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篝火の蛍
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差し向かう 心は清き 水鏡
― 土方 歳三 ―
※ ※ ※ ※
嗚呼。
ほら、ね。
矢っ張り。
綺麗、でしたよ。
※ ※ ※ ※
「わぁ……!」
慶応四年。
夕闇が迫る、夏の日。
労咳を患った私は、不本意乍ら戦線を退き、
千駄ヶ谷の植木屋、柴田平五郎さん宅の離れで、養生させて貰っていた。
桜の花は散り去り、庭の葉桜の緑が、目に眩しい。
春は、とうに過ぎ去っていた。
「ふふっ……」
平五郎さんが手入れした庭には、淡い光が飛び交っている。
蛍だ。
「捕まえた……」
光の中の一つを、掌に収めてみた。
指の隙間から、ぽぅ、と灯りが洩れる。
私の心は、翡翠を手に入れたかの様に、高揚していた。
「にゃあ」
翌朝。
不意に、鳴き声がした。
「ん……」
床で目覚めたばかりの私は、障子を開けて、庭をぐるりと見渡す。
何処から敷地に入り込んだものか、真っ黒い猫が、こちらをじっと見ていた。
「黒猫……?」
猫は、庭に落ちていた、小さくて黒いものを、ぱくん、と咥える。
「にゃあ」
「あっ……」
もう一声鳴くと、とと……と、走って行ってしまった。
「平五郎さん、お早よ」
「お早うございます、沖田さん」
「ねぇ、黒い猫を見なかった?」
「猫……? はて、私は、見てませんねぇ」
平五郎さんは、箒を引っ張り出して来て、庭を掃こうとしていた。
「掃除するの?」
「いやぁ、飛んでる間は、良いんですけどねぇ」
苦笑い。目尻に皺が寄る。
気になって、縁側から庭に下りてみる。
見ると、地面のそこかしこに、小さな黒い塊が転がっていた。
「……どうして」
ぴくりともしない。
「……どうして?」
私は、一つの亡骸の前に、しゃがみ込んだ。
※ ※ ※ ※
五年前 (文久三年) 春
― 江戸 天然理心流 試衛館 道場 ―
「土方さんにしては、上出来じゃないですか」
「俺にしては、ってな何だよ!?」
私は、いつもの調子で、年の離れたこの人を揶揄う。
「……総司、歳」
諫める、近藤先生。
春の日の朝、私達は、稽古場で三人、円座になっていた。
私は、土方さんから捥ぎ取った短冊を、高々と掲げる。
「『差し向かう、心は清き、水鏡』。
どう言う意味なの?」
「解らねぇで言ってたのかよ!」
「ねぇ、ねぇ」
私が責っ付くと、彼は渋々、口を開いた。
「ったく……これはな、
『お前等と向かい合って、俺の心は、水鏡の様に澄んでる』
って事を、詠んでんだ」
得意満面。これは、調子に乗ってるな。
「それ、本当に土方さんが考えたの?
他の人が、作ったんじゃないの?」
「……そんなに言うなら、お前が詠んでみろ。総司」
「私には、俳句なんて、詠めませんよ」
「自分に出来ねぇのに、俺のに口出してんのか!」
「二人共、その辺にしとけ」
近藤先生が、呆れて口を挟んだ。
「……いよいよだな、京」
「ああ、いよいよだ」
「清河さんが、上様を守る、浪士を募ってくれた。
身分も、氏素性も関係無い。
浪士組に加われば、百姓の俺が、徳川様の為に、刀を振るう事が出来るんだ」
近藤先生は、先頃、百姓の出である事を理由に、幕府の講武所の指南役になれなかった。
だから、余計に嬉しいんだろう。
「見せてやろうぜ、勝っちゃん。
多摩にも、骨のある奴が居るって事を」
「そうだな、歳」
土方さんは、近藤先生が名前を改めてからも、ずっと「勝っちゃん」って呼んでる。
この人の中では、先生は今でも、親友の「島崎 勝太」の、まんまなんだろうな。
「総司、お前は?」
「私ですか?
