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第12話
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シルフィアは声がした方を振り返る。
燃え盛る建物に飛び込もうとする女性を、周囲の男達が慌てて取り押さえていた。
買い出し帰りなのか、女性の周囲にはオレンジや瓶詰めが散乱している。荷物を落としていることにさえ気付かず泣き叫ぶ姿は、あまりに痛々しい。
誰もが彼女に同情の眼差しを向けていた。
それもそうだろう。
出入り口を、抱えきれないほど巨大な銅像が塞いでいるのだ。成人男性では通るのが難しいだろう。
そう、成人男性ならば。
シルフィアは、大胆にもその場でドレスの裾を破った。
ぎょっとする周囲の視線も何のその、切り離した布で髪や顔を覆い隠す。
さらけ出された白いふくらはぎに僅かばかり見惚れていた青年からバケツを奪うと、冷たい水を勢いよく被る。
琥珀の瞳で見据えるのは、炎に包まれた骨董店。
シルフィアくらい華奢なら出入り口も通れそうだ。
駆け出そうとする腕を取られ、足止めされた。
振り向くと、モクレンの射るような眼差しにぶつかる。
「あなたは、何をするつもりですか!」
「決まっているでしょう。自領の民を守るのよ」
「いけません! あなたはロントーレ子爵令嬢ですよ!? 危険なことは周りに任せておけばいい!」
痛いほどの力で握られた手を見下ろす。
激情を必死に堪えているのか、彼の腕は震えていた。
「今助けるべきだと思うから、私が行くの」
「あなたはっ……」
モクレンの声がかすれて途切れる。
怒っているのに、すがるような緑の瞳。置いてきぼりの子どもの目。
彼が今どんな気持ちなのか、分かっているつもりだ。その苦しみを思えば罪悪感が胸を苛む。
それでも。
「ーー悪い」
男性の力には敵わないから、どんなに引いても振りほどくことはできない。
けれどあえて相手側へ押すことにより、想定外の動作への動揺が生じる。
その一瞬の隙だけで十分だった。
シルフィアは、もう一方の手で掌底を繰り出す。急所への打撃は非力な女性でも有効な一打となる。
前世を彷彿とさせる精度の高い攻撃は、見事モクレンの顎に命中した。
「ぐぅ……っ」
間抜けな声をこぼす彼が拘束を緩める。
シルフィアは腕を抜くと、すぐさま走り出した。
追いすがる声を振り切り、出入り口に素早く身を滑り込ませる。一度だけ振り返って、届かないと知りつつ元養い子へと囁いた。
「本当に、ごめんな」
シルフィアは強く目を閉じ、全てを断ち切る。
顔を上げた時には、今まさに助けを求めている命に全神経を集中させた。
骨董店だけあり、ところ狭しと置かれたものが救出の行く手を阻んでいる。
叫べば喉を火傷する恐れがあるため、大声を上げて捜すことはできない。
シルフィアは慎重に耳を澄ました。
か細い泣き声が、かろうじて聞こえる。おそらく子どものいる部屋は、店舗の右奥だ。
炎になぶられ、足が熱い。ドレスを濡らしたおかげで何とかなっているが、乾いてしまうのは時間の問題だろう。
シルフィアは割れた壺やら熱せられた石像に触れないよう注意しながら、急いで奥へと進む。
やがて発見したのは、十歳ほどの少年だった。
火事に巻き込まれた際の心得を知っているらしく、必死に屈んでいる。賢い少年だ。
「よく頑張ったわね。歩ける?」
肩を叩いて安心させると、少年は強く頷いた。
怖かったろうに、決して涙を見せない気丈な姿に笑みがこぼれる。シルフィアは彼の手を握ると、すぐに元来た道を引き返した。
彼一人では飛び越えることができなかったであろう床の穴を攻略し、焼け落ちた壁をくぐり抜ける。
あと少し、という時だった。
支えを失った柱が、ひどくゆっくり傾いで見えた。
シルフィアは、それが目の前に倒れると分かった。
怪我の心配はない。けれど、このままでは行く手を遮られてしまう。
咄嗟に手を引き、少年を突き飛ばしていた。
