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一話
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しかしその翌朝、暁月よりも先に店を訪れる者がいた。日織と、名も知らぬ職員たちだ。
「おはようございます」
かけられた淡々とした挨拶に、凛は目を丸くした。
「日織さん……?」
それは早朝。
時刻は八時をまわったばかりで、いつものように履き掃除から始めようと箒を手にしたところだった。
そこへ日織が訪れたのだ。黒いスーツ姿の同業者を五人も伴って。
しかしその中に暁月の影はなく、戸口に立った日織が、代表するように口を開いた。
「すみません、お仕事中に」
その視線は鋭く冷たい。
凛は箒を強く握りしめたまま、黒い壁のように立ちふさがる職員たちを見上げた。皆、刺さるような目つきをしていた。凛のよく知る、管理局職員のそれだ。そう、よく知っていたはずなのに、最近は忘れかけていた。【彼】のせいで。いや、おかげで?
「……どうされたんですか、こんな早くに」
声が震えてしまわないように、凛は必死に笑顔を取り繕った。けれど嫌な予感は消えない。
間の悪いことに高谷は今、仕入れに出かけていた。
日織たちの空気からも、時間帯からしても、彼らがただ食事をしにきたのでないことだけは明白だった。
そもそも日織はたぶん、『善』のことを快く思っていない。そんなことはわかりきっていた。口数は少なく、目が合えば逸らされ、話すのはもっぱら暁月ばかりだったから。
この店に通っていたのだって、上司である暁月との付き合いゆえだったのだろう。
ただ、日織もおかわりはよくしていたし、食事を残されたこともなかった。だから味に不満はないのだろうと、こっそり嬉しく思っていたのだが。
「本日は捜査のご協力をお願いしたく、お伺いました」
言った日織が一歩近づく。磨かれた黒い革靴が、傷だらけの木の床を踏みしめた。軋む音が胸を突いた。
「捜査?」
「最近あった事件、ご存知でしょう? 上層区の強盗未遂事件です」
凛は、顎を引くようにして頷いた。
ここ連日、ワイドショーで騒がれているあの事件のことだ。確か狙われたのは裕福な家の主人で、何度もインタビュー映像が流れていた。
しかしそれが、凛になんの関係があるというのだろう。
「もちろん知っていますけど……お役に立てるようなことは、何も」
言った凛に、日織が苛立ったように片目を歪ませた。
「家主は腕と顔に、ひどい怪我を負っていますよね」
「……ええ」
それもニュースで開示されている情報だった。
被害者の男性はあやかしの仕業だと騒いでいて、管理局の職員もかなりの人数を割き捜査に当たっているのだとか。
しかしやはり凛には、それが自分となんの関係があるのか、とんと検討もつかない。言ってはなんだが、似たような事件は至る所で起きている。それらを耳にするたび胸を痛ませてはいるけれど、協力なんて、自分には……。
そこまで思いかけて、凛ははたと思考を止めた。
(まさか)
日織と対峙したまま、ひりつくような空気に耐え、思い浮かんだ一つの可能性に青ざめる。
日織の怜悧な視線が、凛を貫いていた。
「実は、その犯人があなたじゃないかと疑ってるんですよ、僕たちは」
予想は当たっていた。顔色を悪くした凛に構うことなく、日織は尋問を開始する。
「ですから捜査に協力してくださいね。──あなた、あの事件の夜、どこで何をしていましたか?」
「え……と」
あの事件が起こったのはいつだったか。咄嗟に思い出せず硬直する。
日織が店の壁にかかったカレンダーを見やり「この日ですよ」と数週間前のその日を指差した。それはちょうど日曜日で『善』の定休日だった。
「その夜は明日が早いから、九時には寝ていました」
「それを証明できる方は?」
「……いません。ひとり暮らしなので」
「じゃあ、アリバイはないわけですね」
日織は確認するように声に出した。背後に控えていた職員が何やらメモをとっている。
もしかして、このまま捕まってしまうのだろうか。
凛は慌てて言い募った。
「あの、でも私、本当に何も」
していません、とは続けられなかった。日織が遮るように話し出したからだ。
「とりあえず、口を開けてください。牙を確認します。これは世間には流れていない情報なのでご存知ないかもしれませんが……いえ、ご存知かもしれませんが。被害者には獣に咬まれたような痕がありました。あやかしの怨嗟の痕跡も」
牙、と聞いて、凛ははっと思い出した。
──宵月町の二番層にある、あの菓子屋の店主は確か、オオカミのあやかしだった。
(……もしか、して)
暁月もずっと、挨拶回りをするふりをしながら犯人を探していたのだろうか。
だからあの菓子屋や、同じく牙を持つ狐の凛にところにもやってきた?
