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本編

帰還

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 リオルディスが使っている整髪料の爽やかな香りと、それに混じる汗の匂い。
 きっと、必死に捜してくれた。
 そう思うと涙腺が緩みそうになって、ナナセは慌てて彼から離れた。
 王宮に帰還するまでは油断できないし、安心している場合ではない。
 帰りは馬車で戻ることになっていた。
 お忍び用のものだろうか、それほど華美な外装ではないが乗り心地のよさそうな馬車が二台、既に手配済みだった。
 二台ともそういった仕様になっているので、ナナセを労う意味合いも含まれているのかもしれない。使用人にはもったいない馬車だった。
 リリスターシェには一緒に乗ろうとせがまれたが、ナナセは一介の侍女であって彼女の専属ですらない。危急時でもない限り王族と同乗はできなかった。
 棺で狭い思いをさせたことをしっかり詫びてから、それぞれ馬車に乗り込んだ。
 ナナセの馬車には、リオルディスが同乗してくれた。
「乗ってきた馬は大丈夫ですか?」
「部下が連れて帰ってくれるよ。今はとにかく、君を一人にしたくない」
 まるでヒビの入ったガラス細工でも扱うかのように、慎重で丁寧な声。
 ナナセは、返す言葉に詰まってしまう。
 しばらくは車輪の回る音だけが響いていたが、やがてリオルディスが口を開いた。
「それにしても、間に合って本当によかった。さすがナナセだよね、大胆に手がかりを残してくれたから追跡も容易かった」
「大胆?」
 空気を変えようとおどけて見せる彼の意図に、ナナセはありがたく乗ることにした。
 首を傾げてみせれば、リオルディスはいたずらっぽく笑う。
「帽子だよ。あの独特の帽子が目印になって、ディシェンド王国に向かう東方面を重点的に捜索できた。おかげで伝書鳥にも会えたし、馬で先回りしてクライアラインでの待ち伏せもできた」
「なっ……私の日除け帽がですか!?」
 確かにあれは、王宮内で悪い意味で有名になっている『ナナセ特製外作業用帽子』だ。
 ゼファルにも『ダサすぎ』だの、『王宮の品位が損なわれる』と散々貶されたし、どんなに便利だと訴えても侍女仲間には一切根付いていない。
 あの帽子が、まさかこんなかたちで役に立つなんて。
「解決の一助になったのは喜ばしいことですが、ものすごく複雑です……」
「あんな帽子は他にないからね。街道沿いに手がかりを残しておくなんて、犯人が軽率で助かったよ」
 居たたまれずに俯いていたナナセは、不可解に感じて眉根を寄せた。
 帽子を落としたのは、本当に街道沿いだったろうか。
 記憶が曖昧で断言はできないが、少なくとも見渡す限り何もない荒野だった気がする。
 ――もしかしたら……。
 頭の中に、抵抗の素振りさえ見せず投降した文官の顔がよぎる。
 あとから合流する手筈になっていた彼が帽子に気付き、わざわざ街道沿いに移動させたのかもしれない。文官として王宮で働いていたのだから、あれが手がかりになることは承知していたはずだ。
 ナナセはリオルディスを見上げた。
「リオルディス様。伝書鳥は、無事あなたの下に向かったのでしょうか?」
「あぁ、見事にクッキーを奪われたよ。大事な情報を運んでくれたのだから、文句は言えないけど」
「あの子に気付いてくださったのは、ベルトラート殿下です。私は存在すら知りませんでした。けれどそもそも、伝書鳥とはあのような場所にいるものでしょうか? もしかして、あの文官の青年が……」
 伝書鳥は大いに役立った。
 青年は誘拐犯に協力すると見せかけて、陰ながら守ってくれていたのかもしれない。
 そう訴えかけたナナセを、リオルディスが制した。その表情はひどく厳しい。
「ナナセ、王族の誘拐は重罪だ。たとえどんな事情があろうとも、荷担しただけで死罪に相当する」
「分かっております。ですが、彼がいなければこうして無事ではいられなかったことも、また事実です」
 ナナセには何の権限もない。
 けれど、副団長の地位にあるリオルディスからの進言ならば、国王も斟酌してくれるのではないか。
 期待を込めてじっと見つめ続けると、彼は根負けしたとばかりにため息を吐き出した。
「例の文官が君達を逃がそうとしてくれたことは、疑っていないよ」
 そう言いながらリオルディスが胸ポケットから取り出したのは、汚れたリボン。
「森小屋のドアノブにこれが結んであった。監視が厳しい君達では、そんな芸当できないだろうから」
 ――本当に、残してくれたんだ……。
 完全に信用することなどできないので、あの時点では賭けに近い心境だった。もしあれが唯一の連絡手段だったなら、託すことに躊躇していただろう。
 けれど帽子の件や伝書鳥のことを思えば、ナナセの判断は間違っていなかったのだ。
「リオルディス様、本当に読めたのですね」
 暗号代わりに使った文字をリオルディスが解み解けたことに、思わず笑ってしまった。
 リボンに付着した血液は、すっかり茶褐色に変色している。
