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本編
ギイお兄さまの思い出と小さな約束 2◆
しおりを挟む城内に入ると主に父親と兄たちにものすごく歓迎された。父や兄と挨拶するフリードリッヒの凛々しいさは相変わらずだが、いつもとどこか違う感じも覚えて興味深く見ていた。
夜は母親と話をしたり、花嫁の支度室や会場のチェックを一緒にさせてもらった。
イルムヒルデにはよく怒られるが、仲が悪いわけではない。チェックの合間に夫カルーフとの馴れ初めを教えてくれた。父母の馴れ初めの詳しい話を初めて聞いたので興味は尽きなかった。
フリードリッヒは兄たちとチェスに興じたようだった。家人の話だと随分遅くまで楽しげだったということだった。
次の日は朝から、アマーリエは母と一緒に城内の清掃を指示したり、明日の式の料理のことだったりをチェックしていった。花嫁を出迎えたりするため少し慌ただしいが、いよいよ結婚式が迫っているのだなと感じさせた。
フリードリッヒも兄たちと過ごしており、顔を見るのは朝食と晩餐、式前の伝統行事のときだけだった。
あっと言う間に夜になり、入浴したあとネグリジェに着替えたアマーリエは外壁の上へと登った。
敵影を見る物見台でもあるが攻撃の最前線となる外壁上へと足を運んだ。鋸状の壁がぐるりと城を囲み、時折掲げられた篝火が回廊を照らす。でこぼこの壁の幅は厚みが二メートルほどあるが、高いところは風が強いので登って遊ばない様にきつく言い含められていた。今も吹く風は強く、括っていない髪が風になびく。
雨の日以外はわりと兄たち三人と城壁上の通路を駆け回って遊んで、イルムヒルデに叱られた。それを庇ってくれるのは寛厚な父だった。兄たち――特にギュンターは叱られているときでも「皆は悪くありません。とめなかった僕が悪いんです」と下の三人を庇ってくれた。
甘すぎるくらい甘い兄はアマーリエを庇ってくれたし、アマーリエのしたいことに付き合ってくれ、また見守ってくれた。
下の兄二人はともかく、長男のギュンターは絶対に結婚しなければいけないと、自分に言い聞かせるように言っていた。
『跡継ぎだから家全体のことも考えなくてはいけないし、結婚したら家庭を優先しなくてはいけなくなる。愛しい妹であるお前を優先してやれなくなる。だからね、今のうちに思い切り優先して甘やかして愛しておかないと、手が離せなくなってしまうよ』
穏やかに微笑んで言われたのはアマーリエが五歳のときだ。
『結婚しちゃ嫌ぁ~ギイお兄さまぁ~』
ギュンターが離れて行くのが寂しくて泣いて我が侭を言ったものだ。翌年騎士として王都に向かうギュンターのことは泣かずに見送れたが、ギュンターが離れてしまうことがとても寂しかった。
アマーリエ八歳の時のお茶会デビューで泣いて帰ってきた時も、町屋敷で待っていてくれたギュンターはアマーリエを抱きしめて、アマーリエの為に一緒に泣いてくれた。慰めてくれた兄の――兄たちの優しさにアマーリエは救われた。
外見が〝ゴツイ〟と言われるほど逞しい兄だが、心根はとても優しい。
そんな兄がとうとう結婚する。アマーリエの手を離してしまうのだ。
「っ……」
足を止めて立ち尽くす。肩がぶるぶると震えた。こみあげてくる感情を殺しきれない。
アマーリエは口元を抑えて声を殺したが、音もなく涙がこぼれ落ちた。
「……っ……ギイお兄さまぁ……」
ぽろぽろと大粒の涙が流れていくままにしていた。拭っても多分次が出てくるから、涙が落ち着いてから拭かないと目が腫れてしまう。
震えが少し治まるまで、遠くにそびえ立つ西の国境の山であるライアーベルクを見つめていた。鋸壁の狭間から見える麗しきライアーベルクを見て育ってきた。
北の辺境伯家の辺りになると針葉樹がほとんどであるが、ヴェッケンベルグは広葉樹が全体の七割ほどだ。まだ木々が豊かな葉を湛えているが、これからどんどん紅葉が進み美しく彩られるだろう。綺麗に染まったライアーベルクを兄妹そろって眺めるのは秋の恒例行事だ。
