烏珠の闇 追想花

晩霞

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本編 ─羽ばたき─

悲哀

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 陽は届かなくとも肌を撫でる夕方の風は暖かく、闇が立ち込める山中でも冷えることはない。若い草木と、蕾がほころんだ淡い香りも心安らぐもののはずなのに、今の少女には何の慰めにもならない。木を背に退路を断たれた少女の前には真っ黒な男が立ちはだかり、闇の間を縫って届くわずかばかりの陽が男の背後から覗いていた。ただでさえ感情が分かりにくい男の顔が逆光によって完全に見えなくなっている。今の男の姿と、湖で出会った時の闇から忍び寄る男の姿が重なり、少女は手をぎゅっと握り締めた。

「どういう意味だ」

 重くのしかかる男からの空気にジリジリと圧され、背後の木にトンとぶつかる 冷たい手で心臓を鷲掴みにされたような感覚に少女は思い出す……男は射殺すような雰囲気で獲物を封じることが出来る、狩りの上手(うわて)。敵うはずもなく、じっと縮こまる。

「なぜ、あんなことを言った」

 真っ黒な巨体に迫られて、生暖かい風が体に纏わりつく。冷たい瞳と暖かい空気の不気味さが少女の恐怖を煽った。

「分からないです……。嫌、嫌だったの……」
「嫌、か」

 暗い風景の中、男が俯いた。しばし沈黙が流れ、草のそよぐ音だけがする。動かなくなった男を前に少女はどうしたら良いのか、男の見えない顔色を少しでも窺おうと一歩前へ踏み出した。

「……ク……」
「……烏京うきょうさま……?」
「ク……クク……ハハハ……」

 微笑みすら滅多に無いのに。声を上げて笑っている男の空気がざわりと揺れる。肩が震え、声が震え、不気味に光る眼が少女を捉えた。

「“嫌”か。そうか、“嫌”か……ハ、ハハハ……」

 自分の言ったことに、どんな間違いがあって男をこんなにしてしまったのか。両手で肩を抱きながら慰めばかりの距離をとる。笑っているが本当にそうなのか、少女には分からない。心の底が全く見えない。

「その感情、いつまでも忘れるな。失くすなよ」

 固まる少女の脇をすり抜けて住み処へと道を登る男の瞳はいつも通り静かな蒼で、流し目に含まれる男の真の感情は闇の中に終わった。

 この日、男は少女を抱かなかった。



 ────────────



「おや、時雨しぐれ

 流れ去る雲をぼんやりと見つめていた真鶸まひわが素頓狂な声を上げた。遠くに見えても一直線に向かってくる鳥影は見紛うことなく告鴉つげがらすのもので、騎乗する人影もよく見知った者だ。急いで知らせる真鶸の声に真砂まさごのみならず他の看護婦たちも反応する。その中で一際素早く顔を上げた女は乱れた髪を梳りながら、誰よりも早く迎えようと走った。目を爛々と輝かせ、一階まで勢いよく駆け下りていく女の顔には笑みが浮かんでいた。

 初めて見た時から好きだった。女性ばかりの閉鎖的な空間に逞しい男の姿が頭から離れず、募る気持ちがだんだんと恋へと昇華していったが、近寄り難い空気の男に怯える仲間達と遠巻きに見るだけしかできなかった。いつか自分の存在を知ってもらいたい。少しでも近づきたい。清御鳥しんみちょうの少女に向ける眼差しを少しでも自分に注いでほしい。それくらい許されるはず。勇気を出して話しかけた時の高揚感は忘れられない。

 外には既に真鶸がいて、慣れた様子で空の告鴉を招いている。一人で駆けてきた女は息を整え、入り口で男の到着を待ち構えた。

「昨日も来たのに、どうしたの?」

 時雨から降りるやいなや、困惑して聞いてくる真鶸に少女は何も言えない。どうして連れ出されたのかなんて一番知りたいのは自分の方だ。いきなり施設へ向かうと言われ、従うまでにしていた少女も意を決して男に疑問を投げかけようと口を開いた。