彼が尻餅をつくと同時に、二人を引き裂くように柱が立ち塞がる。呆然として動かない少年に、シルフィアは不敵な笑みを浮かべた。
「行って。そして、助けを呼んでちょうだい」
使命を与えてあげれば、彼は逡巡したもののすぐに駆け出していく。
遠ざかっていく背中に、これでいいと肩の力を抜いた。あの少年ならば出入り口も通れるだろう。
おそらくーー助けは期待できない。
「分かっていてあんなことを言うなんて、私ったら意外と悪女の素質があるのかしら」
流れ落ちる汗を拭いながら、一人ごちる。
「クシェルなら、もう少し耐えられたのだけれど」
窮地に慣れていたクシェルと令嬢の身体とでは、感じ方も辛さも違う。
シルフィアは大切に育てられてきたのだ。
「前世と今世で死因が同じなんて、笑えない」
負傷しているわけではないが、もう一歩も動くことができない。状況は前世とよく似ていた。
あの時。少女を助け出したあの時。
彼女の無事を心底から祈りながらも、クシェルは未練たらしく願っていた。
まだ、生きたい。
変わらぬ笑顔で仕事へと送り出してくれた、個性的な七人の子ども達。
彼らは自分が死んだらどうするだろう。
泣くだろうか。怒るだろうか。
中途半端なまま放り出したくなんてない。
彼らは一体、どんな大人になるのだろう。願わくは成長していく姿を、ずっと見守っていたかった。
「……あれ?」
シルフィアは目を瞬かせ、ふと相好を崩した。危機が迫っているというのに、琥珀色の瞳はひどく柔らかい。
だってもう、その望みは叶っている。
シルフィアとして転生し、大人になった彼らに出会えたのだから。
「女神様が、聞いてくださったのかしらね……」
なぜ転生をしたのか、ずっと不思議だった。
なぜ突然、前世の記憶が甦ったのかと。
けれどもしかしたら、とても単純で優しい理由だったのかもしれない。
「はぁ……。何だかもう、熱いのか熱くないのかも、分からなくなってきたわ……」
身にまとう衣類がほとんど乾ききっていた。そろそろ、終わりの時が近い。
火に巻かれている体は、いつの間にか全く汗をかかなくなっていた。
よくない症状だろうが、どうすることもできない。意識も次第に朦朧としてくる。
どうせ逃げられないのなら、できれば苦しみたくない。いっそ意識を失う方法はないものかと、馬鹿らしい考えが頭をよぎる。
「……いや。駄目よ」
どんなに過酷でも精一杯足掻いて生きろと教えた本人が、あっさり諦めてどうするのか。
不意に、ユキノシタの穏やかな声を思い出した。
細い目をさらに細くして笑うクチナシ。軽い調子で口説こうとするエニシダ。
そして、ずっと隣にいてくれたモクレン。
先ほど別れた時の、傷付いた顔ばかりが浮かぶ。
泣かないで。どうか、幸せになって。
少しずつ重くなっていく目蓋に逆らおうとするものの、どうにも抗えない睡魔に身を任せーー。
ドッガンッッ
けたたましい音に、慌てて飛び起きた。
目の前には見慣れた白衣。
のろのろ顔を上げると、煤と火傷だらけになってなお美しい容貌があった。
行く手に立ち塞がっていた柱が、まるで棒きれのように部屋の隅まで転がっている。
彼の体勢から察するに、おそらく蹴り上げるという荒業で何とかしたのだろう。先ほどの轟音はそのためか。
いつもの冷静さなど微塵もなく、汗だくで必死の形相。
肩で息をして、余裕なんて少しもない。
「モ、クレン……」
名前を呼ぶも、かすれた声しか出てこなかった。彼の顔はますます険しくなる。
「何て無茶をするんですか! 分かってないようですけど、あなたは今女性なんですよ!」
あまり大声を出すと喉が焼ける、という忠告は、咳き込んだために出てこなかった。
モクレンは急いで白衣を脱ぐと、シルフィアの体に巻き付けた。ひんやりと濡れた感触に気が緩み、つい肩に寄りかかってしまう。
一瞬彼の体が強ばったものの、すぐにシルフィアの背中に腕が回される。
「大人しくしていてくださいね」
「うわっ」
ふわりと体が地面を離れ、思わず声を上げる。
いつの間にかモクレンに、横抱きにされていた。
