2 / 2
後編
しおりを挟む
(アルト。 戻っていたのね)
あのメイドとの話は済んだのだろうか。
つもる話があるのなら、もっとゆっくりしてくれても構わないのに。
と、緩やかな曲が始まって、リリシャはラフリートに手を引かれた。
その力強さに、思わず全身が強張る。
(アルト)
つい助けを求めるようにアルトを見やれば、彼の眉間には、微かに皺が寄っていた。
リリシャがステップを外し、相手の足を踏みはしないかと心配しているのだ。
いつも練習に付き合ってくれるアルトなら、リリシャがよろけて倒れかかっても、ヒールで踏みつけてしまっても、表情一つ変えずに許してくれる。
『ゆっくりで構いませんから』
そう言って、何時間だって耐えてくれる。
けれど、相手が名をあげつつある有力貴族とあってはそうはいかない。
リリシャはアルトから顔を逸らして、目の前のラフリートを見上げた。呼吸を整え、ステップに合わせる。
これまでのダンスの相手は、アルトが慎重に吟味し、上手くとりなしてくれていた。
(でももう、アルトの手は借りられないもの)
そつなく踊り切って見せると意気込みながら、リリシャはダンスに集中した。と、その耳にラフリートの笑みを含んだ声が届く。
「そう硬い顔をなさらないでください。ダンスは苦手ですか?」
見上げたラフリートは、クスクスと笑っていた。
「そんなに握り締めないでも離したりしませんよ」
言われてリリシャは、自分がラフリートの手を力いっぱいに握り締め、笑顔も会話もすっかり忘れていたことに気がついた。
リリシャは慌てて手の力を抜く。それでも曲は止まらない。
「ごめんなさい、わたし」
「大丈夫。安心なさって、わたしに任せてください」
片目をつぶって微笑んだラフリートは、その自信に違うことなく優雅にリリシャをリードした。
「お上手なんですね」
「普通ですよ。あとは数をこなすだけ」
歌うように言われてリリシャはなるほど、と感心した。
「わたしも色々な方と踊ってみますわ」
「それがいいでしょう。あなたはいつも一人か二人と踊って帰って行かれますからね。前の夜会も、その前の夜会も声を掛けたかったのに、すぐに帰ってしまわれるので残念に思っていました」
「それは、申し訳ありませんでした」
リリシャはそっと顔をうつむけた。
雑談やダンスが苦手だから最低限の社交で済むようにしていただなんて、口が裂けても言えない。それを手助けをしてくれていたアルトもただでは済まないだろう。
と、ラフリートが困ったような声を上げた。ほんの少し、ステップの歩調が緩まる。
「どうか落ち込まないでください。そんなつもりで言ったのではなく……わたしはただ、あなたとお近づきになりたかっただけなのです」
「……わたしと?」
「ええ」
腰に添えられているラフリートの手が、力強くリリシャを引き寄せる。そうしてくるりと回転させられた。自然なターンが出来たことに、リリシャはほっとした。
「リリシャ様」
と、妙に身体が近くなっていた。
鼻の先が、ラフリートの胸に当たりそうになる。ステップが踏みづらくなってよろめいたリリシャの耳元に、ラフリートが唇を寄せた。
「このあと、二人きりになる時間を許してはくださいませんか」
「え?」
「あの従者の許しがなければいけませんか?」
リリシャを抱きとめたラフリートの瞳がわずかに細められる。
その瞬間だった。
「お嬢様」
厳しく低く凛とした声が、リリシャとラフリートの間に割って入った。
リリシャは情けなくも一瞬、ほっとしてしまう。
独り立ちをすると決めたばかりなのに。
「アルト」
駆け寄りたい衝動を堪えて、なんとかダンスを踊り終える。
しかし、別れの会釈をしてもまだラフリートは離れてはくれなかった。腰に添えられた手もそのまま、なぜか一緒にアルトに歩み寄る。
困惑するリリシャには見向きもしないで、ラフリートはにこやかに言った。
