烏珠の闇 追想花

晩霞

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本編 ─羽ばたき─

瑠璃

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 春の去り際、百花の栄えに慎ましさが見え始めた頃。儚き花の香りに混じって山を包むのは、葉が濃く艶めく新緑の気配。清涼な川が滔々と流れ、季節という名の表情を忙しなく移ろわせる山を落ち着けるよう辺りにせせらぎを届けていた。
 枝葉からはらりと離れ、風に浚われて舞う花弁。受け止めた湖面にゆっくりと波紋が広がる。かつて一羽の清御鳥しんみちょうが身を清め、狩人との邂逅を果たしたこの湖は十余年の時が過ぎようと変わらず、地から湧く水流は止めどなく全ての生き物の命綱として在り続けていた。

 まだ暑さの緩い初夏のこと。人間と清御鳥の世界に、大きな変化が起きようとしている。



 ────────────



「なずなおばあちゃん、こんにちは」

 色彩豊かな雑貨屋に、子供の高い声がキンと響いた。主の返事を待たずして店内に足を踏み入れた、齢十歳ばかりの少年は煌びやかな商品をぐるぐると物色する。
 幼い時から両親と通い、今や勝手知ったる場となった雑貨屋はやはりいつ見ても好奇心がそそられる品々で溢れていた。衣に髪飾りに置物。母への贈り物に今も昔も父はよくこの店を利用しているそうだが、自分が生まれる前の話を当人達はなかなか語ろうとしない。
 少年は、そんな両親に代わって菓子と共に話を提供してくれる優しい店主が大好きだった。今日も今日とて、そんな物語に浸る為に山から足を運んできたのだが……。

「あれ、あれあれ……」

 奥から出てきたのは優しい店主その人だが、その顔にはいつも浮かんでいる柔和な笑みは無く、驚きに満ちた表情で瞳を瞬かせている。

「どうしたの彼方かなた君……ここにいて良いのかい……?」

 想定内の反応でも、少なからず気まずさを感じる。
 そう、分かっている。今はここに来るべきではないことぐらい。

「……つまらないからさ……」

 下を向いて言う少年に、なずなは肩をすくめた。
 この少年は、いくら父親と顔が似ていても、時折、母親ゆずりの可愛らしい表情を見せることがある。両親と長い付き合いでいる身としては本当の孫のようであり、常であれば無条件に甘やかしているところだが、今回ばかりはそうはいられない。

「でも、今日は大切な日でしょう?」

 押し黙り、俯く小さな頭を撫でてやりながら懐から二つ飴玉を取り出し、その手に握らせる。

瑠璃るりちゃんの分もあるから、傍にいてあげて? 寂しがっていると思うわよ?」

 しばし無言でいた少年は、なずなの言葉に控えめに頷くと紙に包まれた飴玉を大事にしまい、手を振って店を後にした。
 ほどなくして外から響いた大きな羽音に安堵しつつ、なずなは仲睦まじく買い物をする清御鳥と狩人の姿がそこにあるかのように店内をぼんやりと眺めた。
 最初は男一人。そして、少女と連れ立って。二人が織り成した思い出の数々に時の流れをしみじみと感じながら、人知れず虚空に向かって呟いた。

烏京うきょうさん、小毬こまりさん……ご結婚、おめでとう……」




 吹く風はぬるく、本格的な暑さも未だ身を隠す初夏の空を告鴉つげがらすと往く少年は、眼下に連なる青々とした山の香りを胸いっぱいに吸い込みながら清御鳥の保護施設を目指していた。
 陽を受けて緑や紫に艶と変わる時雨しぐれの身体は美しく、こんな気持ちの良い空の時は特にそうだが、自分にも翼が備わっていたらなという願望がどうしようもなく溢れてきてしまう。

「何で僕には翼が無いんだろう……」

 自分が母から受け継いだのは脚のみで、背中には羽毛の一片すら生えてはいない。唯一清御鳥だと分かる鳥の爪先を溜め息混じりで開閉させ、翼があるはずの背に力を込めてみるも、やるせない気持ちは膨れるばかり。晴れやかだった心が石を持ったように重くなっていくのを感じた。
 そんな少年の様子に、時雨はカァ……と一つ洩らす。
 言葉は違えど慰めと励ましだと伝わる声に、はにかんだ表情を作りつつ、迫る建物に目を向けた。

「……真砂まさごさん……」

 入り口に仁王立ちし、こちらを鋭く見上げる人物に引きつった声が出る。腕を組みながら指でトントンと催促をする様にげんなりとした顔を必死でこらえ、目の前に着陸する。

「何処まで?」

 何の感情も示さない平坦な声音に俯き加減で相手を見つめ、恐る恐るといった体で懐から飴玉を取り出す。

「瑠璃にあげる飴……皆、忙しいからさ。ぐずったら大変だなって……」
「へぇ、そう。瑠璃ちゃんにね?」

 じろりと窺われ、心臓がわずかに跳ねる。いくら分かりきっていた反応でも、いざ前にすれば緊迫感が想像とまるで違う。

「そうね。でも、何の言伝ても無しに行くのは間違いよ」

 いつもの表情に戻り施設へと踵を返す真砂の後を歩きながら、少しの暇潰しが無事に達成できたと胸を撫で下ろす。相手が父であったなら、こう上手くは誤魔化せなかった。
 付き合わされた時雨も気が気ではなかったはずで、事なきを得て安心し、落ち着かなげに膨らませていた羽毛をピタリと身体に揃えていた。

「やっぱりさ、父さんと母さんの祝言には里の人達も呼ぶべきだったと思うんだけどな……」 

 窓からの陽光に白さ際立つ建物内は、粛々とした空気を醸し出しながらも微かに浮き足立った雰囲気も感じられ、廊下を渡る職員達の声もひそやかさの中に興奮した色を帯びている。

