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一章

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 さて、それでは契約は出来ないのかというと、そうでもない。僕のような辺境の地に暮らす者の識字率が低いのは至極当たり前のことであるし、加えて奴隷には学の無い者がなりやすい。なので、どちらかといえば従者自らは名前を書かない、書けないというのが一般的なのである。

 どういう訳かそのことを失念していたらしい目の前の男は正に苦虫を噛み潰したような不機嫌そうな表情で僕の顔を見下ろしていた。しかしいつまでもそうしている訳にもいかないので、男は深く重い溜息を吐いてから羊皮紙の、僕の名前を書くであろうその欄を指でトントンと指示した。

「文字が書けねぇ場合、ここに拇印つってな、指を判子代わりにするんだが……」

 言いながら男は蓋が開いたままのインク壺を手にして、黒いインクで満たされたそれを僅かに傾け、壺の縁をこちらに向けた。よく見ればその縁は鋭く、蓋の開閉時に誤って指を傷つけてしまいそうである。

「インクの代わりに指なんかをちょっと切って、その血で判を捺すんだよ」

 なるほど、不機嫌そうな理由はそこであったか。小汚い子どもを拾って傷の手当てをし、食事と寝床を与え、尚且つ奴隷の解放まで甲斐甲斐しく面倒を見ようとしているので薄々と感じてはいたが、この男、顔に似合わず極度のお人好しのようだ。そこまで大きな傷や大量の血液が必要になる訳ではないというのに、契約のためだけに小さな傷がつくことすら酷く厭っているらしい。

 そこでふと、腕や足に巻かれた包帯のことを思い出す。裸足で森の中を走り回ったときに出来た様々な傷。小石で足の裏を切ったもの、転んで擦りむいたもの、茂みの枝に引っ掛けて裂けたもの──全て軽傷ではあったのだろうが、今はサンダルがあり室内ということがあってか痛みも感じずに広い家屋の中を問題なく歩き回ることができている。

 つまり、血判の為に小さな傷をつけたとて、或いは多少の深手を負ったとしてもこれらと同じような処置を受ければ、すぐに治ってしまうだろうと考えたのだ。

 僕は腕の傷の一つを包帯の上から軽く撫で、軟膏の滑る感触を覚えながら男に一つ、問題ないという意味を込めて微笑みを向けた。男は難しい顔をしていたが、一つ息を吐くと、わかった、と短く呟いてからインク壺を引っ込め、腰を少しだけ浮かせてポケットから小振りのナイフを取り出した。

(流石に瓶の縁は使わないか……)

 当然と言えば当然のことに少々呆気に取られながらも、男がこちらに向けて手を差し伸べてくるので応えるように手を出す。太い指が僕の指を掴み、人差し指に小さなナイフの刃が当てられる。危ないから動くな、痛くても我慢しろ、と穏やかな声で囁いてから、撫でるような手つきで鋭いナイフが僕の人差し指の先をほんの僅かだけ裂いた。

 小さな小さな筋が、じわりと赤く染まる。少量ずつ溢れてくる血液を親指に塗りつけ、男の示す空欄にぐいと押し付けた。羊皮紙から指を離すと、少しばかり掠れてはいるが僕の指紋がしっかりと捺されている。

 男が羊皮紙に向かって何やら唱えると──おそらくは従属の契約に必要な宣誓か呪文──僕の拇印と男の名前がぼんやりと光り始めた。そして今気付いたが、羊皮紙の中央、長い文章の書かれたその下にはうっすらと魔法陣が描かれていて、淡い光を放っている。魔法陣の光が署名欄と同じくらいになった時、男はそっと手を魔法陣に乗せた。

 するとその光が、触れた指先から男の体に伝わり、男が光に包まれる。優しいオレンジ色の光が男の全身を覆うと、男は一度光る自分の手をまじまじと見つめてから、僕に光る手を差し出してきたので、その手に僕の手を重ねた。触れた先から光が伝わって、僕の身体にもじわじわと光が侵食していく。当然だが痛みなどはなく、日差しのような色の光ながら別段暖かいということもなかった。

 男の手に触れた指先から、反対の手までを光が覆うのを見届けてから、この後どうすれば、という意味を込めて男を見上げる。

「契約書の魔法陣に手を。 もう少しで終わる」

 この光を主人と纏い、一周させることが従属の契約になるのだろう、小さく頷いてから言われるまま僕は魔法陣の中にそっと手を置いた。その瞬間、バシュッ!という音を立てて二人と一枚から光は消えてしまった。
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