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第15話

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 ユキノシタ達と会って気分転換ができたシルフィアは、軽い足取りで屋敷に帰っていた。
 楽しい時間はあっという間だ。
「うぅ……でもさすがに食べすぎたわ」
 揚げパンを食べたため正直空腹は感じていなかったのだが、それを理由に昼食を断るのは申し訳ない気がして無理やり完食した。
 結果、腹がはち切れそうだ。ドレスが辛い。
 真っ昼間からだらしないし子爵令嬢としてどうかと思うが、背に腹は変えられない。
 横になって休むため私室に向かっていると、通路の反対側からシオンが歩いてきた。
 シルフィアは慌てて手近な部屋へと身を隠す。そこは普段あまり使われていない客間だった。
 気配を殺しシオンが通過するのをじっと待つ。
「危なかった……」
 足音が完全に遠ざかって消えると、シルフィアは安堵の息をついた。
 けれどそれはすぐ、ため息に変わる。
 隠れておいてこんなことをいうのは何だが。
 ーー何ていうか……性に合わないっ!!
 もしも問題があるなら、真正面からぶつかって解決してしまえばいいのだ。
 こそこそ逃げ隠れするなんて相手に対して失礼だし、気分も悪かった。
 それでも言いつけを守っているのは、ひとえにモクレンを心配させたくないからだ。彼の悲しむ顔は見たくない。
 ーー何だかんだ言って、やっぱり今の私はクシェルじゃなく、シルフィアなんだわ……。
 先日の小火騒ぎ以来、シルフィアの中では確実な変化が起こっていた。
 モクレンを、どうしても意識せずにいられない。
 以前のような間合いでいると緊張してしまうため、こっそり距離を取ったり。二人きりでいても、粗野な口調が恥ずかしかったり。
 彼に不審がられていることは分かっているのに、どうにもできずにいる。
 諦めかけていた時、危険も顧みず助けに来てくれたのだ。年頃の乙女がときめかずにいられるはずがない。
 颯爽と現れ状況を打破してくれるなんて、まるで物語に出てくる王子様のようだった。
 ーー私がときめいてるって知られたら、どうせ気持ち悪がられるだろうけれど……。
 力強い腕に抱き上げられ、距離も近くて。横顔から目が離せなかった。
 すっと通った鼻筋から顎にかけての曲線は、まるで芸術品。それでいて遠くを見つめる緑の瞳には意志の強さが覗き、彼の男らしさを強調しているようだった。
 知らずうっとりとため息が漏れてしまって、シルフィアは我に返った。頬が熱い。
 本当に、自分でもどうかしていると思う。
 かつての養い親がこんなことを考えていると知ったら、彼はどんな顔をするだろう。
 自己嫌悪に陥りそうだったので、ますます横になりたくなった。寝て起きれば、それなりにスッキリするだろう。
 嘆息しながら扉を開く。
 そこに、まさかの人影があった。
 鋭い赤茶色の瞳と、背中で一つに結ばれた燃えるような赤い髪。濃灰色のシャツと白色のスーツを身にまとう、隙のない着こなし。
「久しぶりだね、お姫様」
「エニシダ……」
 無意識に紡がれた名に、目の前の青年は唇を歪めるようにして笑った。
 失言を悟ると同時に、背筋を嫌な予感が駆け上がる。
 よろめいた足で思わず後退った。
 エニシダはあくまで笑顔のまま、簡単に距離を詰めてくる。彼の足が一歩、客間に踏み入った。
「……エニシダ様、ごきげんよう。父と懇意だったなんて知りませんでした」
「騎士様方に不足がないよう身の回りのものを手配せよと、ご領主様からご用命いただいたんですよ。彼らの義兄弟ということで、俺に白羽の矢が立ったようです」
 シオンを警戒していた矢先、また別の要注意人物であるエニシダと遭遇してしまうなんて。
 シルフィアは父を恨みたくなったが、今まさに義兄弟水入らずでと考えユキノシタを歓迎会に招待したところだ。似たもの親子すぎて笑えない。
 さらに距離を縮められ、威圧感に鼓動が早まる。
 長身の男性に見下ろされるというのは、何とも居心地が悪かった。
「こんなところでお会いするなんて、何だか運命的だと思いませんか?」
 エニシダは、獲物をいたぶる捕食者のようだった。
 運命だ何だと甘く囁かれたって喉笛に鋭い歯を当てられているようにしか思えないし、そもそも自宅なのだからいて当たり前だ。
 それでもシルフィアにできることと言えば、隙を見せずにこの場をしのぐのみ。
 引きつりそうになるのを堪え、何とか微笑みを返した。
「お上手ですこと。けれど、エニシダ様ともあろうお方が、お仕事を放り出してもいいのかしら?」
「ご心配痛み入ります。ですが執事殿に『久しぶりに義兄弟達と積もる話をしたい』と申し出ましたら、ゆっくり滞在する許可をいただきましたよ」
「クランツ……」
 シルフィアは思わず天を仰いでしまった。