「こんばんは。アルト殿、でしたかな。リリシャ様の護衛をなさっている」
「はい。アルト・フォン・イグバーツと申します」
「お噂はかねがね。確か、先日の剣術大会で優勝なされたとか?生憎わたしは見物にはいけませんでしたが、姫君方が熱をあげていらっしゃいましたよ。素晴らしくお強かったと」
「運が良かったのです、二度はないでしょう」
「またまた、ご謙遜を」
アルトの眉間の皺は消えていたものの、無表情に近い顔はそのままだった。
さっきまでは、あのメイドとにこやかに話していたのに。
「ラフリート殿。今宵はお会いできて光栄でした。わたし共はそろそろお暇させていただきますが、貴殿はどうぞ良い夜を」
丁寧な言葉も応対もいつものアルトそのもの。
けれどリリシャにはわかる。彼が早口なのは怒っている証拠、機嫌が悪い証拠なのだ。リリシャが勝手に有力貴族と踊ったことに、苛立っている。
帰りの馬車ではお説教を聞かされるに違いなかった。
考えが足りないとか、もっと気を付けてください、だとか。
いつまでも子供扱いされる悔しさに、リリシャはひどく気落ちした。
そうして、わずかな反抗心が生まれる。
いつまでも子供ではないのだと、彼にわからせたかった。
その思考こそが子供である証だとも気付けずに。
「いえ。わたしはまだ帰らないわ。ラフリート様とお話をするから。あなたは先に帰ってて」
真っ直ぐにアルトを見返して言えば、すぐに眉を顰められた。
「そうは参りません。旦那様も奥様も心配なされます」
「侍女(ジゼル)を残すから大丈夫よ」
「ジゼルでは何かあった時に対応が」
アルトの言葉を、明るいラフリートの声が遮った。
「それなら心配は無用です。リリシャ様と侍女殿はわたしが責任を持ってお送りいたしますから」
アルトの鋭い視線がラフリートに向けられた。
「お心遣い痛み入ります、ラフリート殿。ですが今日ご挨拶をさせていただいたばかりの貴殿にそこまでのお手を煩わせるわけには参りません。今宵はここで」
「遠慮も無用ですよ。それに……以前からリリシャ様とはゆっくりお話したいと思っていましたので」
言いながらラフリートは、熱っぽい瞳でリリシャを見つめた。
「やっとお声をかけることが出来ました」
「……ラフリート様」
慣れない空気にリリシャは怖気付きそうになるが、ここでアルトに助けを求めるなんて格好悪い真似は出来ない。
大丈夫。会話をするくらいなんてことない。そばにはジゼルもつけておくのだし。
「ね、アルト。ラフリート様もこうおっしゃってくれてるし、大丈夫だから」
しかしアルトの態度は頑なだった。
何が大丈夫なのかと、苛立ったようにリリシャを睨みつける。面倒に思っているのだろう。
「なりません。もうお戻りになりませんと旦那様に叱られますよ」
まるで子供のわがままを窘めるような言い方に、リリシャの心もささくれ立つ。
「平気よ。そんなに遅くならないもの」
「でしたらわたしもお伴いたします。宜しいでしょうか、ラフリート殿」
リリシャの背後でラフリートが不快そうに顔をしかめていた。しかし断る正当な理由も見つからず、頷く他はなかった。
「ええ。もちろん」
そうして、その夜会は一見は和やかに終わりを迎えた。
リリシャにとっての試練が始まったのは、帰りの馬車の中でのことだった。
「一体何を考えていらっしゃるんですか。未婚の娘が男性と二人きりになるなど、あり得ません」
馬車が走り出すと同時、アルトは怒りを露わにした。
せめてジゼルがいれば少しは味方になってくれたかもしれないのにーー二人きりで話がしたいからとアルトに命じられて、彼女は別の馬車に乗り込んでしまった。
高圧的な雰囲気の中、リリシャは負けまいと向かいに座るアルトを睨み返す。
「アルトだって女の人と二人きりだったじゃない。あれはいいの?」
と、アルトが驚いたように目を見開いた。
明らかに動揺している。