力強い腕はびくともせず、シルフィアは真っ直ぐ前を見据える彼を凝視する。
視線に気付いたモクレンが、鮮やかな緑の瞳でこちらを見下ろした。
「もう、あなたに置いていかれるのは嫌ですから」
口端をつり上げて笑う彼は、いたずらが成功した子どものように無邪気だった。
子どもっぽいのに、どこか男らしい。
「ば、かやろ……」
シルフィアは悪態をついてから視線を外した。
頬が熱いのは炎のためだと思いたい。
ゆらゆらと揺られている内に、力が抜けていく。シルフィアはモクレンに全身を委ねた。
倦怠感に混じるこの安心感は、何なのだろう。
彼が現れた時、確かに救われた気がした。
まるで、あの頃の自分が助けられたみたいに。
あの柱さえ越えれば、外はすぐそこだった。
外気に触れ目を開いたシルフィアは、絶句する。
出入り口は、ずいぶん見通しがよくなっていた。
火の勢いは収まりつつあり、木っ端微塵に破壊された出入り口の端には転がる銅像。
そのために割れてしまった哀れな陶器の残骸もあちこちに散らばっている。
「おま、これ、損害どれくらいになるか……」
「子爵令嬢の命には変えられません」
助けてもらった手前、シルフィアも口を噤まざるを得ない。けれど店主一家には多分に同情した。
少年や母親の顔を知っているから、余計に。
お詫びもかね当面の生活はロントーレで保障しようと考えている矢先、少年が駆け寄ってくる。先ほどの子だ。
擦り傷などは見られるものの、大きな火傷はないようだった。不安そうな彼に、シルフィアは笑いかける。
「ありがとう。あなたのおかげで助かったわ」
ぎゅっと眉根を寄せ、少年は何度も首を振った。
もっと言葉をかけられたらいいのだが、満身創痍でさすがにシルフィアの方も体力が限界だ。何とか手を伸ばし、頭を撫でて別れた。
モクレンの腕の中でふと顔を上げたのは、視線を感じたからだろうか。
少し離れた建物の上、人影を見つけた。
消火活動に慌ただしい人の群れの中、そこだけあまりに静謐な雰囲気。
シルフィアは総毛立った。
その人物は、全身黒ずくめだったのだ。
食い入るように見つめる先。
人影の口が、ゆっくり動いた気がした。
『み つ け た』
燃え盛る建物に飛び込もうとする女性を、周囲の男達が慌てて取り押さえていた。
買い出し帰りなのか、女性の周囲にはオレンジや瓶詰めが散乱している。荷物を落としていることにさえ気付かず泣き叫ぶ姿は、あまりに痛々しい。
誰もが彼女に同情の眼差しを向けていた。
それもそうだろう。
出入り口を、抱えきれないほど巨大な銅像が塞いでいるのだ。成人男性では通るのが難しいだろう。
そう、成人男性ならば。
シルフィアは、大胆にもその場でドレスの裾を破った。
ぎょっとする周囲の視線も何のその、切り離した布で髪や顔を覆い隠す。
さらけ出された白いふくらはぎに僅かばかり見惚れていた青年からバケツを奪うと、冷たい水を勢いよく被る。
琥珀の瞳で見据えるのは、炎に包まれた骨董店。
シルフィアくらい華奢なら出入り口も通れそうだ。
駆け出そうとする腕を取られ、足止めされた。
振り向くと、モクレンの射るような眼差しにぶつかる。
「あなたは、何をするつもりですか!」
「決まっているでしょう。自領の民を守るのよ」
「いけません! あなたはロントーレ子爵令嬢ですよ!? 危険なことは周りに任せておけばいい!」
痛いほどの力で握られた手を見下ろす。
激情を必死に堪えているのか、彼の腕は震えていた。
「今助けるべきだと思うから、私が行くの」
「あなたはっ……」
モクレンの声がかすれて途切れる。
怒っているのに、すがるような緑の瞳。置いてきぼりの子どもの目。
彼が今どんな気持ちなのか、分かっているつもりだ。その苦しみを思えば罪悪感が胸を苛む。
それでも。
「ーー悪い」
男性の力には敵わないから、どんなに引いても振りほどくことはできない。
けれどあえて相手側へ押すことにより、想定外の動作への動揺が生じる。
その一瞬の隙だけで十分だった。
シルフィアは、もう一方の手で掌底を繰り出す。急所への打撃は非力な女性でも有効な一打となる。
