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しおりを挟む「悪い、遅くなった」
軍服の袖ボタンを留めながら、ジュニアスが足早に歩み寄ってくる。その周囲には屈強な護衛が数名と、いつもの従者がぴたりとついていた。
小部屋で待機していたアンネリゼは、「いいえ」と答えながら、長椅子から立ち上がる。そうして見上げた夫の姿に、思わず息を呑んでしまった。
黒地に銀糸で彩られた式典用の軍服が、彼にとても似合っていたからーーだけではない。その衣装がひと月前に行われた、婚礼時に着用していたものと酷似していたからだ。
大勢の人の前で口づけられたその瞬間をにわかに思いだしてしまい、アンネリゼは戸惑い気味に目を逸らした。形式通りに交わされた誓いの口づけは軽く触れるだけだったにも関わらず、震え、身を引きそうになってしまったことをよく覚えていた。おそるおそる開いた視界の先で浮かべられていた、ジュニアスの気難しげな表情も――。
「行こうか」
ジュニアスが、折り曲げた腕を差し出した。
「はい」
アンネリゼは俯きがちに、彼の鍛え上げられた腕に自分の手を添えた。視線を感じて顔を上げれば、夫に見下ろされていた。低い声がする。
「……このところひとりにして悪かった。困ったことはなかったか? 必要なものがあれば言ってくれ、すぐに用意させる」
「いえ。不自由は何も。皆さまにはよくしていただいていますから」
「そうか」
ジュニアスはひとつ頷いたあと、正面へと顔を戻した。
夜を思わせる切れ長の瞳に、同じ色の艶やかな黒髪。整った顔立ちは彫像のように美しいのに、その表情が緩められることは滅多にない。武人であることを惜しがられる程の美貌を持ちながら、彼は確かに軍人だったーーそれも、極めて有能な。
「今夜の晩餐は諸外国からの貴賓が多いが、会話は俺も手伝うから安心していい」
「はい、陛下」
ジュニアスのエスコートを受けながら、アンネリゼは皆の待つ夜会場へと歩を進める。
帝国リストリアの皇帝ーージュニアス。賢帝と名高いこの男と、アンネリゼはひと月前夫婦になった。
敵同士だった二国を繋ぐための、政略結婚だった。
百年前に終わった戦争が尾を引き、未だ冷戦状態が続いていた大国フィンネルと帝国リストリア。
和平を結ぼうと申し出たのは、ジュニアス側からだった。
これ以上干渉せず、させずといった拮抗状態を続かせるより、全てを水に流して歩み寄るべきだと、彼は見合いの席でアンネリゼの父であるフィンネル王を説き伏せたのだった。
確かに、大国であるリストリアとフィンネルが手を組めば、これに勝る脅威はなかった。二大国の顔色ばかりを窺っていた周辺の国も動きやすくなるだろうし、侵略の恐れがなくなれば貿易も盛んとなる。フィンネル王は時勢を鑑み、ジュニアスの提案を受け入れることにした。
そうして晴れてアンネリゼとジュニアスのふたりは、二国の和平を象徴するための夫婦となったのだった。
『王族にとって結婚は義務。大切なお役目なのですよ』
幼い頃から大人たちにそう言い聞かされてきたアンネリゼは、この婚約を命じられた時、さほど驚きはしなかった。まさか相手がリストリア皇帝になるとは思いもしなかったけれど、歴代の王族がそうであったように、フィンネルの第一王女として、自分もまた他国へ嫁がされることを覚悟していたからだ。
ただ、一点。
懸念があるとすればそれは、リストリア皇帝は賢帝であると同時に、冷徹無慈悲であることでも有名だったことだ。
過去、若くして数多の戦に赴いたジュニアスは天才的なまでの統率力で与えられた兵力を最大限に活かし、幾つもの勝利を収めてきた。
その戦いのぶりの無情なことはこの上なかったーー相手が取るに足らない小国であろうと、リストリアに牙を剥く者への容赦はなく、ジュニアスは都を壊滅せしめたのち、王族を自身の足元にねじ伏せたという。
またジュニアスは直属の部下であればあるほど、規律を乱す者、命令違反者は厳しく取り締まることでも有名だった。確かに、彼に奏上する文官が顔を硬らせていたのを、アンネリゼも一度だけ見かけたことがあった。
幸い、アンネリゼはまだジュニアスの逆鱗に触れたことはないけれど。いつ、なにがきっかけになるかは誰にもわからない。
(気を引き締めなければ)
アンネリゼは重責を自覚し、唇を引き結んだ。
「……大丈夫か?」
「ええ、平気です」
晩餐会も無事一通り終わり、デザートが運ばれてきた。アンネリゼはジュニアスからの耳打ちに一瞬肩を揺らしてしまったけれど、何とか笑顔でやり過ごす。
粗相のないように、失敗をしないように。
そればかりを念頭に、音をたてないよう、マナー通りにフォークでケーキを一口大に切り分ける。その間も、会話に加わることは忘れない。
でも。
「……!」
そのケーキを口に運んだ途端、アンネリゼは思わず目を瞬いてしまった。
甘く、それでいてさっぱりとした優しい口当たり。これは。
「……気づいたか?」
会話の切れ目、ジュニアスが囁いてくる。アンネリゼはゆっくり嚥下すると「もしかして」と彼を見つめ返した。深い紺色の瞳と視線がかち合う。
「君の故郷の味を再現したくて、料理人に言って作らせてみたんだ。……君の祖国のことももっと勉強しなければいけないと思って。でなければ、和平を結んだ意味がないからな」
そう、少しこそばゆそうに言ったジュニアスに、アンネリゼは驚きを隠すことができなかった。
“若き賢君ジュニアス”。
畏れられながらも、彼がリストリアの民からそう親しまれている理由がわかったような気がした。
思い出したのは、見合いの席。アンネリゼの住む城に数名の従者だけを連れて足を踏み入れた彼は、凛とした姿勢を崩さず言い放った。
『戦の傷は決して癒えません。私の国がフィンネルに起こした愚行も、フィンネルが私の民を傷つけた過去も、決してなくなりはしません。しかし、今のままでは恨みつらみを新しい世代に引き継がせるだけ。新たな火種を産み落としかねません。幸いリストリアもフィンネルも昨今は平静を保ちつつあります。ですから今この時こそ、私たちで和解すべきではありませんか』
長い時間をかけて、自国の、そして敵国の老人たちに語りかけ、ついには和平を取り結んだジュニアス。アンネリゼは、その歯車のひとつに過ぎない。けれどその計画に加わることができて嬉しいと感じている自分もいて。アンネリゼはそっと言葉を返した。
「陛下……私もリストリアの料理のことをもっと覚えたいのですが。 教えてくださいますか」
「ああ。もちろんだ」
快く頷いてくれたジュニアスに、アンネリゼはそっと相合を崩す。
皇帝の表情は変わらずかたく、アンネリゼだって心から緊張が解けたわけではない。
これは、和平を結ぶための政略結婚。だからそこに愛はない。けれど、歩み寄ることは出来るはずだった。
「これも美味いんだぞ、食べてみろ」
「ええ。いただきます」
アンネリゼは言って、添えられていたシロップの瓶に手をかけた。
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