「……立ち聞きなど、淑女のなさることではありませんよ」
「ジゼルとはぐれてあなたを探していたら、偶然見てしまったのよ」
「声をかけてくだされば良かったのに」
「随分楽しそうだったから邪魔をするのは悪いと思ったの。仲がいいのね」
「……ただの幼馴染です」
「ふうん。会えて良かったわね。それで、故郷(くに)に戻るんだったかしら」
「あれは、言葉のあやで」
「別にいいのよ、隠さなくて」
最低だ。こんな意地悪な言い方をするつもりじゃなかったのに、言葉があふれて止まらない。癇癪持ちと言われても、仕方がなかった。
「あなたを解任します。 お父様にはわたしから話しておくわ」
十年も一緒にいたのに、満足に笑わせてあげることも出来なかった。ひどい主人だった。
「今までどうもありがとう。 これからは好きな場所でお幸せにね」
「リリシャ様」
言い過ぎただろうか。アルトが声を荒げて、リリシャを睨む。
「いい加減になさってください。俺は故郷になんて帰りませんよ」
「だって……帰りたいって言ったわ」
「あなたがなんと言おうと、そばを離れるつもりはありません」
「どうしてよ、わたしといるのなんか窮屈なんでしょ?そう言ってたじゃない」
自由をあげると言っているのだから、リリシャの気が変わらないうちに、早く、どこか手の届かないところへ行ってほしい。そうでなければ、リリシャはまたアルトに甘えて縛り続けてしまう。
向かいで、アルトが投げやりに言った。
「ええ。窮屈ですよ。お嬢様はわがままですし、泣き虫ですし、昔から困らされてばかりです」
「……っだったら」
「でもお嬢様は、他の男がそばについて平気なんですか」
アルトの手が伸ばされて、膝に置かれたリリシャの手を握った。
「新しい従僕は、俺より無愛想で、厳しくて、年齢だってもっと上かもしれません」
「……我慢するわ」
「お嬢様には無理です」
キッパリと言い切って、アルトのもう一方の手がリリシャの頬に添えられる。
「さっきだって、あの男に触られて怯えていらっしゃった」
近づいてきたアルトの唇が、ゆっくりとリリシャの目尻に触れた。何が起きているのか分からなくて、固まるリリシャをアルトの黒い瞳が覗き込む。
「俺が気づいていないとでも?」
「……でも、誘われたら断っちゃいけないって」
「ええ。おそばを離れたのは俺の落ち度でした、すみません。今夜はジゼルがいるからと安心してしまいました」
後悔しましたと打ち明けながら、アルトは口付けを止めなかった。
首を傾けて、目尻から頬へと、唇を移動させていく。
「アルト……なにするの」
「あの男ーーラフリートでしたか?あいつとふたりきりになっていたら、こんなことをされていたかもしれないんですよ。分かっていますか」
分からない。彼は紳士だ。そんなことあるわけない。
そう反論しようとしたのに、唇を塞がれてしまったせいで、リリシャはもう何も考えられなくなった。深く深く唇を重ねられ、ようやっと離された隙に、見つめられる。
「……いやだった?」
リリシャはじっとアルトを見つめた。
「アルトなら、いやじゃ……ない」
彼が笑った。
「良かった」
それは、あのメイドの女性といた時のような、弾けるような笑顔ではなかった。柔らかく、穏やかで、ほっとしたような、小さな笑み。
「ねえ。アルトは、わたしのこと面倒なんじゃなかったの……?」
アルトは困ったように微笑みを深める。
「面倒だったら、十年も一緒にいませんよ」
「じゃあ、好きなの?」
「嫌いな相手を心配したりしません」
「……あの女の人より、好き?」
「お嬢様を他の人と比べたことなんてありません」
言ったアルトの端正な顔が、もう一度近づいてきた。
「っ……待って、アルト」
「……なんですか」
「わたし、あなたのことがずっと、ずっと好きだったの。結婚したいくらいに」
彼は笑った。
「そうでしたか」
そうしてリリシャを抱きしめながら言った。