私には、難しい事は分からないけど……
近藤先生と、土方さんに、付いて行きますよ!」
「総司……」
「楽しみですね、京!
どんな事が、私達を待ってるんだろう!」
※ ※ ※ ※
慶応四年 夏
― 会津 ―
「土方さん、足は痛みますか?」
「こんなモン、怪我の内に入らねぇよ。島田」
足に包帯を巻いた土方歳三は、巨漢の男に、そう答えた。
辺りでは、同じく、負傷した兵達が、呻き声を上げている。
新選組は、稲荷山に陣を張っていた。
「くそっ!
薩長の奴等、鉄砲だの、大砲だの、ドンパチ撃って来やがって……!
俺が刀で斬り込んでも、埒が明かねぇ」
「落ち着け。焦ったら、あいつ等の思う壺だ」
土方は、逸る島田魁を宥める。
「こんな時、沖田さんが居てくれたら」
「言うな」
土方は、島田を目で制した。
「総司が居なくても、俺達は戦える」
「…………」
然りとて、新選組の中でも、生え抜きの使い手である、一番組長が抜けた事は、痛手に違い無い。
口調とは裏腹に、土方が強がりを言っている事は、明白であった。
「近藤局長だって、あんな事にならなけりゃ……」
「言うな!」
土方は声を荒げ、鋭い目で島田を睨み付けた。
「ひっ……!」
「勝たなきゃいけねぇんだ。俺達は」
※ ※ ※ ※
― 千駄ヶ谷 植木屋 ―
「……皆、どうしてるかな」
春先には、甲州の勝沼で、錦の御旗を掲げた薩長軍との間に、戦が起こった。
あれから、同士達が、押されているとしたら――?
私は、畳の上で一人、北に思いを馳せる。
「ねぇ、近藤先生は?
最近、見えないけど」
庭で、植木の剪定をしている主人に、声を掛ける。
「さぁ、ねぇ……?
お忙しいんじゃないですか?」
「文は? 届いてないの?」
「や、それも、ちょっと……」
「ちぇ……会いたいなぁ」
私は、唇を尖らせた。
「姉上は、庄内に越してったし……。
土方さんも、春に桜を見て以来、来てくれない」
「じゃあ、私はこれで……」
平五郎さんは、そそくさと母屋の方へ消えてしまった。
「旦那様、近藤先生って言ったら、こないだ……」
「しっ!」
平五郎さんと、飯炊きのお婆さんが、廊下でこそこそ話すのが聞こえた。
何だろう……?
※ ※ ※ ※
二ヶ月前 (慶応四年 春)
― 京 三条河原 ―
「あれが、新選組の局長、近藤勇の首なん!?」
「いやぁ、恐ろしいわぁ」
御所の東を、南北に流れる川、鴨川。
その、白い河原に晒される、胴と斬り離された、一つの首。
三条大橋の上から、町人達が、我も我もと、物珍しげに眺めている。
「せやけど、お侍さん言うたら、腹ぁ切るもんちゃうの?」
「知らんのか? あいつ、元は、多摩の百姓の出や、っちゅう話やで」
「せやから、獣を殺す、屠殺場で、首、刎ねられたんやて」
「東戎の田舎もんが、京の町を荒らしよってからに……ええ気味やわ」
「せや! あれ、歌ったろうや、皆!」
一人の男が、手を叩き、音頭を取り出した。
「せぇーの!」
「♪あれは朝敵 近藤勇
誠の御旗じゃ 知らないか
トコトンヤレ トンヤレナ♪」
「あっはっはっは!」
※ ※ ※ ※
同年 夏
― 千駄ヶ谷 植木屋 ―
剣戟の音がする。
狭い屋敷の中で。
ばたばたと倒れる者。
逃げ惑う者。
その中の一人を追って、私は、急な階段を駆け上る。
これは。
池田屋――?