事件は宵月町のすぐ上で起きた。職員たちに追われた犯人が、入り組んだ宵月町に逃げ込んだと考えるのは当然のこと。そうした聞き込みや調査はこれまでも何度かあったからそれは理解できる。
けれど、だったらどうして暁月はさっさと凛に確認しなかったのだろう。
あまりにも頻繁に通ってくれて、美味しそうに食事をしてくれるものだから、無駄に仲良くなってしまったではないか。凛が一方的にそう思っていただけかもしれないけれど。
「上を向いてください」
日織に言われるまま、口を開ける。中を小さなライトで照らされ、横から別の職員に写真を撮られた。眩しかった。日織が「小さい」と独り言のように呟く。
「……暁月さんは口の大きさからみてあなたは犯人ではないだろうと、早々に容疑者から外していました。被害者の傷はかなり深いところまで抉られていましたから」
でも、僕の考えは違う、と日織は続けた。ライトを消して、もう閉じていいですよ、と次の作業に取り掛かる。
「あやかしは変化できるでしょう? 特に狐は昔から人間を化かしてきた。だから僕は、もっと詳しく調べるべきだと思ったんです」
満足に耳も尾も隠せない自分に、そんなことは不可能だ。思ったけれど、反論する気力も湧かない。
「歯形も取らせいただきます」
今度は、他の職員が鞄から取り出した粘土のような塊をくわえさせられた。
「奥までしっかり噛んで」
無味無臭の歯形取りだった。凛はゆっくりとそれを噛み締める。牙がぐにゃりと冷たい塊に食い込んだ。
約定のせいだ。あやかしたちは、管理局職員の捜査協力を義務付けられている。だから、拒否は許されない。
「凛さんが、大人しいあやかしで助かりました」
凛の歯形を取り終えると、日織はそれを密封袋に入れて、大袈裟にも見える銀色のアタッシュケースにしまった。しっかりと施錠をした後、最後に、と、胸のポケットから呪符を取り出す。
「照合結果が出るまで、これで行動範囲を拘束させていただきます。」
「……拘束?」
「右手を出してください」
掃除のためにたすき掛けをしていた凛の腕は、二の腕の半分まであらわになっていた。と、差し出した腕の手首から肘辺りにかけて、取り出した呪符を直に貼られる。とたん、札が触れた肌の部分が、ぴりりと痺れた。さほど痛くはない。けれど恐怖で、身体が固まる。
「……日織さん、これって」
日織は脅すように囁いた。
「宵月町から出てはいけませんよ」
震えを隠すこともできず、凛は頷く。
「……わかり、ました」
「明日には歯形と唾液の照合結果がわかります。その後問題がなければ、札は剥がしましょう。ああでも、自供するならお早めに」
言って日織は、踵を返した。
「それでは失礼します。ご協力ありがとうございました」
ぞろぞろと去っていく職員たちを見送って、凛は崩れるように座り込んだ。
随分長い時間だったような気がしたのに、時計を見やれば、十分も経ってはいなかった。
静かになった店内で、腕に貼られた札を眺める。
なんと読むのかはわからないが、墨で、模様のような文字が書かれていた。
こんなものに効力があるだなんて俄には信じがたい。けれど先ほどの痺れを思い出せば、剥がそうなんて気にはなれなかった。
「明日まで、だものね」
冤罪なのだから、きっと何の問題もない。すぐにわかってもらえるはず。
凛は自分を勇気づけるように声に出してみた。
けれど札が目に入るのは流石にいい気分がしなくて、そっとたすきを解き、小袖で覆い隠す。
(……日織さんには疑われていたけど、暁月さんは、そうじゃなかったんだもの)
それだけでも分かってよかった。
あやかしとヒトの間にはやはり溝があるのだと、それもわかってしまったけれど。暁月が凛を信じてくれていたことだけは確かで、嬉しかった。だから凛は涙を堪えた。
「おはようございます」
かけられた淡々とした挨拶に、凛は目を丸くした。
「日織さん……?」
それは早朝。
時刻は八時をまわったばかりで、いつものように履き掃除から始めようと箒を手にしたところだった。
そこへ日織が訪れたのだ。黒いスーツ姿の同業者を五人も伴って。
しかしその中に暁月の影はなく、戸口に立った日織が、代表するように口を開いた。
「すみません、お仕事中に」
その視線は鋭く冷たい。
凛は箒を強く握りしめたまま、黒い壁のように立ちふさがる職員たちを見上げた。皆、刺さるような目つきをしていた。凛のよく知る、管理局職員のそれだ。そう、よく知っていたはずなのに、最近は忘れかけていた。【彼】のせいで。いや、おかげで?