俺とお嬢様、どちらが先だったのでしょうね、と。
◇
あの日。大木から落ちてきたリリシャを受け止めた瞬間から、アルトの人生は大きく狂わされた。
ひどく愛らしい容姿をした少女に気に入られてしまったアルトは、公爵家の従僕として雇われ、お嬢様のお気に入りとして従わされた。
けれど不思議と、嫌な気持ちはしなかった。
リリシャは、アルトや仲のいい知人や家族の前ではよく喋るのに、初対面の人間の前では別人のように口を閉ざす娘だった。
これでは将来が思いやられると、アルトは彼女の両親の命で、補佐に回らされた。
公爵の計らいで爵位を与えられたのは、そんな経緯があったためだ。
以来アルトは、貴族の端くれとしてリリシャに付き従った。
リリシャに近寄ってくる悪い虫を追い払い、正しい道を敷いて歩ませる。
「いつもありがとう、アルト」
そう言って、自分だけに甘えてくれるリリシャを特別に思い始めたのはいつからだろうか。
もう分からない。覚えていない。
一緒にいる時間が長すぎた。
と、腕の中に抱き締めていた少女がモゾモゾと動いた。
「ねえアルト、お父様にはなんて言ったらいいのかしら」
「そうですね。正直に話してみましょう」
「反対されたら、どうしましょう」
「その時は俺の国に行きましょう」
リリシャはわずかに興奮して言った。
「駆け落ちね」
「そうなりますね」
リリシャを抱きしめ直しながら、アルトは彼女の髪を撫でた。
でもきっと、その心配は必要ない。
公爵は末娘のリリシャを溺愛している。爵位は彼女の兄君たちが継ぐであろうし、リリシャが目の届く範囲で住まうとなれば、公爵も許してくれるに違いなかった。それにアルトには十年をかけて得た信頼がある。
間違ってもラフリートのような財産目当ての男に嫁がせるよりはいいはずだ。
「なんだかドキドキするわ」
「うん、俺も」
頬に両手を当てて落ち着きなく喋り続けるリリシャの額に、アルトは唇を寄せた。
今までは家来として仕えてきたから感情をなるベく抑えてきた。
でもこれからは違う。
たくさんの愛情を示していける。
そんな喜びに、満たされていた。
あのメイドとの話は済んだのだろうか。
つもる話があるのなら、もっとゆっくりしてくれても構わないのに。
と、緩やかな曲が始まって、リリシャはラフリートに手を引かれた。
その力強さに、思わず全身が強張る。
(アルト)
つい助けを求めるようにアルトを見やれば、彼の眉間には、微かに皺が寄っていた。
リリシャがステップを外し、相手の足を踏みはしないかと心配しているのだ。
いつも練習に付き合ってくれるアルトなら、リリシャがよろけて倒れかかっても、ヒールで踏みつけてしまっても、表情一つ変えずに許してくれる。
『ゆっくりで構いませんから』
そう言って、何時間だって耐えてくれる。
けれど、相手が名をあげつつある有力貴族とあってはそうはいかない。
リリシャはアルトから顔を逸らして、目の前のラフリートを見上げた。呼吸を整え、ステップに合わせる。
これまでのダンスの相手は、アルトが慎重に吟味し、上手くとりなしてくれていた。
(でももう、アルトの手は借りられないもの)
そつなく踊り切って見せると意気込みながら、リリシャはダンスに集中した。と、その耳にラフリートの笑みを含んだ声が届く。
「そう硬い顔をなさらないでください。ダンスは苦手ですか?」
見上げたラフリートは、クスクスと笑っていた。
「そんなに握り締めないでも離したりしませんよ」
言われてリリシャは、自分がラフリートの手を力いっぱいに握り締め、笑顔も会話もすっかり忘れていたことに気がついた。
リリシャは慌てて手の力を抜く。それでも曲は止まらない。
「ごめんなさい、わたし」
「大丈夫。安心なさって、わたしに任せてください」
片目をつぶって微笑んだラフリートは、その自信に違うことなく優雅にリリシャをリードした。
「お上手なんですね」