狭間を抜ける風に吹かれるまま、嗚咽をかみ殺して立ちつくしていたが、ふと気配を感じた。
「……団長?」
外壁へと登る階段の傍らに人影が見えた。暗がりでも背が高いのがうかがえた。直感的にフリードリッヒだと思った。
「よくわかったな」
「何となく……です」
顔を背けて涙をさっと拭って告げる。フリードリッヒの声が聴けた喜びがすっと引っ込む。
(不細工な顔を見られちゃう)
泣き顔など努めて晒すものではない。泣き顔すら美しいと言われるほど元は良くない。
ハンカチを持ってきておらず、また袖も短いため涙をきちんと拭いきれない。涙をぬぐっていた手を近くまでやってきたフリードリッヒに取られて、アマーリエはフリードリッヒをふり仰ぐ。
「あんまり擦るな。目が悪くなるぞ」
「団長……」
穏やかな声で諭されて目じりに新たな涙が浮かんだ。
「どうした? こんな夜中にこんな場所で……風があるから寒いだろう?」
「いえ……この時期はまだ大丈夫です。あと一月もすれば寒くなって……さらにもう一月すればうんと寒くなって、雪も降り始めるんですけど……」
あとひと月すればライアーベルクが紅く色づき始める。さらに一月経てば頂上にまず雪が降り、山全体が段々白くなっていくとヴェッケンベルグ領にも雪が降ってくる。国土の北側――北の辺境伯領ほど積もらないが、兄たちと雪の球を転がして大きな雪玉を作って遊んだりした。その場には当然ギュンターもいた。
『ほら、大きく作れただろう? 乗ってみるかい?』
騎士団に入団する前だ。いつもよりたくさん雪が降って、ヴェッケンベルグ領の子供たちは大はしゃぎで遊びまわった。ギュンターはアマーリエと同じくらい大きな雪玉を作ってアマーリエを乗せてくれた。目線が高くなってはしゃいで飛び跳ねて足を滑らせて転げ落ちた。でもギュンターが咄嗟に手を伸ばして下敷きになってくれたのでアマーリエは無事だったが、ギュンターは痛かっただろう。それなのに、ギュンターは何ともないよと笑ってくれた。
蘇ってきた思い出に涙があふれ出てきた。
「……っ……すみませ……」
下を向きながら詫びる声が嗚咽に掠れた。肩や喉元まで震えてなかなか言葉が出なかったが、やっとのことで言葉を紡ぐ。
「大丈夫……です……から……」
「アマーリエ」
静かに名を呼ばれたと思ったら、そっと引き寄せられた。
「団長……」
フリードリッヒの胸に抱き寄せられ、逞しい腕に抱擁される。ふわりと、柔らかく壊れやす物を守るようにふんわりと抱きしめられてアマーリエは心の中の何かが緩んだ。
「ぅ……団長……」
室内着に黒地のガウンを羽織っただけの格好だが、伝わってくる体温はとても温かい。
とても安心するような温もりにアマーリエは涙をとめられない。
「寂しいですぅ……団長……」
「ギュンターは君のことをとても大切にしていた」
「……はい。優しいギイお兄さま……大好きで……」
「ああ、ギュンターも君のことがとても好きだよ。好きすぎるくらい好きだよ」
声が涙で掠れてしまって出なくて、無言でこくりと頷いた。子供のような仕草だが、フリードリッヒは宥めるように背中を撫ででくれた。おそらく声も出なくなったアマーリエを気遣って宥めてくれたのだろう。大きな掌の感触が頼もしい。
「君の兄としてふさわしい人間であるようにと、ギュンターは努力していた。今も努力し続けていると思う」
再びこくりと頷いた。兄としてだけではなく、ヴェッケンベルグの次期当主として頑張っていることはアマーリエとて知っている。誰よりも優れた武芸が必要というだけでなく、地図だって読めて地形だって誰より把握していなければいけない。武ばったところだけではなく、一般的な教養とて必要だ。ギュンターは情けないところなんて少しも見せなかった。
(ギイお兄さまはカッコいいもの)
「だから、結婚したからと言ってね、君の手を離す男ではないよ」
「……そう……でしょうか……だって昔……」
つっかえながら昔言われたことを話すと、フリードリッヒは引き締まった美しい口元に微苦笑を浮かべた。
