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一章
1−1
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夜の森。冷えた地面は力なく横たわる僕の体温を容赦なく奪っていった。
獣の遠吠えが遠くに聞こえる。そう遅くない未来、あの獣たちはここで動けなくなっているこの小さな子どもの血肉を喰らいにくるのだろうか。栄養が行き届かず枯れ枝のように痩せ細った手足、肉の詰まっていない薄い腹──獣一匹満足させられそうにない体躯を。
首に巻かれた重く冷たい首輪はきつく締まり、呼吸も絶え絶えになる。裸足で森を走り回った所為か、足が痛いし、とても疲れていた。指ひとつ動かせず、瞬きすらも億劫なほど、僕は弱っていた。
───とても、眠い。
がさり、と傍の茂みが音を立てる。風の音ではない、何者かが足を踏み入れた音。ああ、獣の一匹が僕を見つけたのだろう。ぼんやりと霞む目では歩み寄る姿もはっきりと認識できない。朦朧とした意識の中、塞がりかける瞼の隙間から、それを見た。
それは、赤い目をした大きな闇の塊に見えた。
◇ ◇ ◇ ◇
それからどれくらい経ったのだろう。気が付くと、知らない部屋にいた。高い天井に吊り下げられた、簡素で古めかしくはあるが立派なシャンデリアが広い部屋を隅々と照らしていた。ふかふかのマット、白いシーツ、羽のように軽い毛布。どうやら僕は大きなベッドに寝かされているらしい。視線を向けた先には大きな窓があった。時刻はきっと夜なのだろう、窓の外は暗く、星が瞬くのが見えた。
───夜なのに、部屋に灯りが?
ふと疑問が頭を過ぎったところで、窓に映り込んだ部屋の扉が開いたのが見えた。ゆっくりと視線を逆方向にやれば、大きな木の扉から入ってきた男の姿があった。
薄くフリルのついた真っ白なシャツ、黒のスラックス、歩く度にコツコツと小気味好い音を立てる革靴と、とてもシンプルな出で立ちだった。
「気がついたか」
男は体躯を屈めて、呆けている僕の顔を覗き込んできた。短い黒髪が額を隠し、前髪の下には吊り上がった太い眉と、猛禽を思わせる鋭い目元と目力の強いアンバーの瞳。眉間には深く皺が刻まれた強面ではあるが、紡がれた重低音の声は至って穏やかで、僕という厄介な荷物を拾い上げたにしてはそれに憤慨している様子ではなかった。
「声は出せるか?」
太い指が僕の喉元──鎖のついた首輪の側面をトントンと軽く叩いた。僕は声を出そうと試みたが、重い首輪は喉を押し潰し、ヒュウと風のような掠れた吐息が漏れるだけだった。
男はそれを予見していたのだろう、苛立ちもせず納得したように頷くと、毛布の中に手を突っ込み、僕の手を持ち上げた。彼の手に収まる僕の手のなんと小さいことだろう。
「動かせるか、指先だけでいい」
言われるままに指に力を込める。枯れ枝のような細い指は男の大きな掌の上で僅かに浮いて、すぐに力が抜けてパタリと落ちた。男は満足したのか、労うように僕の指を撫でた。
「今から聞くことに答えてくれ。肯定なら瞬きを2回、否定なら指を動かせ。……わかったか?」
きょとん、と男の顔を見つめてから、はっとして瞬きをする。いい子だ、と男は頭を撫でてくれた。大きな掌は、とても温かかった。
「まず……お前は奴隷か?」
少し考えて、僕は瞬きを繰り返した。この首輪は人攫いに着けられたもので、僕は奴らの目を盗んで逃げてきたのだ。奴隷商に引き渡される道中、僕を含め何人か同様に首輪をつけられた人たちが押し込まれた馬車の中を、こっそりと抜け出した。手近な森に逃げ込んで、しばらく進んだところで突然息が苦しくなり、その場で倒れ──そしてここに居る。
続けて男は、主人は居るのか、と聞いてきた。ゆっくりと指を持ち上げ、否定で返す。どうやら男はこの返答も想定通りらしく、だろうな、と低く呟いた。
「詳しいことは後にするが……首輪を外したいなら瞬きを、この先奴隷として生きるなら指を動かせ」
僕は今でこそ逃亡奴隷だが、それは人攫いに遭ったからで、元は平凡な農民だった。慎ましやかな生活だったが、奴隷としての生活を望む筈が無い。僕は迷うことなく二度、瞬きを繰り返した。男はもう一度僕の頭を撫でると、これが最後の質問だ、と囁いた。
