宵月町のあやかし

koma

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一話

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「凛さん、まだ残ってらっしゃたんですね」

 言いながら戸を閉めた暁月は、拍子抜けしてしまうほど普段通りだった。店の奥にユキを見つけて、顔を綻ばせる。

「ユキさんも、もういらしたんですね、早く来すぎたかなって思ってたんですけど」
「……オレも今来たところだ」
「なら良かった、待たせてしまったのかと思いました」

 答えつつ、ユキに歩み寄る。その普通過ぎる暁月の態度に、凛は淡い期待を抱いた。もしかしたら暁月は、札のことは何も知らないのかもしれない。昨日のことは全て、日織の独断だったのかも──。そうだったらいいと、祈るような気持ちで彼の端正な横顔を眺めやる。

 凛は出来ればこのまま、暁月とは友好な関係を保っていたかった。彼が美味しそうに高谷の料理を食べてくれるのや、宵月町の話を興味深そうに聞いてくれるのが本当に好きだったからだ。それに何より彼はあの日、ヒトから凛を助けてくれた。そのままで居てほしかった。

「もう行きますか? 実は俺、五番層には数えるほどしか降りたことがないので、楽しみにしていたんです」

 屈託なく笑った暁月に、しかし向かうユキは冷ややかだった。胸の前で腕を組んだまま、淡々と言い放つ。

「悪いが、その話はなかったことにしてくれ」
「え? 都合でも悪く──」
「しらばっくれんな。凛を疑うやつと酒は呑めねえって言ってんだよ」

 一拍置いて、暁月は口を開いた。

「…………凛、さんを? 疑う……? 誰が」

 そうして何のことかと尋ねるように、凛と高谷を見やり、息を呑んだ。

「何か、あったんですか?」

 それに答えたのは高谷だった。

「何かも何もねえ。あんたの部下が、凛に札を貼ってったんだ」
「────札を?」

 繰り返した暁月が、戸惑ったように凛を見やる。凛はとっさに、腕を強く握りしめた。暁月が言った。

「そこに、貼られたんですか? ……日織ですか」

 それは疑問ではなく確認だった。視線に耐えられなくなった凛はつい目線を逸らしてしまう。

「凛さん」
「捜査の協力を頼まれて、それだけです。暁月さんが心配されるようなことは何も」

 意図せず早口になってしまった凛を落ち着かせるように、暁月は向き直る。

「…………日織が大変手荒な真似をしました。申し訳ありません」

 押し殺したような苦悶の謝罪とともに、深く頭を下げられる。──やはり暁月は、今回のことは何も知らなかったのだ。 凛は、ゆるく頭を振った。

「謝らないでください。お仕事だから仕方がないってことはわかっています。捜査協力は市民の義務ですし……それに、明日には剥がして貰える約束ですから、本当に気にならさないでください」
「明日? なぜ?」

 顔を上げた暁月を安心させるように凛は頷く。

「今、歯型を検証してもらっているんです。その結果が犯人のものと一致しなければ剥がしてくれるって」
「……歯型って……あいつ、そんなことまで」

 呆れたように怒りを抑え込むように長く息を吐き出した暁月は、そっと凛に向き直った。

「見せてもらっていいですか」
「え?」
「あなたが犯人なわけはない。すぐに剥がしましょう」
「でも」
「大丈夫です、痛いことはありませんから。それに、貼られたままというのも不安でしょう?」
「…………はい」

 どこまでも優しい。暁月の気遣いが有り難くて、凛は素直にその好意を受け取ることにした。
 小袖を捲り、おずおずと包帯をほどく──と、そこに現れた呪符を見たとたん、暁月は強く眉を顰めたように見えた。「怯えすぎだろ」と。そうこぼしながら。

「少し触りますね」
「はい」

 断りをいれた暁月が、そうっと、壊れものを扱うかのような手つきで、凛に触れる。右手で腕を支えながら、左の手のひらで、札を優しくひと撫でした。瞬間、春のあたたかな陽光に包まれた時のような熱を感じ──数秒後には、札ははらりと剥がれ落ちていた。

「あ……」
「これでもう大丈夫ですよ」

 暁月は凛の腕を離すと、床に落ちた札を拾った。それを物憂げに眺めやり、また一つ、ため息をこぼす。

「……本当に、申し訳ないことをしました」
「いえ、私は全然」

 こうして札が剥がれて、暁月が信じてくれていたのだからそれだけで十分だ。謝罪など必要ないと言った凛に、けれど暁月は納得しない。

「凛さんはもちろんですが、高谷さんにもユキさんにも不快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。この詫びは後日改めて、必ず」
「日織って奴も一緒にな」
「あともうお前、必要以上にここに来るな」