「……どうされたんですか、こんな早くに」
声が震えてしまわないように、凛は必死に笑顔を取り繕った。けれど嫌な予感は消えない。
間の悪いことに高谷は今、仕入れに出かけていた。
日織たちの空気からも、時間帯からしても、彼らがただ食事をしにきたのでないことだけは明白だった。
そもそも日織はたぶん、『善』のことを快く思っていない。そんなことはわかりきっていた。口数は少なく、目が合えば逸らされ、話すのはもっぱら暁月ばかりだったから。
この店に通っていたのだって、上司である暁月との付き合いゆえだったのだろう。
ただ、日織もおかわりはよくしていたし、食事を残されたこともなかった。だから味に不満はないのだろうと、こっそり嬉しく思っていたのだが。
「本日は捜査のご協力をお願いしたく、お伺いました」
言った日織が一歩近づく。磨かれた黒い革靴が、傷だらけの木の床を踏みしめた。軋む音が胸を突いた。
「捜査?」
「最近あった事件、ご存知でしょう? 上層区の強盗未遂事件です」
凛は、顎を引くようにして頷いた。
ここ連日、ワイドショーで騒がれているあの事件のことだ。確か狙われたのは裕福な家の主人で、何度もインタビュー映像が流れていた。
しかしそれが、凛になんの関係があるというのだろう。
「もちろん知っていますけど……お役に立てるようなことは、何も」
言った凛に、日織が苛立ったように片目を歪ませた。
「家主は腕と顔に、ひどい怪我を負っていますよね」
「……ええ」
それもニュースで開示されている情報だった。
被害者の男性はあやかしの仕業だと騒いでいて、管理局の職員もかなりの人数を割き捜査に当たっているのだとか。
しかしやはり凛には、それが自分となんの関係があるのか、とんと検討もつかない。言ってはなんだが、似たような事件は至る所で起きている。それらを耳にするたび胸を痛ませてはいるけれど、協力なんて、自分には……。
そこまで思いかけて、凛ははたと思考を止めた。
(まさか)
日織と対峙したまま、ひりつくような空気に耐え、思い浮かんだ一つの可能性に青ざめる。
日織の怜悧な視線が、凛を貫いていた。
「実は、その犯人があなたじゃないかと疑ってるんですよ、僕たちは」
予想は当たっていた。顔色を悪くした凛に構うことなく、日織は尋問を開始する。
「ですから捜査に協力してくださいね。──あなた、あの事件の夜、どこで何をしていましたか?」
「え……と」
あの事件が起こったのはいつだったか。咄嗟に思い出せず硬直する。
日織が店の壁にかかったカレンダーを見やり「この日ですよ」と数週間前のその日を指差した。それはちょうど日曜日で『善』の定休日だった。
「その夜は明日が早いから、九時には寝ていました」
「それを証明できる方は?」
「……いません。ひとり暮らしなので」
「じゃあ、アリバイはないわけですね」
日織は確認するように声に出した。背後に控えていた職員が何やらメモをとっている。
もしかして、このまま捕まってしまうのだろうか。
凛は慌てて言い募った。
「あの、でも私、本当に何も」
していません、とは続けられなかった。日織が遮るように話し出したからだ。
「とりあえず、口を開けてください。牙を確認します。これは世間には流れていない情報なのでご存知ないかもしれませんが……いえ、ご存知かもしれませんが。被害者には獣に咬まれたような痕がありました。あやかしの怨嗟の痕跡も」
牙、と聞いて、凛ははっと思い出した。
──宵月町の二番層にある、あの菓子屋の店主は確か、オオカミのあやかしだった。
(……もしか、して)
暁月もずっと、挨拶回りをするふりをしながら犯人を探していたのだろうか。
だからあの菓子屋や、同じく牙を持つ狐の凛にところにもやってきた?