「世は新しいことをすぐには受け止められない」

 清御鳥の立場が正式に人間と平等になったのはつい三年前のこと。これまで一介の獣人として、一部の人間からは商品として見られていた清御鳥が人間と対等になったのを、世は未だ受け入れきれていない。史上初、異種の夫婦として認められたものの大々的に祝言を挙げるのにはいささか風当たりが強かった。

「里の仲良くしてくれる人でも駄目なんてさ……僕の脚を見ても何も言わないよ?」

 納得のいかない少年の疑問に、真砂の胸には複雑な感情が生じる。
 二人とて、そうしたかったに違いない。特に父親の方は大きく世間に知らしめたいと思っただろう。しかし。

(お母さんと、あなた達を護る為なのよ)

 中には心無い言葉を投げる輩もいるはずで、世間の目から秘された祝言は見世物小屋をたむろするような野次馬目的の人間を避ける為のもの。大切な者が増え、好奇の目に家族を晒したくないという父親なりの配慮なのだが、真砂は決して少年には告げない。少年が、まるで自分のせいだと捉えかねない事実をつまびらかにするのは憚られた。

「おにいちゃーっ!!」

 目に飛び込む白い反射に手をかざしつつ、前方から突如として響き渡った声に足を止める。大人の制止の言葉も何のその。眩しさに目を細めてみれば、細い髪をたなびかせて駆けてくる五つ下の妹の姿があった。

「瑠璃!」
「おにいちゃっ!」

 満面の笑みで腕に飛び込んでくる妹に、自然と口角が緩くなる。
 小さな翼をはためかせ母親とそっくりな面差しを向ける幼子は、父親と同じ蒼い瞳を零れ落とさんとばかりに見開き、兄に抱っこをせがんだ。

「なぁんでいなかったの?」

 抱っこをされ、てっきり満足して笑うかと思っていた妹の予想外の反応に少年は面食らった。こちらに駆けてきた時に見せた明るい表情は何処へやら、すっかりむすくれてしまっている。

「ずっと、お兄ちゃんを探していたの……」

 妹を追いかけ、息を切らして言う職員の顔には疲労の色が滲んでいて、だいぶ迷惑をかけてしまったことが窺える。

「そっか……ごめん、ごめん……」

 尚、頬をふくらませて不機嫌であると訴える妹を腕から解放した少年は、眉を下げて自身の懐をまさぐる。
 貰った飴玉を取り出し包みを開けてみせると、むすくれた幼子は一変、途端に表情に花が咲いた。口に放り、ころころと舌で転がしながら幸せそうに頬を両手で抑える変わりようは秋の空のようで、眺めている者の心を楽しませてくれる。しかし、うっとりと飴玉を味わう幼子は愛らしいものの、式の刻限は待ってはくれない。

「瑠璃ちゃん、落ち着いたわね? そろそろ行きましょうね」

 清御鳥と人間が結ばれる歴史的瞬間。見る者の限られる、清御鳥の尊厳が強固となる吉日よきひに、少年は窓の外で揺れる青い草木をつまらなさそうに眺めた。



 祝言に使われるのは一階にある大広間。元々、職員の集会場だった質素な空間が、今や床には畳が敷かれ、派手すぎず、されど気品溢れる装飾品や花で彩られている。
 飄々としていた少年は、殺風景だった場所の美しい変わりように思わず身を固めた。口を真一文字に引き結び、大人達の様子にきょろきょろしていると、遠くから手を振る存在が目の端に映った。
    人間の座る位置から距離を保って連なるのは集落の清御鳥の面々。その中の一羽が、こちらに笑いかけてくる。

雪加せっか兄さん……!」

 幼い頃から共に過ごし本当の兄のように慕う清御鳥の姿に緊張を忘れ、ひそやかに発した少年の声には嬉しさが滲み出た。
 すぐさま近くに寄りたいが、清御鳥と天敵であるはずの人間が同じ場所に一様に集い、双方の架け橋となる行事を静かに座して待つ大人達を前になかなか動けない。厳かな空気の中、いつもの気儘きままさを優先させるのはさすがに気が引けた。代わりに妹と一緒に手を振り返し、笑顔を向ける。妹も辺りの雰囲気を重く受け止めたのか、いつもより大人しい。

「彼方君、瑠璃ちゃん。こっちだよ」

 子供にとっては身動き一つすらしづらい息苦しさの中、それを解すように手招きする真鶸まひわの声が異様に温かく感じる。すがるようにピタリと身体を寄せて妹を膝に座らせれば、ざわついていた胸は徐々に穏やかさを取り戻していった。

「お父さんとお母さんの晴れ舞台よ。よぉく見ておきなね」

 始まる前から感極まっている真鶸にコクコクと頷けば、隣に来た時雨も小さくカァと鳴く。
 互いの緊張と興奮を和らげるよう団子状にくっつく四羽に、周りにも和やかな空気が漂う。清御鳥と、清御鳥と人間の子と、告鴉。異種の仲睦まじい姿は、これから真に結ばれ、種の垣根を越えて新しい家族の形を確立する祝事の前座のようだった。
 クスクスと朗らかな笑いが洩れる一方で、表情一つ動かさず定位置に着いた真砂の咳払いが木霊し、辺りは水を打ったように静まり返った。離れて座る人間と清御鳥は皆、真剣な面持ちで真砂に視線を注ぎ、和平が結ばれる瞬間を固唾を飲んで待ち望む。沈黙が支配する場。一呼吸した真砂の口から挨拶が告げられる。

 憎しみの渦巻く長い争いに、ついに終止符を打つ。
 清御鳥と人間の共存を祝う幕が、今上がった。
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