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本編 ─羽ばたき─
声
しおりを挟む「…………!」
小さな揺れはだんだん大きくなり、それに怯えて羽ばたいていく小鳥の声が崖にいる少女に届いた。
すぐに収まるだろうと思っていた揺れは少女の予想に反して激しさを増し、家全体を揺さぶった。台所の戸棚がギシギシと軋み、食器や道具はガタガタ震えて落ちそうになる。
一人、家に取り残されている少女はとにかく不安だった。崖もろとも家が崩れやしないか、瓦礫の下敷きになってしまうのではないかと嫌なことばかりが頭を過る。こんな時、男が傍にいてくれればと、その存在が近くにいることを願った。
ギシギシギシ……ガタガタ……
さっきよりも揺れが大きくなり、本格的に少女に襲いかかる。
「烏京さま……」
いよいよ不安と恐怖が最高潮に達した少女は、頼るべき男の名を呼んだ。今までたった一羽で人間から逃げ、魔の手から生き延びてきた少女は男に頼ることにすっかり抵抗を感じなくなってきていた。
「烏京さま、烏京さま……」
少しでも恐怖を和らげようと自身の身体を抱き締める少女は、早く帰って来てくれるのを信じて男を連呼する。まるで、そうしていれば助かるとでも言うように何度も男を求め続けた。
自然災害の恐怖は嫌でも染み付いている。山は安らぎと脅威の二面性を持つ、まるで人間の心。気まぐれ一つで無作為に命を奪えてしまう──少女の父も雷で儚くなってしまった──祈っても避けられない出来事だとしても、何かにすがりつきたかった。
(お父さん……お母さん……)
顔の知らない。だけど愛してくれていた父。優しい笑みでいつでも温かく包んでくれた母……その背中には大きな翼。立派な、白色の……。
少女はハッとして顔を上げた。人の身での生活に慣れてしまった上に告鴉を孵して温める以外の用途を忘れ去っていた自身の翼の存在を思い出した。翼とは本来飛ぶ為に在る。風を読んで空を流離う自由の証。
「空……空へ……!」
譫言のように呟いた少女は鈍った脚を必死に動かして出口へと走った。地響きは大地のみであり、空へ逃げさえすれば関係ない。
「……あ!」
戸に手をかけ、いよいよ外へ脱出しようとした時、二階にある小鳥の置物を思い出した。いつか男が買ってきた可愛らしいそれは、貝殻で出来たつぶらな瞳でいつも少女を見つめていた。何としても手元に残しておきたいと焦りを滲ませながら取りに急ぐ。
しかし、どんなに急いだところで所詮は鳥の脚。長い鉤爪がカチカチ擦れて段差を上手く登れない。それでも一心不乱に階を駆け上がり、縺れて転んでもお構い無しに小鳥の元へと直走る。部屋を開ければ書棚にいる筈の小鳥の姿は見当たらず、床に転がった状態で瞳を少女に向けていた。
「あぁ……っ!」
傷が付いてしまったかもしれない。痛みを感じることのない物でも、今は少女にとっては大切だと思える存在。無視なんて出来る訳がない。
少女は小鳥を胸に抱き、窓辺に寄って外を窺う。依然として揺れは止まらず、たった一羽で残された少女に恐怖を与え続けていた。
窓に脚をかけて身を乗り出せば、細い髪を風が掬う。ザワザワと騒ぐ木々が無数に眼下へと広がって、飛び立とうとする少女を歓迎しているように見えた。
久しい飛行に懐かしさも高揚感もなく、少女は遂に空中へと身を投げ出す。窓のへりを蹴って浮いた身体は肌が粟立ち、風を読まずして伸ばした翼は目一杯に広がり、必死に羽ばたいてみせた。自分の身体でないようで、本来の自分の在るべき姿。
空中に舞い上がった少女はいくらか落ち着きを取り戻し、改めて己の姿を見直した。もう二度と使われることのない……そう思っていた白い翼が、器用に風に乗って動いている。
「…………っ」
少女の目からは当然のように涙が込み上げた。熱い、熱い涙が瞳からせり上がり、淵を越えて頬を伝い落ちていく。感動に震える少女を、胸に抱かれた小鳥だけが見守っていた。
────────────
しばらく喜びの最中にいた少女は小鳥に寄せていた泣き顔を真剣なものに変えた。味わうのはもう御免だと思っていたあの感覚が、遅効性の毒よろしく、じわりじわりと襲ってきた。全身の産毛が逆立ち、髪の毛一本一本にまで神経が通ったような……皮膚が引き攣られるようなピリリ、とした感覚。感極まった喜びの震えは一転、心臓が握り潰された痛みに変わってまともに呼吸が出来なくなった。
急いで逃げ込もうと振り返れば、住み処は遠く遠く……思った以上に離れてしまっていた。
(そんな……!)
落下しないよう翼を動かすのに精一杯な少女は、方向転換さえも出来ず恐れおののいた。さっきまで自分の物だったはずの翼は糸で操られた人形のようにぎこちない。眼球を酷使し、下の景色をゆっくりと見渡した。道の両脇には木々があり、少女の目には何もいないように見えた。その先に繁る深い森の地面には、陽が届いていない。
何もいないと思っていた木陰の闇が、一瞬だけ動いた。一層濃い影が、そろそろと蠢いては増えていき、一、二、三と目に入れば八、九、十と、少女はいつの間にか大勢の人間に取り囲まれていた。
(動かなければ……! 逃げなくては……!!)
キーン……と耳鳴りがして何も聞こえない。早鐘を打つ心臓と、口から出る荒い息に自分の呻き声。そんな声を出しているのさえ分からず、固まってしまった。
そんな少女めがけ幾数もの鎖が飛んでは肌に食い込み、首が引っ張られ、地面に落ちていく。腕に脚に翼に巻き付かれ、叫び声すら上げられずに真っ逆さまに落ちていく。
地面に叩きつけられる直前、鎖が絡まったままの少女の身体は荒い網に浚われ、囚われた。
狩りに成功した人間達が続々と少女の前に姿を現し、捕えた清御鳥の品定めを始めた。金に変われば……これで昇進出来れば……何に加工してやろうか……そんなことを言っているような気がしたが、少女はただ震えるより他はなく、心の中でひたすら助けを求めた。
(烏京さま、烏京さま……助けて……身体、動かないの)
白髪と切れ長の蒼い瞳を思い浮かべれば、乾きかけていた頬に大粒の涙が伝い零れた。
(お願い……助けて……私、何も出来ないの……)
次から次へと涙を流して震える清御鳥の様子には一切構わず、狩人達は素早く下山を開始する。
網と鎖に囚われて人間に囲まれた少女は腕を掻き抱いて身体を縮こまらせた。手の中にいた、唯一の心の拠り所である漆塗りの小鳥も姿を消してしまっている。
(烏京さま……ごめんなさい……)
哀れな清御鳥は、閉ざされて暗くなっていく心の中で、そう呟いた。
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