 ユキと高谷に立て続けに言われて、暁月は真摯に頷いた。

「はい──この度は誠に申し訳ありませんでした」

 再び深く長く頭を下げた暁月に、凛は一抹の寂しさを覚える。

(せっかく、仲良くなれそうだったのに……)

 繋がりかけた暁月とのえにしが薄く細くなっていくの感じる。問題は、解決した。けれどその実、溝が深まっただけなのかもしれなかった。ヒトとあやかしの、埋まらない溝が。
 暁月はもう、特別な用でもない限り『善』を訪れはしないのだろう。

「あの、暁月さん」
「はい」

 凛は、今にも立ち去りそうな暁月に呼びかけた。せめてもう少しだけ、話をしたい。
 
「……えっと、暁月さんたちは、あの犯人を追ってらっしゃるんですよね」

 凛を見下ろした暁月が、ほんの少し表情を和らげる。

「……そうですよ。宵月町に逃げ込んだ可能性が高いと見て、今、追い込んでいたところです。──実は、被害者が上官の親戚で、急げとせっつかれてもいまして。情けない話ですが、それで日織も冷静な判断ができなくなっていたんだと思います。だからこんな……いや、全部言い訳にしかなりませんね。怖い思いをさせて、すみませんでした」

 日織にはきつく言っておきます、と暁月が力なく笑った。凛は「いえ」と微笑みを返した。

「日織さんもお仕事だったんですから……それより、私にできることがあれば言ってくださいね、協力しますから」
「ありがとうございます。凛さんも、困ったことがあったらいつでも言ってくださいね」
「はい」

 どうして。──暁月はこんなにも凛たちに歩み寄ろうとしてくれているのに、どうして溝は埋まらないのだろう? 思いながら凛は「それでは」と踵を返した暁月の背を見送る。それ以上、どんな言葉をかければ彼を繋ぎ止められるのか、わからなかった。

 暁月が、立て付けの悪い引き戸を開く。その向こう、外はもう真黒な闇夜で、所々を花灯籠がふんわりと照らしていた。宵月町の、いつもの夜だ。

 と、瞬間。──ごうっと。一際強い夜風が吹いて、店の中を激しく荒らした。暖簾が揺れ、品書きが倒れ、梁が軋む。

「……っ! けほっ!」

(何、これ)

 風が吹き込むと同時に充満してきた生臭い匂いに、凛は思わず鼻を覆った。血のような肉のような──獣の匂いがした。

「おい、これって」

 高谷の焦ったような声に顔を向ければ、彼も手の甲で自身の鼻を塞いでいた。店の外がにわかに騒がしくなる。

「! 凛さんたちはここにいてください、決して外に出ないように!」

 叫んだ暁月が店を飛び出していく。

「おい! どうしたってんだよ!」

 しかしこの匂いだ。高谷たちだって大人しくなどしていられない。高谷とユキに続き、凛も連れ立って表へ出る。すると。

「……っな!」
「おい、あれって」

 阿鼻叫喚──。
 そこでは様々なあやかしが、自動車ほどもある巨大な【犬】から逃げ回っていた。闇夜の中、姿勢を低くした犬は、低い唸り声をあげながら獲物を見定めているように見えた。耳まで裂けたような大きな口の端からは涎がこぼれ落ち、鋭い牙が覗いている。

 その姿に、凛はふと、日織が言っていた言葉を思い出した。

『これは世間には流れていない情報なのでご存知ないかもしれませんが……いえ、ご存知かもしれませんが。被害者には獣に咬まれたような痕がありました。あやかしの怨嗟の痕跡も』

 ──もしかして。この犬が日織の言っていたあやかしなのではないだろうか。
 凛は確信を持ちながら、目の前で唸る獣を見つめた。本来は白いのだろう体毛は薄汚れ灰がかり、ところどころが黒くなっている。よく見れば、それが血によるものだと気づく。目は見えていないのか、両目ともに白く濁っていた。

「……あの子が、ヒトを」

 襲ったのだろう。

 凛はひくりと鼻を動かし、後ずさる。

 その見目は、確かに醜く恐ろしかった。ヒトからすれば尚更だろう。けれどそれよりも何よりも、凛は獣から感じる悲鳴じみた怨嗟の方が耐え難かった。つらい、苦しい、冷たい、怖い────こわい、ひもじい、たすけて。そんな【仔犬】の断末魔が、重なり聞こえてくる。
 〝犬神さま〟
 そう讚えられるまでにこの仔は、どれほど【非道い仕打ち】を受けてきたのだろう。
 