前世を彷彿とさせる精度の高い攻撃は、見事モクレンの顎に命中した。
「ぐぅ……っ」
間抜けな声をこぼす彼が拘束を緩める。
シルフィアは腕を抜くと、すぐさま走り出した。
追いすがる声を振り切り、出入り口に素早く身を滑り込ませる。一度だけ振り返って、届かないと知りつつ元養い子へと囁いた。
「本当に、ごめんな」
シルフィアは強く目を閉じ、全てを断ち切る。
顔を上げた時には、今まさに助けを求めている命に全神経を集中させた。
骨董店だけあり、ところ狭しと置かれたものが救出の行く手を阻んでいる。
叫べば喉を火傷する恐れがあるため、大声を上げて捜すことはできない。
シルフィアは慎重に耳を澄ました。
か細い泣き声が、かろうじて聞こえる。おそらく子どものいる部屋は、店舗の右奥だ。
炎になぶられ、足が熱い。ドレスを濡らしたおかげで何とかなっているが、乾いてしまうのは時間の問題だろう。
シルフィアは割れた壺やら熱せられた石像に触れないよう注意しながら、急いで奥へと進む。
やがて発見したのは、十歳ほどの少年だった。
火事に巻き込まれた際の心得を知っているらしく、必死に屈んでいる。賢い少年だ。
「よく頑張ったわね。歩ける?」
肩を叩いて安心させると、少年は強く頷いた。
怖かったろうに、決して涙を見せない気丈な姿に笑みがこぼれる。シルフィアは彼の手を握ると、すぐに元来た道を引き返した。
彼一人では飛び越えることができなかったであろう床の穴を攻略し、焼け落ちた壁をくぐり抜ける。
あと少し、という時だった。
支えを失った柱が、ひどくゆっくり傾いで見えた。
シルフィアは、それが目の前に倒れると分かった。
怪我の心配はない。けれど、このままでは行く手を遮られてしまう。
咄嗟に手を引き、少年を突き飛ばしていた。
彼が尻餅をつくと同時に、二人を引き裂くように柱が立ち塞がる。呆然として動かない少年に、シルフィアは不敵な笑みを浮かべた。
「行って。そして、助けを呼んでちょうだい」
使命を与えてあげれば、彼は逡巡したもののすぐに駆け出していく。
遠ざかっていく背中に、これでいいと肩の力を抜いた。あの少年ならば出入り口も通れるだろう。
おそらくーー助けは期待できない。
「分かっていてあんなことを言うなんて、私ったら意外と悪女の素質があるのかしら」
流れ落ちる汗を拭いながら、一人ごちる。
「クシェルなら、もう少し耐えられたのだけれど」
窮地に慣れていたクシェルと令嬢の身体とでは、感じ方も辛さも違う。
シルフィアは大切に育てられてきたのだ。
「前世と今世で死因が同じなんて、笑えない」
負傷しているわけではないが、もう一歩も動くことができない。状況は前世とよく似ていた。
あの時。少女を助け出したあの時。
彼女の無事を心底から祈りながらも、クシェルは未練たらしく願っていた。
まだ、生きたい。
変わらぬ笑顔で仕事へと送り出してくれた、個性的な七人の子ども達。
彼らは自分が死んだらどうするだろう。
泣くだろうか。怒るだろうか。
中途半端なまま放り出したくなんてない。
彼らは一体、どんな大人になるのだろう。願わくは成長していく姿を、ずっと見守っていたかった。
「……あれ?」
シルフィアは目を瞬かせ、ふと相好を崩した。危機が迫っているというのに、琥珀色の瞳はひどく柔らかい。
だってもう、その望みは叶っている。
シルフィアとして転生し、大人になった彼らに出会えたのだから。
「女神様が、聞いてくださったのかしらね……」
なぜ転生をしたのか、ずっと不思議だった。
なぜ突然、前世の記憶が甦ったのかと。
けれどもしかしたら、とても単純で優しい理由だったのかもしれない。
「はぁ……。何だかもう、熱いのか熱くないのかも、分からなくなってきたわ……」
身にまとう衣類がほとんど乾ききっていた。そろそろ、終わりの時が近い。
火に巻かれている体は、いつの間にか全く汗をかかなくなっていた。
よくない症状だろうが、どうすることもできない。意識も次第に朦朧としてくる。