噎せ返る、血の臭い。
ああ、この時も、私は、何人も……。
私の意識は、そこで一旦、途切れた。
私は、馬を走らせている。
あの、春の日。
大津の街道で。
柔和で、博識だった、あの人が。
「沖田君! 私は、ここだ!」
自分から、手を振って。
どうして。
どうして、あの儘、逃げ仰せてくれなかったんですか?
ねぇ?
「私の介錯は、君に頼みたい」
お願いだから。
そんな風に、笑わないで。
「山南さん」
私は、庭の茂みに、身を潜めている。
あの、雨の日。
壬生の屯所の、八木家で。
酒癖の悪い、粗暴な、あの人が。
「俺を、斬りに来たのは……
土方、山南、左之助……
もう一人は?」
落ち窪んだ眼を、血走らせて。
どうして。
どうして、刃を向けられているのに、嬉しそうなんですか?
ねぇ?
「お前か……沖田」
お願いだから。
そんな風に、嗤わないで。
「芹沢さん」
私の手は、返り血で、真っ赤に染まっていた。
「う……?」
瞳を開けると、見慣れた天井があった。
辺りはまだ、仄暗い。
「夢……?」
枕元に置いた、刀を握る。
「……うっ!」
途端に、胸に、焼け付く様な熱が、迫り上がった。
「ごほ、ごほっ!」
咳き込むと、着物に、布団に、血飛沫が跳ぶ。
「あ……」
ひゅうひゅうと、肩で息をする。
ぼんやりとした闇が、私の心を蝕んだ。
「……そろそろ、かな」
部屋の隅には、小さな文机が設えてある。
「俳句なんて……詠んだ事、無いんだけどな」
真白い半紙に向かい、筆を執った。
ちら、と、庭の桜の木に目を遣る。
花はもう、散ってしまっていた。
「おや、珍しい。書き物ですか?」
日が昇ると、庭に、主人が現れた。
自身が手入れした植木に、水を撒いている。
「ちょっとね。
平五郎さんは、いつも忠実だねぇ」
私は、筆を持つ手を止めて、立ち上がり、縁側に腰掛ける。
「花には、水を遣らないと、枯れてしまいますから。
こうして、お天道様の光を、たぁんと浴びて、すくすく育って貰うんですわ」
夏のお日様が、頭上から燦々と照り付ける。
その輝きに、私は、思わず目を細めた。
「……水、が」
「えっ?」
「……水が、欲しい」
「えぇと……喉が渇いたんなら、持って来ましょうか?」
平五郎さんは、おろおろと慌てる。
「……水が、欲しいんだ。私は」
※ ※ ※ ※
― 会津 ―
「土方さん、替わりますよ」
「島田」
「少しは、寝て下さい」
島田は、土方に、夜警の番を申し出る。
空は、雲で覆われて、月も見えない。
辺りは、砲弾で地面が抉れ、惨憺たる有様であった。
「隊士達の様子は?」
「皆、疲れています」
「ちっ……」
土方は、苦々しく舌打ちした。
「桜、すっかり散っちまいましたね……」
島田は、葉ばかりになった桜の木を見上げて、零す。
「いや……散っても、又、花を咲かせるさ」
「……又……来年も……」
「あぁ……この先も、ずっと――」
※ ※ ※ ※
― 千駄ヶ谷 植木屋 ―
その夜。
私は、導かれる様に、庭に下りた。
足下がふらつく。
「あっ……」
縋る様に伸ばした手は、虚しく空を切った。
足が縺れて、庭土に、膝を突く。
その儘、よろよろと這って、太い木の根元に、ぺたん、と腰を下ろした。
「……立派な木」
散った桜の、木の幹を撫でる。
私は、首を擡げて、夜空を見上げた。
「……月、見えないや」
そこには、ただ、闇が広がっていた。
「にゃあ」
漆黒の中に、緑色の双眸が浮かび上がる。
あの黒猫が、じっと、こちらを見ているのだ。
「……何だよ」
喉元に、熱いものが込み上げる。
「……かはっ!」
掌に、赤。
池田屋と。
あの、不貞浪士を斬った日と。
同士を介錯した、あの日と。
同じ、赤。
数多の灯火が、
闇の中に、
ちか、ちか、瞬いて、
嗚呼。
ほら、ね。
矢っ張り。
綺麗、でしたよ。
「にゃあ」
※ ※ ※ ※
― 会津 ―
「あっ、蛍だ」
島田は、草叢で、ふよふよと飛ぶ蛍を捕まえた。
「蛍って、お前……」
土方は、戦の最中に、虫に気を取られる島田を、怪訝な目で見る。
「あれっ? 動かなく、なっちゃった」
島田の大きな手の中で、小さな光は、静かに消えて行く。
「昨夜は、元気に光って、飛んでたのになぁ……」
刹那。
土方の眼裏に、儚い面影が浮かぶ。
『夏には、蛍が、飛ぶでしょう?
