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イギリスとロシアが李氏朝鮮を巡って俄かに緊張しだし、その反動でイギリスの幕府に対する態度が好転した。
その事を知ったフランスは慌てて薩長をけしかけ、アメリカ合衆国も盛んに武器弾薬を持ち込んでくる。
こうしてある程度の戦備が整ったとして1870年6月、第二次薩長蜂起が勃発した。
アメリカ合衆国は幕府に圧力を加えようと動くが、南部連合の動きを見てそれどころではなくなる。
薩長をけしかけたフランスも介入や大規模援助をしようにも、プロイセンとの対立はとうとう抜き差しならなくなり、フランス側からプロイセンへ宣戦を布告するに至り、薩長の事など考えている余裕は無くなった。
勢い戦端を開いた薩摩であったが、先の蜂起の際も熊本城を落とせず撤退しており、今度はそこに万国薩摩を配しての戦場である。薩摩兵同士の戦いは当初は久米筒や絡繰筒による弾幕によって万国勢が圧倒し、熊本城へ押し寄せた攘夷勢を田原坂まで追い返していく。
この田原坂では攘夷勢指揮官大久保利通の撤退命令を無視して抜刀突撃を敢行する部隊が多数存在し、それを見た万国側指揮官西郷隆盛は「出番でごわんど」の一声で主力が銃を捨て抜刀、他藩兵たちが唖然と見守る中で薩摩による斬り合いが勃発。
大久保は突出した捨てがまりを放置して撤退を選び、結局、抜刀兵に拘束された万国勢は大久保達本隊を取り逃がすことになってしまった。
後に映画化された「田原坂抜刀隊」という映画では、西郷隆盛が敢えて大久保を逃がしたように描かれているが、実際のところは意図して逃がしたというよりも、捨てがまりが生じた時点で追えないと判断して抜刀突撃を決断したと言われている。
その後は日向からも幕府軍が進撃し、こちらは構わず絡繰筒で薩兵をなぎ倒しながら進軍していた。
この絡繰筒と言うのはアメリカ合衆国でリチャード・ジョーダン・ガトリングがガトリング砲を考案するより前、久米通賢によって考案されていた同じような機構を持った火器であった。細かな内部機構にこそ違いはあるが、外見的な特徴も運用思想も全く同じものであり、南北戦争において北軍のガトリング砲に対し、南軍は絡繰筒で対抗している。
後に南部連合で起業した銃器メーカーは幕府からの武器購入で命脈を繋いだことに由来して社名をタイクーンとし、軍用機関銃として長らくカラクリと名付けたモノを供給しているが、これが何を隠そう絡繰筒を改良して弾薬を新型化し、駆動を人力からモーター駆動に変更したものだった。その発射速度は毎分1000発を超え、当時の機関銃では到底敵わず、故障や不発にも強い構造もあって南軍では長らく愛用されることとなった。
アメリカにおいて日本人移民が多い州が南部に偏っているのも、南部連合であった時代に関係が深かった事と無関係ではなく、石油を求めた日本人が探鉱のために訪れ、コメを求めて湿潤なミシシッピ川周辺を開拓して大水田を構築し、日本から持ち込んだジャポニカ米を今でも生産している。
こうした事もあってタイクーン社はクメやゲンナイと言ったネーミングの銃を販売し、一定の人気を得ている。
そんな南部連合が第一次世界大戦で敗北、合衆国に吸収された後も北部の反日姿勢を意に介さず日本人移民を受け入れ続けてくれたからこそ、今の日米関係があると言える。
閑話休題
対薩摩に関しては万国薩摩が肥後から、他の諸藩連合が日向から薩摩へと迫っていた。対して長州と対峙した中国、四国を中心とする軍勢は、動力船による機動力を生かして高松藩兵が下関を奇襲、海峡一帯を奪って二正面作戦を強いたことで薩摩の様な抵抗も出来ず、三カ月ほどであっけなく降伏する事となっている。
攘夷薩摩はその後も半年近くも抗戦し、各所で薩摩同士の斬り合いを演じる姿が見られることとなった。時には万国側に降った薩兵がそのまま攘夷兵に斬りかかりながら説得するという、よく分からない状況まで起きていたという。
1871年2月、とうとう鹿児島に追い詰められた攘夷勢であったが、久光や大久保は降伏を拒否して22日の総攻撃で討ち死に。壮絶な薩摩討伐はその後に多くの映画やドラマに描かれることとなった。
そうした後世への影響とは裏腹に、討伐が終ると斉彬の帰郷で薩摩は瞬く間に平静を取り戻し、それまでの攘夷がウソのように開国に賛同し、積極的に政府にも参画していく事になった。
それに対して長州はながらく反政府的な騒動が絶えず、今でも一部地域は「反日勢力の巣窟」などと揶揄されるような状態で、士官として軍に入った者の中には、天皇こそ崇拝すべきで軍が政府に従う必要はないと言って暴走したいわゆる皇軍事件を引き起こす者まで生まれている。
1871年3月、薩長に加担した他地域の平定も終えた幕府は、それまでの幕藩体制を大きく改変して近代制度へと移行する事を発表、まずは藩から独自の政治権限の大半を幕府へと移管し、地域運営の権限のみを認めることとした。これには独立採算制の破棄も含まれてり、財政の厳しかった多くの藩はこの方針を喜んで受け入れ、膨大な借金を抱えた幕府は頭を抱えることになったのは有名である。
その後、細かく細分化されていた藩は律令国程度の大きさへと統廃合が進み、最終的に1878年にアメリカ連合やドイツ帝国を参考に、外交権を持たない地方政府としての藩を明確化した大日本連邦憲法を制定した事で今の政治体制が完成した。