「普通ですよ。あとは数をこなすだけ」
歌うように言われてリリシャはなるほど、と感心した。
「わたしも色々な方と踊ってみますわ」
「それがいいでしょう。あなたはいつも一人か二人と踊って帰って行かれますからね。前の夜会も、その前の夜会も声を掛けたかったのに、すぐに帰ってしまわれるので残念に思っていました」
「それは、申し訳ありませんでした」
リリシャはそっと顔をうつむけた。
雑談やダンスが苦手だから最低限の社交で済むようにしていただなんて、口が裂けても言えない。それを手助けをしてくれていたアルトもただでは済まないだろう。
と、ラフリートが困ったような声を上げた。ほんの少し、ステップの歩調が緩まる。
「どうか落ち込まないでください。そんなつもりで言ったのではなく……わたしはただ、あなたとお近づきになりたかっただけなのです」
「……わたしと?」
「ええ」
腰に添えられているラフリートの手が、力強くリリシャを引き寄せる。そうしてくるりと回転させられた。自然なターンが出来たことに、リリシャはほっとした。
「リリシャ様」
と、妙に身体が近くなっていた。
鼻の先が、ラフリートの胸に当たりそうになる。ステップが踏みづらくなってよろめいたリリシャの耳元に、ラフリートが唇を寄せた。
「このあと、二人きりになる時間を許してはくださいませんか」
「え?」
「あの従者の許しがなければいけませんか?」
リリシャを抱きとめたラフリートの瞳がわずかに細められる。
その瞬間だった。
「お嬢様」
厳しく低く凛とした声が、リリシャとラフリートの間に割って入った。
リリシャは情けなくも一瞬、ほっとしてしまう。
独り立ちをすると決めたばかりなのに。
「アルト」
駆け寄りたい衝動を堪えて、なんとかダンスを踊り終える。
しかし、別れの会釈をしてもまだラフリートは離れてはくれなかった。腰に添えられた手もそのまま、なぜか一緒にアルトに歩み寄る。
困惑するリリシャには見向きもしないで、ラフリートはにこやかに言った。
「こんばんは。アルト殿、でしたかな。リリシャ様の護衛をなさっている」
「はい。アルト・フォン・イグバーツと申します」
「お噂はかねがね。確か、先日の剣術大会で優勝なされたとか?生憎わたしは見物にはいけませんでしたが、姫君方が熱をあげていらっしゃいましたよ。素晴らしくお強かったと」
「運が良かったのです、二度はないでしょう」
「またまた、ご謙遜を」
アルトの眉間の皺は消えていたものの、無表情に近い顔はそのままだった。
さっきまでは、あのメイドとにこやかに話していたのに。
「ラフリート殿。今宵はお会いできて光栄でした。わたし共はそろそろお暇させていただきますが、貴殿はどうぞ良い夜を」
丁寧な言葉も応対もいつものアルトそのもの。
けれどリリシャにはわかる。彼が早口なのは怒っている証拠、機嫌が悪い証拠なのだ。リリシャが勝手に有力貴族と踊ったことに、苛立っている。
帰りの馬車ではお説教を聞かされるに違いなかった。
考えが足りないとか、もっと気を付けてください、だとか。
いつまでも子供扱いされる悔しさに、リリシャはひどく気落ちした。
そうして、わずかな反抗心が生まれる。
いつまでも子供ではないのだと、彼にわからせたかった。
その思考こそが子供である証だとも気付けずに。
「いえ。わたしはまだ帰らないわ。ラフリート様とお話をするから。あなたは先に帰ってて」
真っ直ぐにアルトを見返して言えば、すぐに眉を顰められた。
「そうは参りません。旦那様も奥様も心配なされます」
「侍女(ジゼル)を残すから大丈夫よ」
「ジゼルでは何かあった時に対応が」
アルトの言葉を、明るいラフリートの声が遮った。
「それなら心配は無用です。リリシャ様と侍女殿はわたしが責任を持ってお送りいたしますから」
アルトの鋭い視線がラフリートに向けられた。