「烏京さ──」
「烏京さん! 来てくださったのね!」

 少女の声を遮るように女が叫ぶ。
 女は少女の姿も認めつつ、男の元へと走り出した。

「真砂に用がある。通せ」
「そうでしたか! お待ちの間、またお茶を淹れますね!」

 紅潮する女とは反対に、少女の顔色は沈んだ。昨日、男と過ごした女の嬉しそうな声がズキズキと頭に響く。女は男の腕を取り、施設へと誘っていった。

「なんてこと……!」

 少女を差し置き、男に媚びる女に真鶸は唖然とした表情を浮かべる。駆け出して、一気に距離を詰めては問い質そうと息巻いた。

 ──ガッ!

小毬こまりちゃん、離してっ!」
「待って……真鶸さん……」
「どうしてよ!? あれはおかしいわ!」

 バタバタと暴れる真鶸とそれを止める少女から、女はグイグイと男を遠ざけていく。
 しかし、二羽の清御鳥を尻目に建物の中に入った途端、男は女の手から離れた。

「いつまでこうしている。引っ張るな」

 射殺す目つきで見下ろされた女は……なぜか怯まなかった。

(この女……)

「あらやだ! すみません! 私ったら、つい舞い上がっちゃって。さぁ、こちらです」

 似ている。まるで自分を見ているようだ。薄気味悪い目をしている。
 そう思い、歩きだした女をめつける。後ろを振り返り、今だに話をしている少女と真鶸を確認した男は、女の背を追っていった。



「真鶸さん、大丈夫です。私は……」
「良くないわ! あの女……め……!」

 女の名を呪詛のように吐きながら尚も怒る真鶸を抱き締め、少女は小さく首を振るう。

「いいの……いいの……」

 掠れて上手く出ない声で繰り返す。あの二人は話をするだけだからと、何も問題は無いと。
 だけど、悲しくて……悲しくて……。

「小毬ちゃん……」

 肩の力を弛めた真鶸の、気力を削いだ声が落ちる。
 ツキリと、胸が痛んだ。



「今日はゆっくりしていってください」

 応接室に通され、つぐみの声を聞きながら少女は曇った心を無視しようとしていた。女の黒い目は変わらず男に注がれていて、少女に向けることはない。自分は在って無いものだと言われている気がした。

「お菓子もどうぞ!」

 女に勧められた男は仕方なく菓子を手に取り、少女は目を逸らす。
 なるべく平常の顔でいようと取り繕ってはいるものの、果たしてどこまで続けられるか。胸の刺す痛みはいつまで我慢すればいいのか。どうしたら……。

「あ、小毬さんも良かったら……」
「ぁ……どうも……」

 差し出された菓子を一つ、ろくに見もせずに口に入れた。甘く、表面はカリカリとしていて中は羊羮のようにねっとりしているが、そこまで柔らかくはない。不思議な食感に目を瞬かせていると、嬉しそうな女の声が聞こえた。

「宝石みたいで綺麗ですよね」

 卓上には、動物や花の形に抜かれた菓子が灯りを受けてきらきらとしている。確かに美しいが、少女の気持ちは晴れる訳もなく、悶々として男を窺うのみだった。
 そんな少女とは裏腹に、女は更に男に近づく。

「烏京さんは、どんなお料理がお好きなんですか?」
「…………胡餅こもちだ」
「へぇ! モチモチしていて私も好きです!」

 女の手が迫る。不快だと言っていたはずなのに、男はじっとしている。

「烏京さんの落ち着いた雰囲気、とても素敵です。お若いのになんでも出来て……」

 昨日会ったばかりの、まだよく知らない女からの知ったかぶった発言に男の頬がピクリと動く。
 女の手が男の肩に置かれた。拒まれないのを良いことに、女は距離を狭めた。少女など、見ていない。

「良かったら……今度、お食事でも……」

 わざとらしく恥ずかしげに言う女からの誘いに口を開きかけたところで、腕に感じる強い力に男は振り向いた。

「烏京さま……」

 震えて怯え、乞うように歪んだ顔の少女が、自分の腕にすがって泣いていた。
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