きっと――』
哀しそうに笑う、あの顔は。
「……総司」
「えっ? 沖田さんが、どうかしましたか?」
「土方さん!」
「尾関」
旗持ちを務める、尾関雅次郎が、走り込んで来た。
「敵が、もう、そこ迄!」
「…………」
土方は、覚悟を決め、立ち上がる。
「行くぞ、お前等!
怯むな! 新選組の意地を見せてやれ!」
「おぉおおおっ!!」
「掛かれぇっ!」
※ ※ ※ ※
動かねば 闇にへだつや 花と水
― 沖田 総司 ―
― 土方 歳三 ―
※ ※ ※ ※
嗚呼。
ほら、ね。
矢っ張り。
綺麗、でしたよ。
※ ※ ※ ※
「わぁ……!」
慶応四年。
夕闇が迫る、夏の日。
労咳を患った私は、不本意乍ら戦線を退き、
千駄ヶ谷の植木屋、柴田平五郎さん宅の離れで、養生させて貰っていた。
桜の花は散り去り、庭の葉桜の緑が、目に眩しい。
春は、とうに過ぎ去っていた。
「ふふっ……」
平五郎さんが手入れした庭には、淡い光が飛び交っている。
蛍だ。
「捕まえた……」
光の中の一つを、掌に収めてみた。
指の隙間から、ぽぅ、と灯りが洩れる。
私の心は、翡翠を手に入れたかの様に、高揚していた。
「にゃあ」
翌朝。
不意に、鳴き声がした。
「ん……」
床で目覚めたばかりの私は、障子を開けて、庭をぐるりと見渡す。
何処から敷地に入り込んだものか、真っ黒い猫が、こちらをじっと見ていた。
「黒猫……?」
猫は、庭に落ちていた、小さくて黒いものを、ぱくん、と咥える。
「にゃあ」
「あっ……」
もう一声鳴くと、とと……と、走って行ってしまった。
「平五郎さん、お早よ」
「お早うございます、沖田さん」
「ねぇ、黒い猫を見なかった?」
「猫……? はて、私は、見てませんねぇ」
平五郎さんは、箒を引っ張り出して来て、庭を掃こうとしていた。
「掃除するの?」
「いやぁ、飛んでる間は、良いんですけどねぇ」
苦笑い。目尻に皺が寄る。
気になって、縁側から庭に下りてみる。
見ると、地面のそこかしこに、小さな黒い塊が転がっていた。
「……どうして」
ぴくりともしない。
「……どうして?」
私は、一つの亡骸の前に、しゃがみ込んだ。
※ ※ ※ ※
五年前 (文久三年) 春
― 江戸 天然理心流 試衛館 道場 ―
「土方さんにしては、上出来じゃないですか」
「俺にしては、ってな何だよ!?」
私は、いつもの調子で、年の離れたこの人を揶揄う。
「……総司、歳」
諫める、近藤先生。
春の日の朝、私達は、稽古場で三人、円座になっていた。
私は、土方さんから捥ぎ取った短冊を、高々と掲げる。
「『差し向かう、心は清き、水鏡』。
どう言う意味なの?」
「解らねぇで言ってたのかよ!」
「ねぇ、ねぇ」
私が責っ付くと、彼は渋々、口を開いた。
「ったく……これはな、
『お前等と向かい合って、俺の心は、水鏡の様に澄んでる』
って事を、詠んでんだ」
得意満面。これは、調子に乗ってるな。
「それ、本当に土方さんが考えたの?
