今日から、契約家族はじめます

浅名ゆうな

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番外編

ある男の半生

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 子どもの頃、親に連れていってもらった映画館。それが俺の原点と言える。
 上映していたのは、戦国の世を駆ける侍の生き様を描いたもので、古い映画のリバイバルだった。だというのにモノクロの画面から凄まじい迫力が伝わってきて、俺は一瞬で魅入られた。
 それからは自分の夢を掴むため、脇目も振らず生きてきた。父が死んだその時でさえ、俺は机にかじりついてペンを握っていた。
 大学時代。サークルで出会った明るい笑顔の女に、俺は恋をした。
 世話好きで明るく、しっかり者の料理上手。容姿は平凡でも、彼女の笑顔には人を惹き付ける独特の華やかさがあった。どんな苦労もカラッと笑って吹き飛ばしてみせる彼女を、心から愛していた。
 だが大切にできたかというと、疑問だ。
 いつも笑顔で支えてくれる人だった。けれど彼女の妊娠が判明し、籍を入れたことがきっかけで、俺達の歯車は噛み合わなくなってしまった。
 子どももいるのだから、早く成功しなければ。こんな俺が二人を養っていけるのか。
 焦燥に駆られ、俺は家庭を省みなくなっていった。行き詰まるたび家族にひどく八つ当たりをする。
 始めは我慢を重ねていた妻も、段々悲しそうに黙り込むようになっていった。
『……こんな怒鳴り合いばかり見ていたら、この子も悲しいんじゃないかしら』。
 彼女が苦しげに呟いた、次の日。
 いつも通り仕事に送り出してくれた妻と娘が、帰ったら狭くて汚いアパートから忽然と姿を消していた。
 机の上には薄っぺらい離婚届が一枚、何の添え書きもなく残されていた。
 それでもいなくなった妻子より仕事を優先させたのだから、俺は最低の男だと思う。
 この時むしろ、見えない重圧から解放され、確かに安堵していたのだ。
 大切なもの、必要なものを余分として、どんどん削ぎ落としていけばさらなる高みへ上れるんじゃないかという、馬鹿げた妄想に取り憑かれてもいた。
 そうしてただ机に向き合い続けて二年、俺の脚本が賞の端っこに引っかかった。
 そこからはとんとん拍子だった。舞台の仕事が幾つも舞い込み、監督を任せてもらえるようになった。
 渾身の映画は表彰され、マスコミにも取り上げられた。俺は、成功したのだ。
 けれど、ふと気付いた。
 今まで何のために頑張ってきたのか。
 下積み時代からずっと支え続けてくれた妻も、可愛い娘もここにはいない。
 輝かしい栄光のただ中にいてなお、心のどこかが空虚だった。
 誰より喜んでくれたであろう妻の顔を思い出しては、その姿を探してしまう。すっかり大きくなっているはずの娘にも、無性に会いたかった。
 何年も経ってから、かけがえのない存在であったと思い知り、俺は半ば愕然とした。
 今さら会いに行ったところで、許されるはずがない。
 むしろ既に他の幸せを掴んでいるかもしれないのだ。これだけ有名になっても会いに来ないのがその証拠ではないか。
 臆病な俺は、色々理由を付けて会いに行くことを先送りにし続けた。
 その報いを、十年経ってから受けることになるとは、思いもせずに。