 堅物執事は素晴らしく優秀ではあるものの、いかんせん人が好すぎる。
 牧草地帯であるロントーレ子爵領の住民には、のんびりした気風の者が多いのだ。
 その上エニシダは、そこそこの地位を築き上げている商人。信頼が第一の仕事をしていて、まさか邸内で不審な動きはするまいと考えたのだろう。
 だからと言って、これほどの危険人物を野放しにしないでほしかったが。
 後退していく内に、背中が壁にぶつかる。
 壁、と思ったけれど違った。
 それは、寝室に繋がる扉だった。
 逃げられるかもしれない。けれど逃げ込む先としては、何かが致命的に間違っている気がする。
 シルフィアの葛藤に気付いているのか、エニシダはスッと目を細めた。
「モクレンと、ずいぶん親交を深めていらっしゃるようで。あなたに焦がれる一人の男としては、先んじられて悔しいばかりですよ」
 彼はいつも歯の浮くような台詞ばかり口にする。
 けれど瞳の奥は至極冷静で、まるでこちらの一挙一動を品定めしているようでもあった。
 口先だけで愛を囁かれても、ときめくはずがない。
「ーーモクレン様とは、フィソーロの活動を通してお付き合いをしているだけですわ。妙な誤解で彼の名誉を傷付けないでくださいませ」
 決然と反論すると、彼はゆったり首を傾げた。
「なぜ、領主様の愛娘であるあなたが、フィソーロの活動に興味を? 危険であることくらいご存知でしょうに」
「自領の治安について知りたいと思うのは、そんなに不自然なことかしら?」
「先日も、東街区の火事に居合わせたそうですね」
 シルフィアの肩が、小さく揺れた。うまくやり過ごそうと思っていたのに、反射的に思い出してしまう。
 遠目にも分かる、狂気をはらんだ眼光。笑みを浮かべた唇。紡がれる言葉。
 悪寒が込み上げ、ぎゅっと目を閉じる。
 その時、エニシダの気配が動いた。
 彼は壁に手を付き、先ほどまでよりずっと近くからシルフィアを見下ろしていた。危険な距離感。
「フィソーロでも調査は進めているでしょうが、俺も個人的にあの事件について気になっておりましてね。部下に調べさせてみたところ、付け火の可能性が高いのではないかと分かってきましたよ」
「ーー付け火……放火? 目撃証言があったの?」
 目を見開き、食い入るように見つめ返すと、エニシダは軽く眉を上げた。 
「おや。甘い言葉より怖い事件について聞きたがるとは、勇敢なお姫様だ。こんなに震えている癖に」
 彼の指が頬に触れる。
 不躾な行為のはずなのに、それは壊れものを扱うようにそっと優しかった。
 その熱に、自分の体温が思いの外下がっていることに気付かされる。
 ーー悔しい。クシェルだった時は、決してこんなふうにならなかったのに……。
 黒ずくめの男を思い出すだけで、震えるほどの恐怖を感じてしまう。過去の亡霊なんかに負けたくないのに。
 シルフィアはぐっと歯を食い縛ると、眦を決する。
「知りたいわ。私はロントーレを愛しているもの」
 琥珀の瞳は覚悟に彩られ、燦然と輝いていた。
 エニシダは眩しげに目を細める。ゆるりと溶けるように、瞳の赤みが際立った。
 彼の指先がさらに熱くなる。
「……俺には、誰より尊敬し、敬愛する存在がいました」
 ポツリと呟く彼の指が、ゆるりと輪郭をたどる。
「大切だから、誰より幸せになってほしかった。いつか抱えきれないほどの幸せを、俺こそがって。今思えば愚かな子どもでしかない。あの人が側にいてくれる未来を、信じて疑わなかった」
「……」
 それは、クシェルのことだろうか。
 突然の吐露に、シルフィアは何も返すことができなかった。知らずドレスの胸元を握り締める。
「商人になって、望めばあらゆるものを手に入れられるようになった。けれど全てを捧げたかった相手には、もう届かない。誰も届かない高みで、きっと今も笑ってる」
「エニシダ……様……」
 彼の姿は、まさに傷付いた子どもそのもので。
 シルフィアは息が苦しくなった。
 執着を懸念し、なるべく避けるよう言われている。
 けれど執着の強さとは、つまり未だ生々しく心に傷を残しているということではないだろうか。
 それはもしかしたら、シオンも?
 大切な元養い子にこんな顔をさせてまで、黙っていなければならない秘密などあるのだろうか。
 苦悩するシルフィアは、反応が遅れた。
 ふと気付くと、エニシダの苦しげな顔があまりに間近く迫っていた。
 はらりと、彼の燃えるような赤毛が頬をかする。
 ゆるゆると見開く視界が、エニシダの整った顔でいっぱいになっていく。
 唇に柔く吐息が触れーー。

「何をしているんですか、あなたは」

 あと少しというところで、シルフィアの肩を引き、体を割り入れた者がいた。
 その白衣を頼もしく思うのは、これで何度目だろうか。
「ーーモクレン」

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