その事を知ったフランスは慌てて薩長をけしかけ、アメリカ合衆国も盛んに武器弾薬を持ち込んでくる。
こうしてある程度の戦備が整ったとして1870年6月、第二次薩長蜂起が勃発した。
アメリカ合衆国は幕府に圧力を加えようと動くが、南部連合の動きを見てそれどころではなくなる。
薩長をけしかけたフランスも介入や大規模援助をしようにも、プロイセンとの対立はとうとう抜き差しならなくなり、フランス側からプロイセンへ宣戦を布告するに至り、薩長の事など考えている余裕は無くなった。
勢い戦端を開いた薩摩であったが、先の蜂起の際も熊本城を落とせず撤退しており、今度はそこに万国薩摩を配しての戦場である。薩摩兵同士の戦いは当初は久米筒や絡繰筒による弾幕によって万国勢が圧倒し、熊本城へ押し寄せた攘夷勢を田原坂まで追い返していく。
この田原坂では攘夷勢指揮官大久保利通の撤退命令を無視して抜刀突撃を敢行する部隊が多数存在し、それを見た万国側指揮官西郷隆盛は「出番でごわんど」の一声で主力が銃を捨て抜刀、他藩兵たちが唖然と見守る中で薩摩による斬り合いが勃発。
大久保は突出した捨てがまりを放置して撤退を選び、結局、抜刀兵に拘束された万国勢は大久保達本隊を取り逃がすことになってしまった。
後に映画化された「田原坂抜刀隊」という映画では、西郷隆盛が敢えて大久保を逃がしたように描かれているが、実際のところは意図して逃がしたというよりも、捨てがまりが生じた時点で追えないと判断して抜刀突撃を決断したと言われている。
その後は日向からも幕府軍が進撃し、こちらは構わず絡繰筒で薩兵をなぎ倒しながら進軍していた。
この絡繰筒と言うのはアメリカ合衆国でリチャード・ジョーダン・ガトリングがガトリング砲を考案するより前、久米通賢によって考案されていた同じような機構を持った火器であった。細かな内部機構にこそ違いはあるが、外見的な特徴も運用思想も全く同じものであり、南北戦争において北軍のガトリング砲に対し、南軍は絡繰筒で対抗している。
後に南部連合で起業した銃器メーカーは幕府からの武器購入で命脈を繋いだことに由来して社名をタイクーンとし、軍用機関銃として長らくカラクリと名付けたモノを供給しているが、これが何を隠そう絡繰筒を改良して弾薬を新型化し、駆動を人力からモーター駆動に変更したものだった。その発射速度は毎分1000発を超え、当時の機関銃では到底敵わず、故障や不発にも強い構造もあって南軍では長らく愛用されることとなった。
アメリカにおいて日本人移民が多い州が南部に偏っているのも、南部連合であった時代に関係が深かった事と無関係ではなく、石油を求めた日本人が探鉱のために訪れ、コメを求めて湿潤なミシシッピ川周辺を開拓して大水田を構築し、日本から持ち込んだジャポニカ米を今でも生産している。
こうした事もあってタイクーン社はクメやゲンナイと言ったネーミングの銃を販売し、一定の人気を得ている。
そんな南部連合が第一次世界大戦で敗北、合衆国に吸収された後も北部の反日姿勢を意に介さず日本人移民を受け入れ続けてくれたからこそ、今の日米関係があると言える。
閑話休題
対薩摩に関しては万国薩摩が肥後から、他の諸藩連合が日向から薩摩へと迫っていた。対して長州と対峙した中国、四国を中心とする軍勢は、動力船による機動力を生かして高松藩兵が下関を奇襲、海峡一帯を奪って二正面作戦を強いたことで薩摩の様な抵抗も出来ず、三カ月ほどであっけなく降伏する事となっている。
攘夷薩摩はその後も半年近くも抗戦し、各所で薩摩同士の斬り合いを演じる姿が見られることとなった。時には万国側に降った薩兵がそのまま攘夷兵に斬りかかりながら説得するという、よく分からない状況まで起きていたという。
1871年2月、とうとう鹿児島に追い詰められた攘夷勢であったが、久光や大久保は降伏を拒否して22日の総攻撃で討ち死に。壮絶な薩摩討伐はその後に多くの映画やドラマに描かれることとなった。
そうした後世への影響とは裏腹に、討伐が終ると斉彬の帰郷で薩摩は瞬く間に平静を取り戻し、それまでの攘夷がウソのように開国に賛同し、積極的に政府にも参画していく事になった。
それに対して長州はながらく反政府的な騒動が絶えず、今でも一部地域は「反日勢力の巣窟」などと揶揄されるような状態で、士官として軍に入った者の中には、天皇こそ崇拝すべきで軍が政府に従う必要はないと言って暴走したいわゆる皇軍事件を引き起こす者まで生まれている。
1871年3月、薩長に加担した他地域の平定も終えた幕府は、それまでの幕藩体制を大きく改変して近代制度へと移行する事を発表、まずは藩から独自の政治権限の大半を幕府へと移管し、地域運営の権限のみを認めることとした。これには独立採算制の破棄も含まれてり、財政の厳しかった多くの藩はこの方針を喜んで受け入れ、膨大な借金を抱えた幕府は頭を抱えることになったのは有名である。
その後、細かく細分化されていた藩は律令国程度の大きさへと統廃合が進み、最終的に1878年にアメリカ連合やドイツ帝国を参考に、外交権を持たない地方政府としての藩を明確化した大日本連邦憲法を制定した事で今の政治体制が完成した。
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