「凛さん! 下がって!」

 いつの間にか銃を手にしていた暁月に、強く腕を引かれる。獣は──犬神はまだそこで唸っていた。

「暁月さん、あの仔は」
「ええ、彼がそうでしょう。やっと会えた」

 建物の影に隠れつつ、暁月は標的を眺めやる。

「……俺はずっと犬神が宵月町に入り込んだと踏んで、居場所を追い詰めるために各所に呪符を貼っていました。逃げ場がなくなって、ようやく出てきてくれたようです」
「……犬神なんて私、初めて見ました」
「ええ、俺もです」
「あの、それで、撃つんですか……?」

 おそるおそる尋ねた凛に、暁月は苦笑した。片手で携帯を操作しつつ、犬神の動向をうかがっている。

「撃って解決するならしますけど、効きはしないでしょう……今、応援を要請しています。五分持ち堪えれば仲間が来ますから、それまで足止めできれば……」

 五分。凛は呟き、唸る犬神を見やる。
 犬神は自分を使役していた一族の人間を探していた。

 たしか安佐見あざみ剛造ごうぞうと言う名の。

 事件の被害者である、その老人を。


 犬神は千年も前のその昔、ヒトが富を得るために生み出されたあやかしだ。その生み出し方は残酷極まりない。生きた犬を鎖に繋いだまま、届かない距離に餌を置き、何日も飢餓状態にしたまま、苦しみののちに首を落とし、あやかしに化けさせるのだ。犬神を使役した家は繁栄を遂げるのだが──しかしそれは、あまりにも強い呪いで、結局ヒトは犬神を飼い慣らすことが出来なかったと聞く。今でも禁じられている呪詛のひとつだ。

「おそらく被害者は──安佐見氏は、どこかから封印されている犬神を呼び起こしたのでしょうね。あるいは自分で作ったか」

 暁月は銃を構えたまま、思考を整理するように言った。

「しかしその呪詛は完璧ではなく綻びもつれ、結果呪い返しに遭ってしまった。……厄介な爺さんだ」

 どんな理由があれ、ヒトを傷つけたあやかしは駆除されるのが常だった。暁月もそのつもりなのだろう。目を細めて、犬神を観察している。隙を伺っているのだ。

「暁月さん……」

 凛は思わず暁月を腕を掴んでいた。暗がりの中、振り返られる。

「あの仔、私には苦しんでいるように見えて」
「……そう、でしょうね」
「お願いです。何とか助けてあげられませんか。あの仔に罪はありません」
「…………凛さん」

 暁月だって、犬神がどんな苦しみの末に生み出されるかくらい、知っているだろう。しかし立場上、見逃すことも出来ないに違いない。けれど、それでも凛はこれ以上あの犬神が──仔犬が苦しむのを黙ってはいられなかった。

「お願いです。どうしても犯人が必要なら、私が代わっても構いませんから」
「それはだめですよ。冤罪になってしまう」

 暁月の困ったような笑顔が、月明かりを受けて暗闇に浮かび上がる。

「それに、大丈夫です」

 暁月が立ち上がり、凛の腕がするりと離れる。

「俺も同じ気持ちですから。凛さんは、ここにいてくださいね」

 言った暁月が駆け出していく。
 突然の気配に驚いたのだろう。犬神が前脚を振り上げる。その刹那。暁月と対峙した犬神は、まるで石にでもなったかのように硬直した。
 張り詰めた空気に、凛も、息を止めていた。

 ──あれは、私に貼られていた……?

 暁月の術だろう。犬神の前脚には、見覚えのある一枚の札が貼られていた。日織と同じ能力を暁月もまた有していたのだ。そんな当たり前の事実に、凛は動けなくなる。
 暁月さんは結局、どちらの味方なんだろう。
 犬神さまが唸っている。痛い、苦しいと鳴いている。怖いと叫んでいる。
 悪いのは誰。
 凛の目の前で、暁月はゆっくりと銃を構え直していた。仔犬の瞳が、怯えたように見開かれる。

「ごめんな」

 そう聞こえた気がした。
 暁月はいったい、なにに謝ったのだろう。
 銃から、銀色の弾丸が飛び出していた。真っ直ぐに向かう先は、犬神の眉間だ。命中する。凛は、犬神の巨大がいやにゆっくりと傾くのを見た。それは地面に倒れ込む刹那、煙のように消えていく。
 銃を下ろした暁月は、その場所をじっと見つめていた。
 白い一匹の仔犬が、横たわっていた。
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