  ◇ ◆ ◇

 家での創作活動に詰まると、俺はいつも向かう場所があった。
 駅の近くにある、古ぼけた喫茶店。気まぐれに入った時飲んだコーヒーの味が忘れられず、すっかり常連になってしまった。喧騒から隔離された雰囲気も気に入っている。
 ここに最近、ちょっと興味深い客が来るようになった。
 尋常じゃなく美形なのに、恋に悩んでいる若者。たまに愚痴りたくなるらしく、好きな相手の話を一通りしてからスッキリした顔で帰っていく。
 創作意欲を刺激する彼に会うのが楽しみで、最近は毎日のように通い詰めていた。
 大人げなく嫉妬しそうになるほど顔がいいくせに、好きな相手には素直になれない不器用さも好感が高かった。できればその恋がうまくいけばいいと、創作に関係なくてもつい親身になってしまう。
 どんどん気を許しているようで、回を重ねるごとに少年からは固有名詞が飛び出すようになっていた。
 何度目の相談だったか、彼が口にした名前に、俺は凍り付いた。
「有賀…………ひなこ?」
 それは、顔もよく思い出せなくなっていた、娘と同じ名前だった。
 共に過ごした時間が一気に甦ってきて、俺は震えそうになった。
 妻の明るい笑顔、好物だった煮物の味、四畳半の部屋で肩を寄せ合い眠った夜、小さな手足で駆け回るようになった娘の姿――。
 同姓同名だろうか。もし本人だとしたら、何て巡り合わせだ。
 俺はゆっくりと顔を覆い、吐息と共に言葉を押し出した。
「その子、確か兄ちゃんの家に住んでるって、言ってたな。……理由は?」
 今さらそんなことを質問されるとは思っていなかったのだろう。楓という少年は怪訝そうに眉をひそめたが、素直に答えてくれた。睫毛を伏せた横顔は少し沈痛そうだった。
 俺の中で、嫌な予感が膨れ上がる。
「……母親が亡くなったんだよ。最近、事故で。母一人子一人だったから、あいつは独りぼっちになっちまった」
 楓の口振り、表情は、香織を知っているようだった。
 別人であってほしい。そんな願望を抱きながら、俺は質問を重ねた。
「その母親を、兄ちゃんは知ってるのか?」
「元々、俺の家で家政婦をしてたのはあの人だったんだ。三年お世話になってたよ」
 俺の声は、相当切羽詰まっていただろう。
 それが気取られずに済んだのは、彼にとってもその母親の死は大きなものだったらしく、俺の様子に構う余裕がないからだった。
 か細い声で、俺はついに聞いた。
「その人の…………名前は?」
 少年は、一度コーヒーに口を付けてから、答えた。
「――香織さん。有賀、香織さんだよ」
 その瞬間、全身から力が抜けた。
 死んだ。香織が。もうこの世にいない。どこにもいない。二度と、会えない――。
 なぜ俺は、彼女を探さなかったんだろう。
 もちろん怖かった。どんなにか罵られるだろうと思った。俺がいない場所で幸せにしているところを想像しては、嫌な気持ちになったりして。
 だって考えもしなかったんだ。臆病な俺が先送りにしている内に、お前がいなくなってしまうなんて。
 二度と会えない人を想った。そして、たった一人、残された娘を。
 唯一の肉親と認識していた香織を失ったひなこには、計り知れない重さだっただろう。
 なぜ俺は娘が辛い時、側にいてやれなかった。何もできなかった無力さに、今さら歯痒さが湧いてくる。
 楓が、怪訝そうに俺を見ていた。
 不自然に思われないよう胸の内に渦巻く絶望を必死にやり過ごし、何とかいつもの自分を演じた。
「有賀さんを知ってるんですか?」
 俺は深く呼吸しつつ頷いた。
「――あぁ。昔、俺が雇ってた家政婦も、そんな名前だったような気がしてな」
「あなたが家政婦、ッスか?」
 派手な赤いシャツと無精髭を疑わしげに眺められる。俺は適当に笑って誤魔化した。
「金なさそうなのに家政婦が雇えるのかって? そりゃねーよ兄ちゃん!」
 呵々と笑えば空気が戻っていく。
 頭を素通りしていく会話がどんなだったか結局覚えちゃいないが、俺はどうにかその場を切り抜けた。