 そこに書かれた文字は、ナナセにとって非常に懐かしいもの――日本語だった。
 これをリオルディスが読めるのは、本当に偶然としか言いようがない。
 きっかけはレムンドだった。
 知識に対して貪欲な保護者は、物好きにも日本語を覚えた。棒の羅列のような、絵にも見えるような不可思議な文字を、ことの外気に入ったのだ。
 それを自慢した相手がたまたまリオルディスで、彼も謎の対抗意識を燃やしてあっという間に吸収したわけなのだが、ナナセにとってはたった一ヶ月でひらがなからある程度の漢字まで覚えてしまう二人に格の違いを見せ付けられただけの出来事だった。
 リオルディスとレムンドだけに解読できる暗号になるなんて、あの時は夢にも思わなかったけれど。
「では、文官の方の妹さんは……」
「その件は、伝書鳥を使って王宮に連絡済みだ。エクトーレ殿に確認をとれば特定は早いだろう。救出は、すぐにも行われる」
「そうですか。よかった……」
 ナナセは安堵の息をついた。
 誘拐犯が文官の妹を害せる位置にいた場合、失敗を知ってどんな凶行に走るか分からない。そこだけが気になっていた。
 けれど、向こうに伝書鳥のような連絡手段がない限り、失敗のことはまだ知らないはずだ。万全を期すれば確実に保護できる。
「その妹さんが、怖い思いをしていなければいいですね。拘束されて自由を奪われるのは、本当に恐ろしいことですから……」
 顔も知らない相手だけれど、無事を願わずにいられない。ナナセ達は助けてもらえたから、余計に。
 相槌が返ってこないことを不思議に思い、顔を上げる。リオルディスは、もどかしげな顔でナナセを見つめていた。
「リオルディス様?」
「……君は、こんな時も人のことばかりだ」
 低く落とされた呟きにも、肩に触れる手にも、うまく反応できなかった。
 リオルディスの腕がナナセを引き寄せる。
 抵抗を封じるように、けれど一切強引さを感じられない強さで。
 安心な腕の中、守るべき子ども達は側にいない。もう気を張っていなくていい。
 慣れ親しんだ整髪料の香りに、今度は我慢などできなかった。
 何も考えられなくて、ただ身を預ける。
 リオルディスが労うように髪を撫でるたび、強ばっていた体から力が抜けていく。気の緩みと共にやって来たのは、震えだった。
「怖かった……」
 怖かった。
 年長者として、仕える身として気丈に振る舞っていたけれど、怖くないはずがない。
 殺されるかと思った。
 二度と帰ってこれないと思った。
 不安な時、頭をよぎったたくさんの顔。彼らにまた会えると思えば涙が止まらない。
 こんなに無防備に泣くつもりはなかったのに、リオルディスの体温に安心してしまって止め方が分からなくなる。
 彼があやすように背中を叩くから、むしろ悪化の一途をたどっていた。
「遅くなって、本当にすまなかった。……しっかりしているからって、不安を感じないわけじゃないのに。俺達はいつも、君の強さに甘えているね」
「そういうこと言わないでくださいよぉ……ホント……さらに泣けてきますから……」
「うん。いっぱい甘やかしてあげる」
「やめでぐだざぃ~」
 恥も外聞もないナナセの泣きっぷりに、リオルディスは忍び笑いを漏らした。
「こんなことはもう二度と起こってほしくないけど、ナナセが残してくれたリボン。これだけは俺にとって収穫と言えるかな」
 そういえば彼は、リボンを大切そうに胸ポケットにしまっていた。あんなに血で汚れたものをと、少し不思議に思っていた。 
 リオルディスは、堪えきれないように破顔する。子どものようにあどけなく、弾けるような笑み。
「これは、俺がいなければ誰にも読めないものだったろう? 君からの信頼が伝わって、嬉しかった」
 確かにその通りだった。
 ナナセは無意識に、ただリオルディスに向かって助けを求めていた。
「……リオルディス様が、王宮で指揮をとっていれば、無意味でしたね」
 恥ずかしさから顔を上げられず、台詞も言い訳がましくなってしまった。
 こっそり唇を噛んでいると、降ってきたのはとてつもなく甘い声。
「ナナセがさらわれたというのに、俺がじっとしていられると思う?」
 ――サ、サービスがすぎる……!
 殿下方を守り抜いたご褒美なのかもしれないが、どちらかというとナナセの方が守られてばかりいた。
 だからこれは、間違いなく過剰すぎるサービスなのだ。
 もう顔を上げまいと心に誓いつつ、彼らしい軽口に帰ってこられたのだと実感する。そして、背中を叩く一定のリズムがゆるゆると眠りに誘う。
 緊張から解放されたからか、泣き疲れたからか。意識が泥のように沈んでいく。
 こんなに甘えては迷惑がかかる。
 いつもはそう律することで歯止めがかかるのに、今日はうまくいかない。甘えていいと言われたからだろうか。
「リオルディス様……来てくれて、ホントに、ありがと……」
 何とか気力を振り絞って礼を告げる。
 それさえ、きちんと言葉になっていたか確かめることはできないけれど。
 満足の笑みをこぼしたナナセは、とても穏やかな『おやすみ』の声を聞いた気がした。



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