「格好つけただけにしか思えないな」
「でも……家庭と家が優先なのは当たり前ですし……」
「比重は婦人と築く家庭に傾くだろうけど、大切なものを捨てるような男じゃないよ。大事なものをよく理解していて、全てを抱えて大切にできるタイプだから。結構器用なんだ、あいつは。私よりも要領がいい」
「そうなのですか?」
「そうだよ。だから、そんなに寂しがらなくていい」
「……はい」
優しい温かな声音がじんわりとアマーリエの心にしみて、胸の奥に凝ったものを次々に溶かしていく。心の内が静かに軽くなり澄んでいくような不思議な感覚にみまわれた。己の変化に自分自身が驚きを覚えてしまう。せり上がってきた感情が喉元までせり上がってきた。
(団長ありがとうございます……大好きです)
一度止まりかけた涙がこぼれた。
「ありがとうございます、団長」
後半の想いを押し隠して礼を述べる。ちょっとだけ気恥ずかしさもあって、兄にするように頬ずりしてしまってから、失礼にも涙を拭う形になってしまったことに気付いて後悔した。
「思うところは全部言えたか? 全部聞くよ。…………ひとまず、団長として」
「団長……」
「さあ、こっちへおいで」
アマーリエの手を引いて、鋸壁の狭間に腰かけてアマーリエを隣に座らせる。肩を抱き寄せて、括っていないため風に揺れる髪が顔にかかるとそっと流してくれる。フリードリッヒの優しい感触に、温かい体温にアマーリエの体から力が抜ける。
アマーリエはフリードリッヒの肩にもたれたまま、安心したついでにぽろりと口の端から零す。
「……義姉になるヴェローニカさまに不満があるわけじゃないんです」
そう。ヴェローニカはギュンターを心から愛し、大切にしてくれている。さらにはヴェッケンベルグをも愛してくれると感じた。ギュンターと一緒にヴェッケンベルグを守っていってくれる人だ。
かつてギュンターの姿を見たくて巡視路から巡視路への移動のために乗馬を覚えるほど頑張り屋なヴェローニカは、きっと明るくヴェッケンベルグを照らす灯りになってくれる。ギュンターの結婚相手としてはこれ以上ないほどの女性だ。
「ヴェローニカさまはギィお兄さまを幸せにしてくれる……わかってるのに……」
ふるふると肩が震えてしまう。
「寂しいって気持ちが抑えられないんです……」
ぐすりと鼻をすすってフリードリッヒの胸に体を預けたまま「情けないです」と呟く。
「……甘えん坊で……」
「そんなことないよ」
「……ですが……」
フリードリッヒを見あげるとフリードリッヒと目が合った。暗い中で見ても綺麗な色の眼が慈しむように細められた。
「可愛い、アマーリエ」
目を見て涙をぬぐいながら言われて、心臓が甘く鼓動を打った。甘やかな声で囁かれて、頬に朱が差したのを自覚した。
「私にも妹はいるが、そんな可愛いことは言ってくれないだろうね。だから、ギュンターはとても幸せ者だと思う」
「……団長。ありがとうございます」
(どうしよう。恥ずかしいけど嬉しい。団長、嬉しい)
麗しい見目も素敵だと思うけど、アマーリエを気遣ってくれる。そういうところが――
(優しいところが……好き……フリードリッヒさま)
心の中で呟くのも気恥ずかしい。恋心を募らせていると、フリードリッヒは再び抱き直す。
「気持ちが落ち着くまでこうしている。今日の内に気持ちを落ち着けて、明日はギュンターの幸せを祈ってやってほしい」
「……はい」
温かくて気持ちいいフリードリッヒの体温に包まれる。フリードリッヒの言う通り、明日はギュンターの結婚式だ。
(ギイお兄さまにお祝いを言わなきゃ……幸せになってって……大好きって……)
気持ちが落ち着くにつれ、意識がぼんやりとしてくる。
(ああ、気持ちいい。ギイお兄さまにだっこされてよく……)
ギュンターとの他愛ない思い出を思い返しながら、アマーリエの意識は静かに微睡の中に沈んでいった。
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