他の人が、作ったんじゃないの?」
「……そんなに言うなら、お前が詠んでみろ。総司」
「私には、俳句なんて、詠めませんよ」
「自分に出来ねぇのに、俺のに口出してんのか!」
「二人共、その辺にしとけ」
近藤先生が、呆れて口を挟んだ。
「……いよいよだな、京」
「ああ、いよいよだ」
「清河さんが、上様を守る、浪士を募ってくれた。
身分も、氏素性も関係無い。
浪士組に加われば、百姓の俺が、徳川様の為に、刀を振るう事が出来るんだ」
近藤先生は、先頃、百姓の出である事を理由に、幕府の講武所の指南役になれなかった。
だから、余計に嬉しいんだろう。
「見せてやろうぜ、勝っちゃん。
多摩にも、骨のある奴が居るって事を」
「そうだな、歳」
土方さんは、近藤先生が名前を改めてからも、ずっと「勝っちゃん」って呼んでる。
この人の中では、先生は今でも、親友の「島崎 勝太」の、まんまなんだろうな。
「総司、お前は?」
「私ですか?
私には、難しい事は分からないけど……
近藤先生と、土方さんに、付いて行きますよ!」
「総司……」
「楽しみですね、京!
どんな事が、私達を待ってるんだろう!」
※ ※ ※ ※
慶応四年 夏
― 会津 ―
「土方さん、足は痛みますか?」
「こんなモン、怪我の内に入らねぇよ。島田」
足に包帯を巻いた土方歳三は、巨漢の男に、そう答えた。
辺りでは、同じく、負傷した兵達が、呻き声を上げている。
新選組は、稲荷山に陣を張っていた。
「くそっ!
薩長の奴等、鉄砲だの、大砲だの、ドンパチ撃って来やがって……!
俺が刀で斬り込んでも、埒が明かねぇ」
「落ち着け。焦ったら、あいつ等の思う壺だ」
土方は、逸る島田魁を宥める。
「こんな時、沖田さんが居てくれたら」
「言うな」
土方は、島田を目で制した。
「総司が居なくても、俺達は戦える」
「…………」
然りとて、新選組の中でも、生え抜きの使い手である、一番組長が抜けた事は、痛手に違い無い。
口調とは裏腹に、土方が強がりを言っている事は、明白であった。
「近藤局長だって、あんな事にならなけりゃ……」
「言うな!」
土方は声を荒げ、鋭い目で島田を睨み付けた。
「ひっ……!」
「勝たなきゃいけねぇんだ。俺達は」
※ ※ ※ ※
― 千駄ヶ谷 植木屋 ―
「……皆、どうしてるかな」
春先には、甲州の勝沼で、錦の御旗を掲げた薩長軍との間に、戦が起こった。
あれから、同士達が、押されているとしたら――?
私は、畳の上で一人、北に思いを馳せる。
「ねぇ、近藤先生は?
最近、見えないけど」
庭で、植木の剪定をしている主人に、声を掛ける。
「さぁ、ねぇ……?