「お心遣い痛み入ります、ラフリート殿。ですが今日ご挨拶をさせていただいたばかりの貴殿にそこまでのお手を煩わせるわけには参りません。今宵はここで」
「遠慮も無用ですよ。それに……以前からリリシャ様とはゆっくりお話したいと思っていましたので」
言いながらラフリートは、熱っぽい瞳でリリシャを見つめた。
「やっとお声をかけることが出来ました」
「……ラフリート様」
慣れない空気にリリシャは怖気付きそうになるが、ここでアルトに助けを求めるなんて格好悪い真似は出来ない。
大丈夫。会話をするくらいなんてことない。そばにはジゼルもつけておくのだし。
「ね、アルト。ラフリート様もこうおっしゃってくれてるし、大丈夫だから」
しかしアルトの態度は頑なだった。
何が大丈夫なのかと、苛立ったようにリリシャを睨みつける。面倒に思っているのだろう。
「なりません。もうお戻りになりませんと旦那様に叱られますよ」
まるで子供のわがままを窘めるような言い方に、リリシャの心もささくれ立つ。
「平気よ。そんなに遅くならないもの」
「でしたらわたしもお伴いたします。宜しいでしょうか、ラフリート殿」
リリシャの背後でラフリートが不快そうに顔をしかめていた。しかし断る正当な理由も見つからず、頷く他はなかった。
「ええ。もちろん」
そうして、その夜会は一見は和やかに終わりを迎えた。
リリシャにとっての試練が始まったのは、帰りの馬車の中でのことだった。
「一体何を考えていらっしゃるんですか。未婚の娘が男性と二人きりになるなど、あり得ません」
馬車が走り出すと同時、アルトは怒りを露わにした。
せめてジゼルがいれば少しは味方になってくれたかもしれないのにーー二人きりで話がしたいからとアルトに命じられて、彼女は別の馬車に乗り込んでしまった。
高圧的な雰囲気の中、リリシャは負けまいと向かいに座るアルトを睨み返す。
「アルトだって女の人と二人きりだったじゃない。あれはいいの?」
と、アルトが驚いたように目を見開いた。
明らかに動揺している。
「……立ち聞きなど、淑女のなさることではありませんよ」
「ジゼルとはぐれてあなたを探していたら、偶然見てしまったのよ」
「声をかけてくだされば良かったのに」
「随分楽しそうだったから邪魔をするのは悪いと思ったの。仲がいいのね」
「……ただの幼馴染です」
「ふうん。会えて良かったわね。それで、故郷(くに)に戻るんだったかしら」
「あれは、言葉のあやで」
「別にいいのよ、隠さなくて」
最低だ。こんな意地悪な言い方をするつもりじゃなかったのに、言葉があふれて止まらない。癇癪持ちと言われても、仕方がなかった。
「あなたを解任します。 お父様にはわたしから話しておくわ」
十年も一緒にいたのに、満足に笑わせてあげることも出来なかった。ひどい主人だった。
「今までどうもありがとう。 これからは好きな場所でお幸せにね」
「リリシャ様」
言い過ぎただろうか。アルトが声を荒げて、リリシャを睨む。
「いい加減になさってください。俺は故郷になんて帰りませんよ」
「だって……帰りたいって言ったわ」
「あなたがなんと言おうと、そばを離れるつもりはありません」
「どうしてよ、わたしといるのなんか窮屈なんでしょ?そう言ってたじゃない」
自由をあげると言っているのだから、リリシャの気が変わらないうちに、早く、どこか手の届かないところへ行ってほしい。そうでなければ、リリシャはまたアルトに甘えて縛り続けてしまう。
向かいで、アルトが投げやりに言った。
「ええ。窮屈ですよ。お嬢様はわがままですし、泣き虫ですし、昔から困らされてばかりです」
「……っだったら」
「でもお嬢様は、他の男がそばについて平気なんですか」
アルトの手が伸ばされて、膝に置かれたリリシャの手を握った。
「新しい従僕は、俺より無愛想で、厳しくて、年齢だってもっと上かもしれません」
「……我慢するわ」
「お嬢様には無理です」
