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第8話

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 屋敷を目指すように表通りを歩いていくと、目的の食事処に着いた。
 さほど広さはなく、小ぢんまりとした店舗だ。
 黄砂色の外壁。軒先には、他店と同じように鮮やかな橙色の布が飾られている。小さな窓から漏れる明かりも暖色で、外観から温もりを感じられた。
 下げられた看板には『どんぐり亭』とあった。
「実は私とモクレンは、血の繋がりはありませんが兄弟として育てられました。そしてここは、同じく私達の兄弟が経営しています」
 説明しながら、ユキノシタが店のドアを開く。シルフィアは礼を言って店内に入った。
「ユキノシタ様。先ほどから気になっていたのですけれど、普通にお話いただいて大丈夫ですよ」
 孤児院訪問は子爵令嬢として公式な場面であったものの、今は完全に非公式だ。元々格式を重んじない親の方針を受け継いでいるので、くだけた態度も気にならない。
 元々彼がどんな口調か知っているだけに、少し違和感があったのだ。
 ユキノシタは、困った顔で笑った。
「あまり変わらないのですが、それでしたら普段通りにさせていただきますね。シルフィア様こそ、どうぞ楽にしてください。手狭な食事処ですから」
「手狭とは失礼だな、ユキノシタ」
 シルフィア達の会話に割り込むように、別のところから声が上がった。
 店内カウンター前に、大柄な男性が立っている。
 縦にも横にも大きいと感じたのは、背が高く、体に分厚い筋肉がついているからだ。
 麦穂色のパサつく髪をバンダナで無造作にまとめ、腰には汚れの付いたエプロン。髪と同じ色の瞳は細く、笑うとなくなってしまいそうだ。
「お、モクレンもいるのか。お前らが一緒なんて珍しいな。連れのお嬢さんは、もしかして領主様の娘さんか?」
「分かっているなら態度を改めなさい、クチナシ」
 咎めようとするモクレンを制し、シルフィアはクチナシに挨拶をした。
「突然の訪問で、驚かせてしまったなら申し訳なかったわ。お察しの通り、私はシルフィア・ロントーレ。けれど、あなたの料理を食べに来た客の一人に過ぎないのだから、畏まる必要はないわよ」
 あえて敬語を使わずに話すと、彼は豪快に笑った。笑うと想像通り、どこか可愛い印象になる。
「あんた面白いな、嬢さん。俺はクチナシ・リュクセだ。とびきりおいしいものを作ってやるから、そこら辺に座って待ってな」
 そう言うと、クチナシは厨房に戻っていく。
 モクレンは弟分の振る舞いにまだ文句を言いたげだったが、何とか宥めて席に着いた。
 申し訳程度に綿が詰められた硬い椅子に座ると、ギシリと軋んだ音がする。
 シルフィアは、改めて店内を見回した。
 ユキノシタではないが、確かに手狭な店だ。
 カウンターには、背もたれのない簡素な椅子が合わせて四つ。テーブル席はシルフィア達が座っているものを合わせても二つしかない。
 テーブルは使い込まれており、四つ角からニスが剥がれ始めていた。
 床の板材もすっかり色褪せているが、食事屋ならではの艶がある。天井をぶら下がる照明は、古いが手入れは行き届いていた。
 素朴で、花も飾られていない武骨な店。これでは男性客しか寄り付かないのではないだろうか。
 ーー女性の影が少しもない。ということは、おそらく独身なのでしょうね……。
 男性としては、全員そろそろ適齢期だ。結婚する気がないならともかく、元親としては少し心配になる。
 遠い目になっていると、ふと棚の上に飾られた置き時計が目に入った。
 店の雰囲気におよそ似つかわしくない意匠で、文字盤の周りを花がぐるりと彩っている。
 中心には『ツバキ ユウガオ』と、なぜか養い子の名前が入っていた。
 シルフィアの視線に気付いたモクレンが、思い出したように口を開く。
「それは、エニシダがツバキとユウガオに贈ったものです。忙しいから式をしないという二人のためにささやかなお祝いをしたんですが、奴のいつもの悪のりで全員同じものを受け取らされたんですよ」
「へ?」
 彼の台詞に、何やら聞き逃せない単語があったような。
 硬直したシルフィアを、モクレンが追撃した。
「ああ。言い忘れてましたけど、そういえば結婚したんですよ。ツバキとユウガオ」
「えぇ……っ!?」
 そんな大事なことを忘れるなと言いたい。
 けれどシルフィアが彼らを知っていてはユキノシタに不審がられる恐れがあるので、文句はギリギリのところで呑み込まざるを得なかった。
 結婚。今まさに危ぶんでいたので、元養い子の中で既婚者がいるというのは朗報だ。
 ーーそっか……。そういえばあいつら、同じ孤児院出身で、いつも一緒だったもんな。
 道端にうずくまっているところを拾った当初は、クシェルを警戒して互いから離れようとしなかったほどだ。固く握り合った小さな手を思い出すと、何だか感慨深い。
 こっそり感動を噛み締めていると、程なくおいしそうな匂いが漂ってきた。
 シルフィアは厨房に視線を移す。