お忙しいんじゃないですか?」
「文は? 届いてないの?」
「や、それも、ちょっと……」
「ちぇ……会いたいなぁ」
私は、唇を尖らせた。
「姉上は、庄内に越してったし……。
土方さんも、春に桜を見て以来、来てくれない」
「じゃあ、私はこれで……」
平五郎さんは、そそくさと母屋の方へ消えてしまった。
「旦那様、近藤先生って言ったら、こないだ……」
「しっ!」
平五郎さんと、飯炊きのお婆さんが、廊下でこそこそ話すのが聞こえた。
何だろう……?
※ ※ ※ ※
二ヶ月前 (慶応四年 春)
― 京 三条河原 ―
「あれが、新選組の局長、近藤勇の首なん!?」
「いやぁ、恐ろしいわぁ」
御所の東を、南北に流れる川、鴨川。
その、白い河原に晒される、胴と斬り離された、一つの首。
三条大橋の上から、町人達が、我も我もと、物珍しげに眺めている。
「せやけど、お侍さん言うたら、腹ぁ切るもんちゃうの?」
「知らんのか? あいつ、元は、多摩の百姓の出や、っちゅう話やで」
「せやから、獣を殺す、屠殺場で、首、刎ねられたんやて」
「東戎の田舎もんが、京の町を荒らしよってからに……ええ気味やわ」
「せや! あれ、歌ったろうや、皆!」
一人の男が、手を叩き、音頭を取り出した。
「せぇーの!」
「♪あれは朝敵 近藤勇
誠の御旗じゃ 知らないか
トコトンヤレ トンヤレナ♪」
「あっはっはっは!」
※ ※ ※ ※
同年 夏
― 千駄ヶ谷 植木屋 ―
剣戟の音がする。
狭い屋敷の中で。
ばたばたと倒れる者。
逃げ惑う者。
その中の一人を追って、私は、急な階段を駆け上る。
これは。
池田屋――?
噎せ返る、血の臭い。
ああ、この時も、私は、何人も……。
私の意識は、そこで一旦、途切れた。
私は、馬を走らせている。
あの、春の日。
大津の街道で。
柔和で、博識だった、あの人が。
「沖田君! 私は、ここだ!」
自分から、手を振って。
どうして。
どうして、あの儘、逃げ仰せてくれなかったんですか?
ねぇ?
「私の介錯は、君に頼みたい」
お願いだから。
そんな風に、笑わないで。
「山南さん」
私は、庭の茂みに、身を潜めている。
あの、雨の日。
壬生の屯所の、八木家で。
酒癖の悪い、粗暴な、あの人が。
「俺を、斬りに来たのは……
土方、山南、左之助……
もう一人は?」
落ち窪んだ眼を、血走らせて。
どうして。
どうして、刃を向けられているのに、嬉しそうなんですか?
ねぇ?
「お前か……沖田」
お願いだから。
そんな風に、嗤わないで。
「芹沢さん」
私の手は、返り血で、真っ赤に染まっていた。
「う……?」
瞳を開けると、見慣れた天井があった。
辺りはまだ、仄暗い。
「夢……?」
枕元に置いた、刀を握る。
「……うっ!」
途端に、胸に、焼け付く様な熱が、迫り上がった。
「ごほ、ごほっ!」
咳き込むと、着物に、布団に、血飛沫が跳ぶ。
「あ……」
ひゅうひゅうと、肩で息をする。
ぼんやりとした闇が、私の心を蝕んだ。
「……そろそろ、かな」
部屋の隅には、小さな文机が設えてある。
「俳句なんて……詠んだ事、無いんだけどな」
真白い半紙に向かい、筆を執った。
ちら、と、庭の桜の木に目を遣る。
花はもう、散ってしまっていた。
「おや、珍しい。書き物ですか?」
日が昇ると、庭に、主人が現れた。
自身が手入れした植木に、水を撒いている。
「ちょっとね。
平五郎さんは、いつも忠実だねぇ」
私は、筆を持つ手を止めて、立ち上がり、縁側に腰掛ける。
「花には、水を遣らないと、枯れてしまいますから。
こうして、お天道様の光を、たぁんと浴びて、すくすく育って貰うんですわ」
夏のお日様が、頭上から燦々と照り付ける。