キッパリと言い切って、アルトのもう一方の手がリリシャの頬に添えられる。
「さっきだって、あの男に触られて怯えていらっしゃった」
近づいてきたアルトの唇が、ゆっくりとリリシャの目尻に触れた。何が起きているのか分からなくて、固まるリリシャをアルトの黒い瞳が覗き込む。
「俺が気づいていないとでも?」
「……でも、誘われたら断っちゃいけないって」
「ええ。おそばを離れたのは俺の落ち度でした、すみません。今夜はジゼルがいるからと安心してしまいました」
後悔しましたと打ち明けながら、アルトは口付けを止めなかった。
首を傾けて、目尻から頬へと、唇を移動させていく。
「アルト……なにするの」
「あの男ーーラフリートでしたか?あいつとふたりきりになっていたら、こんなことをされていたかもしれないんですよ。分かっていますか」
分からない。彼は紳士だ。そんなことあるわけない。
そう反論しようとしたのに、唇を塞がれてしまったせいで、リリシャはもう何も考えられなくなった。深く深く唇を重ねられ、ようやっと離された隙に、見つめられる。
「……いやだった?」
リリシャはじっとアルトを見つめた。
「アルトなら、いやじゃ……ない」
彼が笑った。
「良かった」
それは、あのメイドの女性といた時のような、弾けるような笑顔ではなかった。柔らかく、穏やかで、ほっとしたような、小さな笑み。
「ねえ。アルトは、わたしのこと面倒なんじゃなかったの……?」
アルトは困ったように微笑みを深める。
「面倒だったら、十年も一緒にいませんよ」
「じゃあ、好きなの?」
「嫌いな相手を心配したりしません」
「……あの女の人より、好き?」
「お嬢様を他の人と比べたことなんてありません」
言ったアルトの端正な顔が、もう一度近づいてきた。
「っ……待って、アルト」
「……なんですか」
「わたし、あなたのことがずっと、ずっと好きだったの。結婚したいくらいに」
彼は笑った。
「そうでしたか」
そうしてリリシャを抱きしめながら言った。
俺とお嬢様、どちらが先だったのでしょうね、と。
◇
あの日。大木から落ちてきたリリシャを受け止めた瞬間から、アルトの人生は大きく狂わされた。
ひどく愛らしい容姿をした少女に気に入られてしまったアルトは、公爵家の従僕として雇われ、お嬢様のお気に入りとして従わされた。
けれど不思議と、嫌な気持ちはしなかった。
リリシャは、アルトや仲のいい知人や家族の前ではよく喋るのに、初対面の人間の前では別人のように口を閉ざす娘だった。
これでは将来が思いやられると、アルトは彼女の両親の命で、補佐に回らされた。
公爵の計らいで爵位を与えられたのは、そんな経緯があったためだ。
以来アルトは、貴族の端くれとしてリリシャに付き従った。
リリシャに近寄ってくる悪い虫を追い払い、正しい道を敷いて歩ませる。
「いつもありがとう、アルト」
そう言って、自分だけに甘えてくれるリリシャを特別に思い始めたのはいつからだろうか。
もう分からない。覚えていない。
一緒にいる時間が長すぎた。
と、腕の中に抱き締めていた少女がモゾモゾと動いた。
「ねえアルト、お父様にはなんて言ったらいいのかしら」
「そうですね。正直に話してみましょう」
「反対されたら、どうしましょう」
「その時は俺の国に行きましょう」
リリシャはわずかに興奮して言った。
「駆け落ちね」
「そうなりますね」
リリシャを抱きしめ直しながら、アルトは彼女の髪を撫でた。
でもきっと、その心配は必要ない。
公爵は末娘のリリシャを溺愛している。爵位は彼女の兄君たちが継ぐであろうし、リリシャが目の届く範囲で住まうとなれば、公爵も許してくれるに違いなかった。それにアルトには十年をかけて得た信頼がある。
間違ってもラフリートのような財産目当ての男に嫁がせるよりはいいはずだ。
「なんだかドキドキするわ」
「うん、俺も」
