけ「平気」だと言ってくれたところで、皇帝を相手に本音を言ってくれるとは思えなかった。
思い悩むジュニアスに、オーデルがくすくすと笑う。
「まあ、俺としては君が幸せそうで何よりだよ。どんな女性でも、断ることなんて出来なかったんだからね」
ジュニアスは一瞬だけ視線を共へと流す。そうして呟くように同意した。
「……ああ、そうだな」
不仲だった大国同士の協定。
その条件として結ばれたのがこの結婚で。だからそこに個の意思が通るはずもなかった。何から何までが【義務】だった。
ほろ酔いのオーデルがやんわりと肩を預けてくる。
「彼女にも、早く友だちができるといいね。そりゃ、前のお妃さまみたいに愛人をわんさか作られるのは困るけどさ、恋人の一人くらいなら許してやるつもりなんだろ?」
言われて、ジュニアスは友人を訝しげに見つめた。オーデルはのんびりした口調で言った。
「だって可哀想じゃないか。こんな遠い国で一人ぼっちで責任ばかり押し付けられるなんて。少しは息抜きさせてあげないと。恋愛くらい、自由にさ」
「……」
アンネリゼに、恋人。
ジュニアスはその光景を思い浮かべることもできず、ただ困惑した。
過去の皇帝やその后たちに、秘密の、或いは暗黙の恋人がいたことは否定できない。それは貴族社会の、個人的にはあまり好きにはなれない古い慣習だった。
だからジュニアスも、アンネリゼが責務さえ果たしてくれれば、できる限りの望みは叶えてやるつもりだった。オーデルの言う恋人だって、問題さえなければ黙認するつもりだった。
しかし。
「……恋人は、まだ早いんじゃないか。まずは友人作りから──」
言いつつ、気づく。まるで父親みたいなセリフだと。オーデルも同じように思ったのだろう。ぷっと吹き出した。
「そうだね。悪い男にでも引っ掛かったら大変だものね。だから君が目を光らせてあげないと」
そうして、「酔いを覚ましてくる」と、片手を振りながら立ち去ってしまった。
場に残されたジュニアスはひとり、片手で口元を覆う。
何を言ってるんだ、俺は。
アンネリゼには早くこの国に慣れ親しみ、友人も、趣味だって持ってほしいと思う。その気持ちに嘘偽りはないのに、彼女が恋人を作ることを快く許容できない自分がいた。
ジュニアスは自身を落ち着かせるように息を吐くと、談笑を続けているアンネリゼに視線を戻した。
若い貴公子が何事か冗談を言って、周囲の令嬢や夫人が笑っていた。だけどアンネリゼだけがついていけなくて、困ったように少し遅れて笑っていた。
今夜はもういいだろう。
「アンネリゼ」
ジュニアスが近づけば、人だかりから笑顔が消えた。
「陛下」
けれどアンネリゼだけが、自分を見てほっとしたように微笑んでくれた。
ああ。もっと早く助けてやればよかった。
アンネリゼの細い手を取り、微笑みかける。上手く笑えた自信はないけれど、彼女が怯えた様子はないから成功したのだと思う。
「そろそろ戻ろうか」
「はい。では皆様、また」
「ええ。また」
貴婦人たちが強張った表情でアンネリゼとジュニアスを見送る。
軽く曲げた自分の腕に、アンネリゼがそっと手を乗せた。
「今夜は初めての方ばかりで緊張してしまいました」
内緒話をするみたいに囁かれて、ジュニアスはこそばゆくなる。
「部屋でゆっくり聞かせてくれ」
「はい」
素直に頷くアンネリゼに、親しみが湧く。
──彼女に、恋愛を許すべきか。
もしも【その時】が来たら、自分は受け入れることができるのだろうか。
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とにかく今はこの騒がしい会場を出て彼女と二人になりたい。そう思っていた。
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