事件は宵月町のすぐ上で起きた。職員たちに追われた犯人が、入り組んだ宵月町に逃げ込んだと考えるのは当然のこと。そうした聞き込みや調査はこれまでも何度かあったからそれは理解できる。
けれど、だったらどうして暁月はさっさと凛に確認しなかったのだろう。
あまりにも頻繁に通ってくれて、美味しそうに食事をしてくれるものだから、無駄に仲良くなってしまったではないか。凛が一方的にそう思っていただけかもしれないけれど。
「上を向いてください」
日織に言われるまま、口を開ける。中を小さなライトで照らされ、横から別の職員に写真を撮られた。眩しかった。日織が「小さい」と独り言のように呟く。
「……暁月さんは口の大きさからみてあなたは犯人ではないだろうと、早々に容疑者から外していました。被害者の傷はかなり深いところまで抉られていましたから」
でも、僕の考えは違う、と日織は続けた。ライトを消して、もう閉じていいですよ、と次の作業に取り掛かる。
「あやかしは変化できるでしょう? 特に狐は昔から人間を化かしてきた。だから僕は、もっと詳しく調べるべきだと思ったんです」
満足に耳も尾も隠せない自分に、そんなことは不可能だ。思ったけれど、反論する気力も湧かない。
「歯形も取らせいただきます」
今度は、他の職員が鞄から取り出した粘土のような塊をくわえさせられた。
「奥までしっかり噛んで」
無味無臭の歯形取りだった。凛はゆっくりとそれを噛み締める。牙がぐにゃりと冷たい塊に食い込んだ。
約定のせいだ。あやかしたちは、管理局職員の捜査協力を義務付けられている。だから、拒否は許されない。
「凛さんが、大人しいあやかしで助かりました」
凛の歯形を取り終えると、日織はそれを密封袋に入れて、大袈裟にも見える銀色のアタッシュケースにしまった。しっかりと施錠をした後、最後に、と、胸のポケットから呪符を取り出す。
「照合結果が出るまで、これで行動範囲を拘束させていただきます。」
「……拘束?」
「右手を出してください」
掃除のためにたすき掛けをしていた凛の腕は、二の腕の半分まであらわになっていた。と、差し出した腕の手首から肘辺りにかけて、取り出した呪符を直に貼られる。とたん、札が触れた肌の部分が、ぴりりと痺れた。さほど痛くはない。けれど恐怖で、身体が固まる。
「……日織さん、これって」
日織は脅すように囁いた。
「宵月町から出てはいけませんよ」
震えを隠すこともできず、凛は頷く。
「……わかり、ました」
「明日には歯形と唾液の照合結果がわかります。その後問題がなければ、札は剥がしましょう。ああでも、自供するならお早めに」
言って日織は、踵を返した。
「それでは失礼します。ご協力ありがとうございました」
ぞろぞろと去っていく職員たちを見送って、凛は崩れるように座り込んだ。
随分長い時間だったような気がしたのに、時計を見やれば、十分も経ってはいなかった。
静かになった店内で、腕に貼られた札を眺める。
なんと読むのかはわからないが、墨で、模様のような文字が書かれていた。
こんなものに効力があるだなんて俄には信じがたい。けれど先ほどの痺れを思い出せば、剥がそうなんて気にはなれなかった。
「明日まで、だものね」
冤罪なのだから、きっと何の問題もない。すぐにわかってもらえるはず。
凛は自分を勇気づけるように声に出してみた。
けれど札が目に入るのは流石にいい気分がしなくて、そっとたすきを解き、小袖で覆い隠す。
(……日織さんには疑われていたけど、暁月さんは、そうじゃなかったんだもの)
それだけでも分かってよかった。
あやかしとヒトの間にはやはり溝があるのだと、それもわかってしまったけれど。暁月が凛を信じてくれていたことだけは確かで、嬉しかった。だから凛は涙を堪えた。
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