 瞬間、カッと目を見開いた。
「何てこと……!」
 厨房には、当然ながらクチナシがいる。
 けれど、豪快で熊のようだった先ほどまでとは、まるで別人だった。
「包丁を持った途端三割増しじゃない……! あれが世に言う、仕事に打ち込んでいる男性は格好いい現象! 職人萌えというやつね!」
「何ですかそれ」
「あの手際のよさ、調理中の真剣な瞳、そして躍動感溢れる包丁さばき。おかずにすればパンがいくらでも食べられそうだわ……!」
「何かツバキ達の結婚以上に衝撃受けてません?」
 モクレンの冷たい声もユキノシタの戸惑いも、今のシルフィアにはどうでもよかった。
 フライパンを振るうしなやかな筋肉に釘付けだ。
 うっとり息をつきながら観賞していると、大皿三枚を腕に載せたクチナシがやって来た。
 事もなげに運ぶ姿がまた堪らない。
「待たせたな。今日は客が多くて、そろそろ閉めようかと思ってたくらいでな。あんまり食材が残ってないから、あり合わせで悪いけど」
 そう苦笑いして置かれたのは、ベーコンとアスパラの玉子炒め、塩漬け肉の煮込み、イカとダイストマトがたっぷり入ったパスタ。
 あり合わせと言いながら、十分調和が取れている。
 ホカホカと湯気の立つ料理を前して、シルフィアは途端に空腹を思い出した。
「とてもおいしそうだわ」
「ありがとよ。さぁ、熱い内に食べてくれ」
 シルフィア達は、早速フォークを動かした。
「どうですかシルフィア様。お口に合いますか?」
「ええ。このパスタ、少しレモンを入れているのね。さっぱりしてイカと合うわ」
「シルフィア様、この煮込みもどうぞ。俺はここに来た時、必ずこれを注文するんです」
 モクレンに勧められ、煮込みを食べる。
 塩漬け肉は固く筋張っているものだが、口に入れただけでホロホロと崩れていく。少し濃い味付けが一杯に広がり、パンを食べる手が止まらない。
「何ておいしいの……」
「ハハッ。食わせ甲斐のある反応だな。ホラ嬢さん、玉子炒めも冷めたら固くなっちまうから」
「シルフィア様、この店に紅茶はないのでコーヒーでもいかがですか?」
 なぜか全員からあれこれ世話を焼かれているが、これも子爵令嬢の特権だろうか。
 シルフィアは遠慮なく玉子炒めの取り分けられた皿を受け取り、コーヒーを飲んだ。
「シルフィア様にパンのお代わりを」
「そうだ。うまいバターがあるぞ」
「それでしたらクチナシ、新しいバターナイフを出した方がいいのでは」
 三人の動きは絶妙に連携が取れていて、思わず笑ってしまう。何だか昔に戻ったみたいだ。
「フフフ。あなた達一緒に育っただけあって、さすがに息ぴったりなのね」
 シルフィアが楽しくなって指摘すると、彼らは子どものように顔を見合わせた。
「俺は五番目に拾われたから、すぐあとに拾われたユキノシタを本当の弟みたいに可愛がってたな」
「え。あれって可愛がってたんですか? いじめられているんだと思ってました」
「男は逆境を経験することで強くなるもんだって、ボスも言ってただろ」
「ボスの名を出して正当化しないでください」
 賑やかな夕食を終え、シルフィア達は店を出た。
 あまり長居しては父に怒られてしまう。
 店先の、どんぐりが描かれた看板が目に留まり、シルフィアは何気なく口を開いた。
「ところでなぜ、お店は『どんぐり亭』なの?」
 見送りに出ていたクチナシは、店内からの逆光を受けて男らしく笑った。
「俺はこいつらと兄弟になる前、ろくでもない飲んだくれ暴力親父と暮らしてたんだ」
 暴力は日に日に激しくなる一方で、このままでは殺されてしまうと危ぶんだクチナシは、命からがら逃げ出した。
 けれど身一つで飛び出してしまったために路銀はなく、もちろん食べものもない。
 リスが食べるどんぐりさえおいしそうに見えてきて、クチナシは目一杯口に詰め込んだ。
 当然アクなど取っていないので、あまりの苦さに吐き出したけれど。
 その後クシェルに拾われたが、養い子が多かったため日々の暮らしは決して楽ではなかった。
「ある時、養い親がどんぐり入りのクッキーを作ってくれたんだ。感動したぜ。あんなクソまずいもんがこんなおいしくなるなんて、ってな。店の名前を決める時、あれが俺の食の原点だったんじゃねぇかな、と思ったんだ」
 クチナシは、まるで包み込むような大人びた笑顔を浮かべていた。全く変わっていないように見えて、やはり成長しているのだ。
 また必ず食べに来ると約束してから、ユキノシタとも店の前で別れる。
 商店が店じまいをしているため、表通りは昼間の喧騒が嘘のように静かだ。
 空を見上げると、真ん丸の月が浮かんでいた。
 ポツリポツリと点在する街灯より何より、足元を明るく照らしてくれる。
 今日は、クシェルと関わりのあった者に、不思議と多く触れ合う日だった。
 前世と今はあくまで別ものだ。
 切り離して考えねばならないというのに、思いの外楽しい時間を過ごしてしまった気がする。
 それでも、シルフィアは満ち足りて目を細める。
 とてもおいしく、有意義な夜になった。
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