頬に両手を当てて落ち着きなく喋り続けるリリシャの額に、アルトは唇を寄せた。
今までは家来として仕えてきたから感情をなるベく抑えてきた。
でもこれからは違う。
たくさんの愛情を示していける。
そんな喜びに、満たされていた。
1
お気に入りに追加
17
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
婚約破棄されなかった者たち
ましゅぺちーの
恋愛
とある学園にて、高位貴族の令息五人を虜にした一人の男爵令嬢がいた。
令息たちは全員が男爵令嬢に本気だったが、結局彼女が選んだのはその中で最も地位の高い第一王子だった。
第一王子は許嫁であった公爵令嬢との婚約を破棄し、男爵令嬢と結婚。
公爵令嬢は嫌がらせの罪を追及され修道院送りとなった。
一方、選ばれなかった四人は当然それぞれの婚約者と結婚することとなった。
その中の一人、侯爵令嬢のシェリルは早々に夫であるアーノルドから「愛することは無い」と宣言されてしまい……。
ヒロインがハッピーエンドを迎えたその後の話。
お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
骸骨と呼ばれ、生贄になった王妃のカタの付け方
ウサギテイマーTK
恋愛
骸骨娘と揶揄され、家で酷い扱いを受けていたマリーヌは、国王の正妃として嫁いだ。だが結婚後、国王に愛されることなく、ここでも幽閉に近い扱いを受ける。側妃はマリーヌの義姉で、公式行事も側妃が請け負っている。マリーヌに与えられた最後の役割は、海の神への生贄だった。
注意:地震や津波の描写があります。ご注意を。やや残酷な描写もあります。
冤罪から逃れるために全てを捨てた。
四折 柊
恋愛
王太子の婚約者だったオリビアは冤罪をかけられ捕縛されそうになり全てを捨てて家族と逃げた。そして以前留学していた国の恩師を頼り、新しい名前と身分を手に入れ幸せに過ごす。1年が過ぎ今が幸せだからこそ思い出してしまう。捨ててきた国や自分を陥れた人達が今どうしているのかを。(視点が何度も変わります)
【完結】新皇帝の後宮に献上された姫は、皇帝の寵愛を望まない
ユユ
恋愛
周辺諸国19国を統べるエテルネル帝国の皇帝が崩御し、若い皇子が即位した2年前から従属国が次々と姫や公女、もしくは美女を献上している。
既に帝国の令嬢数人と従属国から18人が後宮で住んでいる。
未だ献上していなかったプロプル王国では、王女である私が仕方なく献上されることになった。
後宮の余った人気のない部屋に押し込まれ、選択を迫られた。
欲の無い王女と、女達の醜い争いに辟易した新皇帝の噛み合わない新生活が始まった。
* 作り話です
* そんなに長くしない予定です
拝啓、許婚様。私は貴方のことが大嫌いでした
結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【ある日僕の元に許婚から恋文ではなく、婚約破棄の手紙が届けられた】
僕には子供の頃から決められている許婚がいた。けれどお互い特に相手のことが好きと言うわけでもなく、月に2度の『デート』と言う名目の顔合わせをするだけの間柄だった。そんなある日僕の元に許婚から手紙が届いた。そこに記されていた内容は婚約破棄を告げる内容だった。あまりにも理不尽な内容に不服を抱いた僕は、逆に彼女を遣り込める計画を立てて許婚の元へ向かった――。
※他サイトでも投稿中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
すっごく良かったです💕
身分違いのほっこりラブストーリー✨ステキな作品✨ありがとうございました😭
にいなさま
わー!身分違い恋愛大好きで書いたのですが、楽しんでいただけてとってもとっで嬉しいです!🌸
感想ありがとうございました!🥰♡