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本編 ─羽ばたき─
憧憬
しおりを挟む山を掠めていた陽が中天に差し掛かった頃。自分とよく似た我が子を腕に、銅像のように動かない男の姿が少女の傍らにあった。産まれ落ちたばかりの赤子の小さな寝息を聞きながら、瞳は片時も少女から離れない。
「…………」
出血が止まらなかった。戦闘と大差ない夥しい量の血が細い身体から流れるのを目にした時、この世が崩れるような衝撃と共に歩んで当たり前だと信じていた未来が歪んで暴かれる絶望を覚えた。
「…………っ」
腕の中で身動きされる感触に、ついと意識を向けてみれば、ふにゃふにゃとして今にも壊れてしまいそうな我が子が何かにすがろうと手を彷徨わせているのが目に入る。まだ覚束ない、しかし温もりと愛を渇望する命の光景に胸が抉られる。
「……母が恋しいか……」
分かっている……と、か細く消える声に赤子はもにょもにょと口を動かして応える。
一心同体だったのだ。長い時をかけて少しずつ少女の胎内で形を成した赤子こそ、母の存在がいかに大切か本能として身に染み付いているに違いない。幸いにして一命は取り留めたものの、細い腕から伸びる管の痛々しさと未だ目を開ける様子のない母体はまるで、剥製のよう。
“美しい”などと……、降り注ぐ陽に照らされた白い顔に視線を移ろわせ、なんとも場違いな感情が心に浮かぶ。しかし、真に心揺さぶられる少女の姿とは、決して飾り物になった暁ではなく──。
「…………早く、抱いてやってくれ……」
自分の子供を笑って抱く、そんな美しさを持つ少女を思い描いた男の声が、しんとした室内に落ちた。
「…………お前の子だぞ」
光に伸びる男の背後の影さながらに暗く、鬱に満ちた言葉が赤子の耳に触れる。その醸し出される雰囲気は己には毒だと感じてしまったのか、今まで大人しくしていた赤子が嫌々と訴えるようにぐずり始めた。
「……烏京さん……抱っこ、私がするよ?」
いつの間にか現れた真鶸が遠慮がちに問う。子を抱きながら重く沈む男の様に、彼女の黄色みがかった瞳に憂いが滲んだ。
「目を覚ますまで、ここにいて良いからさ……? お父さんとお母さんがそんなんじゃ、その子だって悲しいだろうし……」
どんよりと振り向いた男に、真鶸は無理やり笑顔を作りながら手を広げる。一体、この小さく弱々しい身体のどこから出てくるのか、耳をつんざく大声で泣きじゃくる赤子を慎重に受け取り、懸命にあやしてみせる。
半ば魂の抜けた表情で真鶸を見ていた男は、眼前から引き剥がすようにその光景から顔を背けた。
子供の扱いには慣れているはずなのに、どうやっても泣き止まない赤子に苦戦する真鶸の声が頭の片隅に響く。息子だって、知らない清御鳥よりも、父よりも、母の方が好きに決まっている。
「ごめんね……お乳ないないの。お母さん、頑張ってるからね」
背後で遠退く真鶸の気配に止まない泣き声。室内は重怠く、母は目を覚まさない。燦々と注ぐ陽光が祝福のようで憎らしい。
「ごめんね、ごめんね……お母さんが良いよね? お父さんと一緒だね君は……」
父親と瓜二つの赤子に苦笑を洩らし、扉に手をかけた真鶸の声音が不思議と少女のものに聞こえてくる。真実ではないと理解しているはずなのに、願いから生まれた幻聴は冷たい現実を忘れてしまいそうなほどの魅力を秘めていて、やつれた精神に酷く甘く、漬け込まれる心地がした。
「あっちでおねんねしようね?」
少女の言葉ではない。少女は目の前にいる。蝋人形のように横たわっている。背後の夢を、信じてはならない。
「お父さんも疲れているから、私で我慢して……ね?」
決して、少女の声ではないと頑なに脳に刻んだはずが、どうしても惑わされそうになる。
違う、違う。少女ではないのに。少女であるはずが。
「……じゃあ、烏京さん……もう行くね?」
真鶸の暇の合図が耳に触れた瞬間、男は目にも止まらぬ早さで振り返った。
「待て……!!」
獰猛な獣のようでありながら焦りと哀しみを湛えた瞳を限界まで見開き、心の痛みを隠そうともしない叫びが真鶸を貫いた。
「えっ、どうし……」
「やめろっ、駄目だ……!」
抗えなかった。
幻聴に毒された心が赤子を抱く清御鳥に必死にすがる。扉の向こうへ、自分の手の届かない所へ消える真鶸が、子供と共に去っていく少女の姿とカチリと嵌まった。
──小毬……!!
噴き出す汗の、何と冷たいことか。
耳鳴りが全ての音を拐っていく。
「逝くな! 小毬っ……!!」
全身の毛を逆立てた獣よろしく、己の理想を繋ぎ止めようと息巻いて迫る。
早く、早く、扉の向こうへ消えてしまう前に……あちらの世へ隠れてしまう前に……。
「ぁ……あか……ちゃん……?」
「あっ……」
不協和音ばかりに支配された頭の中、微かながら耳を打つ柔和な声音に、男の時が止まった。何も受けつけなかった耳に沁みる、鶴の一声。正面の真鶸が笑顔になっていくのを、ただ呆然と目に映す。
「小毬ちゃんっ……!!」
歓喜を溢れさせながら赤子と共に擦れ違う真鶸に、男もつられて背後を見る。逆光で淡く浮かぶ寝台の、ぼんやりと霞んだ二つの人影に目を細め、一歩、また一歩と傀儡のように足を進める。
「抱かせて……」
もう少し、もっと間近で。
「……私の、赤ちゃん……」
長らく夢に見た、愛しい妻が我が子を抱いて綻ぶ姿。
この時の為に自分は生きてきた。この為に、自分の命は在った。
「……烏京さま」
憧憬を映した男の瞳は熱く、発するべき言葉も出てこない。
人より険しい道を往き、泥水よりも穢れた苦汁を舐め、父と母になった二人のこれまでの人生。
全て報われた瞬間だった。
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