どうせ逃げられないのなら、できれば苦しみたくない。いっそ意識を失う方法はないものかと、馬鹿らしい考えが頭をよぎる。
「……いや。駄目よ」
どんなに過酷でも精一杯足掻いて生きろと教えた本人が、あっさり諦めてどうするのか。
不意に、ユキノシタの穏やかな声を思い出した。
細い目をさらに細くして笑うクチナシ。軽い調子で口説こうとするエニシダ。
そして、ずっと隣にいてくれたモクレン。
先ほど別れた時の、傷付いた顔ばかりが浮かぶ。
泣かないで。どうか、幸せになって。
少しずつ重くなっていく目蓋に逆らおうとするものの、どうにも抗えない睡魔に身を任せーー。
ドッガンッッ
けたたましい音に、慌てて飛び起きた。
目の前には見慣れた白衣。
のろのろ顔を上げると、煤と火傷だらけになってなお美しい容貌があった。
行く手に立ち塞がっていた柱が、まるで棒きれのように部屋の隅まで転がっている。
彼の体勢から察するに、おそらく蹴り上げるという荒業で何とかしたのだろう。先ほどの轟音はそのためか。
いつもの冷静さなど微塵もなく、汗だくで必死の形相。
肩で息をして、余裕なんて少しもない。
「モ、クレン……」
名前を呼ぶも、かすれた声しか出てこなかった。彼の顔はますます険しくなる。
「何て無茶をするんですか! 分かってないようですけど、あなたは今女性なんですよ!」
あまり大声を出すと喉が焼ける、という忠告は、咳き込んだために出てこなかった。
モクレンは急いで白衣を脱ぐと、シルフィアの体に巻き付けた。ひんやりと濡れた感触に気が緩み、つい肩に寄りかかってしまう。
一瞬彼の体が強ばったものの、すぐにシルフィアの背中に腕が回される。
「大人しくしていてくださいね」
「うわっ」
ふわりと体が地面を離れ、思わず声を上げる。
いつの間にかモクレンに、横抱きにされていた。
力強い腕はびくともせず、シルフィアは真っ直ぐ前を見据える彼を凝視する。
視線に気付いたモクレンが、鮮やかな緑の瞳でこちらを見下ろした。
「もう、あなたに置いていかれるのは嫌ですから」
口端をつり上げて笑う彼は、いたずらが成功した子どものように無邪気だった。
子どもっぽいのに、どこか男らしい。
「ば、かやろ……」
シルフィアは悪態をついてから視線を外した。
頬が熱いのは炎のためだと思いたい。
ゆらゆらと揺られている内に、力が抜けていく。シルフィアはモクレンに全身を委ねた。
倦怠感に混じるこの安心感は、何なのだろう。
彼が現れた時、確かに救われた気がした。
まるで、あの頃の自分が助けられたみたいに。
あの柱さえ越えれば、外はすぐそこだった。
外気に触れ目を開いたシルフィアは、絶句する。
出入り口は、ずいぶん見通しがよくなっていた。
火の勢いは収まりつつあり、木っ端微塵に破壊された出入り口の端には転がる銅像。
そのために割れてしまった哀れな陶器の残骸もあちこちに散らばっている。
「おま、これ、損害どれくらいになるか……」
「子爵令嬢の命には変えられません」
助けてもらった手前、シルフィアも口を噤まざるを得ない。けれど店主一家には多分に同情した。
少年や母親の顔を知っているから、余計に。
お詫びもかね当面の生活はロントーレで保障しようと考えている矢先、少年が駆け寄ってくる。先ほどの子だ。
擦り傷などは見られるものの、大きな火傷はないようだった。不安そうな彼に、シルフィアは笑いかける。
「ありがとう。あなたのおかげで助かったわ」
ぎゅっと眉根を寄せ、少年は何度も首を振った。
もっと言葉をかけられたらいいのだが、満身創痍でさすがにシルフィアの方も体力が限界だ。何とか手を伸ばし、頭を撫でて別れた。
モクレンの腕の中でふと顔を上げたのは、視線を感じたからだろうか。
少し離れた建物の上、人影を見つけた。
消火活動に慌ただしい人の群れの中、そこだけあまりに静謐な雰囲気。
シルフィアは総毛立った。
その人物は、全身黒ずくめだったのだ。
食い入るように見つめる先。
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