その輝きに、私は、思わず目を細めた。
「……水、が」
「えっ?」
「……水が、欲しい」
「えぇと……喉が渇いたんなら、持って来ましょうか?」
平五郎さんは、おろおろと慌てる。
「……水が、欲しいんだ。私は」
※ ※ ※ ※
― 会津 ―
「土方さん、替わりますよ」
「島田」
「少しは、寝て下さい」
島田は、土方に、夜警の番を申し出る。
空は、雲で覆われて、月も見えない。
辺りは、砲弾で地面が抉れ、惨憺たる有様であった。
「隊士達の様子は?」
「皆、疲れています」
「ちっ……」
土方は、苦々しく舌打ちした。
「桜、すっかり散っちまいましたね……」
島田は、葉ばかりになった桜の木を見上げて、零す。
「いや……散っても、又、花を咲かせるさ」
「……又……来年も……」
「あぁ……この先も、ずっと――」
※ ※ ※ ※
― 千駄ヶ谷 植木屋 ―
その夜。
私は、導かれる様に、庭に下りた。
足下がふらつく。
「あっ……」
縋る様に伸ばした手は、虚しく空を切った。
足が縺れて、庭土に、膝を突く。
その儘、よろよろと這って、太い木の根元に、ぺたん、と腰を下ろした。
「……立派な木」
散った桜の、木の幹を撫でる。
私は、首を擡げて、夜空を見上げた。
「……月、見えないや」
そこには、ただ、闇が広がっていた。
「にゃあ」
漆黒の中に、緑色の双眸が浮かび上がる。
あの黒猫が、じっと、こちらを見ているのだ。
「……何だよ」
喉元に、熱いものが込み上げる。
「……かはっ!」
掌に、赤。
池田屋と。
あの、不貞浪士を斬った日と。
同士を介錯した、あの日と。
同じ、赤。
数多の灯火が、
闇の中に、
ちか、ちか、瞬いて、
嗚呼。
ほら、ね。
矢っ張り。
綺麗、でしたよ。
「にゃあ」
※ ※ ※ ※
― 会津 ―
「あっ、蛍だ」
島田は、草叢で、ふよふよと飛ぶ蛍を捕まえた。
「蛍って、お前……」
土方は、戦の最中に、虫に気を取られる島田を、怪訝な目で見る。
「あれっ? 動かなく、なっちゃった」
島田の大きな手の中で、小さな光は、静かに消えて行く。
「昨夜は、元気に光って、飛んでたのになぁ……」
刹那。
土方の眼裏に、儚い面影が浮かぶ。
『夏には、蛍が、飛ぶでしょう?
きっと――』
哀しそうに笑う、あの顔は。
「……総司」
「えっ? 沖田さんが、どうかしましたか?」
「土方さん!」
「尾関」
旗持ちを務める、尾関雅次郎が、走り込んで来た。
「敵が、もう、そこ迄!」
「…………」
土方は、覚悟を決め、立ち上がる。
「行くぞ、お前等!
怯むな! 新選組の意地を見せてやれ!」
「おぉおおおっ!!」
「掛かれぇっ!」
※ ※ ※ ※
動かねば 闇にへだつや 花と水
― 沖田 総司 ―
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横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。

焔の牡丹
水城真以
歴史・時代
「思い出乞ひわずらい」の続きです。先にそちらをお読みになってから閲覧よろしくお願いします。
織田信長の嫡男として、正室・帰蝶の養子となっている奇妙丸。ある日、かねてより伏せていた実母・吉乃が病により世を去ったとの報せが届く。当然嫡男として実母の喪主を務められると思っていた奇妙丸だったが、信長から「喪主は弟の茶筅丸に任せる」との決定を告げられ……。
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
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