  ◇ ◆ ◇

 よく晴れた日曜日。
 俺は愛する人の墓前に立っていた。
 ここに来るのは数度目。香織の死を知って直ぐ様調べた。
 それからは月命日のお参りも欠かさないし、単純に会いたくなった時も来ている。年を取って、俺も随分まめになった。
 あの頃の、自分のことしか考えていなかった俺をやり直せる訳じゃないけど、無性に何かしてやりたかった。
 ――優しかったお前の、半分でも優しくできてりゃ、こんなふうにならなかったかな。
 花を供え、隅々まで綺麗に磨く。タオルを使って丁寧に、時間をかけて。硬いブラシは何となく使いたくなかった。
 磨き終える頃には少し汗ばむくらい、今日は暖かい。
 香織は春が好きだった。アイリスの花も、老舗の団子屋のみたらしも。
 こうして、彼女が何を好きだったか、何に怒り悲しんだのかを思い出す作業は、楽しかった。彼女と触れ合っているような幸福感に満たされる。
「……すぐに、お前がいない現実に、打ちのめされるんだけどな」
 俺は、ゆっくりと瞑目した。
「――ひなこを引き取ろうと思ったんだが、フラれちまったよ」
 弁護士を通してこちらの意思を伝えたが、丁重に断られた。
 実際に会いに行って、土下座でもして説得すれば違ったのかもしれないが、まずはひなこの気持ちを優先しようと思ったのだ。
 香織に似て、優しい子に育っただろう。
 今の生活を幸せだと思っているなら、俺がでしゃばれば無理やり引き離すことになってしまう。
 楓の言葉の端々からは、家族全員が彼女を大切に思っていることが伝わってきたから。
「まぁ、会ったこともないクズな父親と暮らすよりはマシってだけかもしれねぇけどな」
 今回は機会がなかったけれど、いつかは会いに行きたいと思う。散々苦労をかけたのだから罵倒もされるだろうが。
「……お前は、今の俺をどう思うだろうな」
 グズグズ悩んでないで、さっさと会いに行けと叱られるだろうか。
『何かあったらまた後悔するに決まってるんだから、サクッと会っちゃいなさいよ。本当にあなたって学習しない人ね』。
 ハキハキとした口調まで思い出して、堪らない気持ちになった。
「――会いてぇよ、香織。声が聞きたい」
 お前の声が、面影が、言葉が。仕草が。
 愛おしくて、かけがえがなくて。きっと一生忘れられない。
 だからこそなおのこと、お前への後悔に縛られて、俺はここから動けない。永遠に。
 いつの間にか、懺悔をするように両膝をついていた。神に祈れば少しは救われるのか。
 その時、何やら話し声が聞こえてきて、弾かれるように顔を上げた。男女の声だ。
 それを機に、俺はようやく腰を上げた。
 重い足取りで歩き出す背に、人の気配が近付いてくる。俺は何気なく振り返った。
 小柄な少女と、背の高い男だった。身長差がすごい。男の方が俺と同年代ということは、二人は親子だろうか。
 ぼんやり考えていると、男女は何と香織の墓の前で立ち止まった。俺はすっかり驚いてしまって、つい木陰に隠れた。
 遠いから、会話までは分からない。けれどとても親しげな様子だった。
 じっと眺めていると、少女が男を見上げて笑った。その、笑顔。
 ――面影がある。間違いない。ひなこだ。
 ふわりと弧を描く瞳も、優しい微笑みを湛えた唇も、どことなく香織に似て見える。
 ――ってことは、一緒にいるのはひなこが世話になってる家のヤツか。
 そういえば、楓によく似た美形だ。彼が今よりもっと成長したらあんな感じになるだろう。落ち着きとか色気とか身長とか、他にも足りないものはたくさんあるけれど。
 ひなこが声を上げて笑う。
 楽しそうに、嬉しそうに。それだけで馬鹿みたいに救われた心地がした。
 辛い時側にいられなかった後悔は一生残るだろうけど、あの子は決して一人じゃなかった。支えてくれる人達がいたのだ。
 香織には二度と会えない。
 けれどひなこは、生きている。ああして、笑っている。
 ――俺も、許されるだろうか。
 いつか父親として、名乗り出ることが。
 そうしたら、たくさん話をしよう。
 空白の時間を埋めるように。
 香織とお前の話が聞きたい。楽しかったこと、悲しかったこと、恨み言でも何でもいい。何でも聞きたい。

 香織。ひなこ。
 ――――お前達をいつまでも愛している。




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