「腹は減ってるか?」
その質問には瞬きよりも先に、僕の腹の虫が盛大に返事をした。
獣の遠吠えが遠くに聞こえる。そう遅くない未来、あの獣たちはここで動けなくなっているこの小さな子どもの血肉を喰らいにくるのだろうか。栄養が行き届かず枯れ枝のように痩せ細った手足、肉の詰まっていない薄い腹──獣一匹満足させられそうにない体躯を。
首に巻かれた重く冷たい首輪はきつく締まり、呼吸も絶え絶えになる。裸足で森を走り回った所為か、足が痛いし、とても疲れていた。指ひとつ動かせず、瞬きすらも億劫なほど、僕は弱っていた。
───とても、眠い。
がさり、と傍の茂みが音を立てる。風の音ではない、何者かが足を踏み入れた音。ああ、獣の一匹が僕を見つけたのだろう。ぼんやりと霞む目では歩み寄る姿もはっきりと認識できない。朦朧とした意識の中、塞がりかける瞼の隙間から、それを見た。
それは、赤い目をした大きな闇の塊に見えた。
◇ ◇ ◇ ◇
それからどれくらい経ったのだろう。気が付くと、知らない部屋にいた。高い天井に吊り下げられた、簡素で古めかしくはあるが立派なシャンデリアが広い部屋を隅々と照らしていた。ふかふかのマット、白いシーツ、羽のように軽い毛布。どうやら僕は大きなベッドに寝かされているらしい。視線を向けた先には大きな窓があった。時刻はきっと夜なのだろう、窓の外は暗く、星が瞬くのが見えた。
───夜なのに、部屋に灯りが?
ふと疑問が頭を過ぎったところで、窓に映り込んだ部屋の扉が開いたのが見えた。ゆっくりと視線を逆方向にやれば、大きな木の扉から入ってきた男の姿があった。
薄くフリルのついた真っ白なシャツ、黒のスラックス、歩く度にコツコツと小気味好い音を立てる革靴と、とてもシンプルな出で立ちだった。
「気がついたか」
男は体躯を屈めて、呆けている僕の顔を覗き込んできた。短い黒髪が額を隠し、前髪の下には吊り上がった太い眉と、猛禽を思わせる鋭い目元と目力の強いアンバーの瞳。眉間には深く皺が刻まれた強面ではあるが、紡がれた重低音の声は至って穏やかで、僕という厄介な荷物を拾い上げたにしてはそれに憤慨している様子ではなかった。
「声は出せるか?」
太い指が僕の喉元──鎖のついた首輪の側面をトントンと軽く叩いた。僕は声を出そうと試みたが、重い首輪は喉を押し潰し、ヒュウと風のような掠れた吐息が漏れるだけだった。
男はそれを予見していたのだろう、苛立ちもせず納得したように頷くと、毛布の中に手を突っ込み、僕の手を持ち上げた。彼の手に収まる僕の手のなんと小さいことだろう。
「動かせるか、指先だけでいい」
言われるままに指に力を込める。枯れ枝のような細い指は男の大きな掌の上で僅かに浮いて、すぐに力が抜けてパタリと落ちた。男は満足したのか、労うように僕の指を撫でた。
「今から聞くことに答えてくれ。肯定なら瞬きを2回、否定なら指を動かせ。……わかったか?」
きょとん、と男の顔を見つめてから、はっとして瞬きをする。いい子だ、と男は頭を撫でてくれた。大きな掌は、とても温かかった。
「まず……お前は奴隷か?」
少し考えて、僕は瞬きを繰り返した。この首輪は人攫いに着けられたもので、僕は奴らの目を盗んで逃げてきたのだ。奴隷商に引き渡される道中、僕を含め何人か同様に首輪をつけられた人たちが押し込まれた馬車の中を、こっそりと抜け出した。手近な森に逃げ込んで、しばらく進んだところで突然息が苦しくなり、その場で倒れ──そしてここに居る。
続けて男は、主人は居るのか、と聞いてきた。ゆっくりと指を持ち上げ、否定で返す。どうやら男はこの返答も想定通りらしく、だろうな、と低く呟いた。
「詳しいことは後にするが……首輪を外したいなら瞬きを、この先奴隷として生きるなら指を動かせ」
僕は今でこそ逃亡奴隷だが、それは人攫いに遭ったからで、元は平凡な農民だった。慎ましやかな生活だったが、奴隷としての生活を望む筈が無い。僕は迷うことなく二度、瞬きを繰り返した。男はもう一度僕の頭を撫でると、これが最後の質問だ、と囁いた。
「腹は減ってるか?」
その質問には瞬きよりも先に、僕の腹の虫が盛大に返事をした。
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