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1867年はパリ万博騒動という外国での問題こそ大きかったが、国内では南北戦争の終結によってようやく幕府軍や幕府側諸藩の軍備強化が本格化していた。
そんな中、実際に欧州に渡る機会を得た徳川慶喜にはそれまでと違う考えが生まれ、対立していた斉昭と和解する事になる。もちろん、すでに徳川宗家を相続して将軍となる事は確実だったが、彼は今まさに統一へと動くプロイセンを見て、日本のあるべき未来について斉昭の考え方に共感していたらしい。
そんな慶喜は将軍就任と共に、幕政改革を断行するお触れを出し、人事一新を図ることにした。
一番の目玉は何と言っても小栗忠順を新たに設ける首相の座に据えた事だろう。
首相はこれまでの幕政体制で言えば老中首座ないし、大老に当たる。
更に諸侯議会を設け、島津斉彬や松平春嶽などがそこに名を連ねる事となった。
この諸侯議会は阿部正弘がはじめた雄藩合議制から一新され、100の雄藩、譜代、外様から成る列藩議会とされ、旗本や小藩は議会ではなく、幕府が新たに設ける省庁、それまでの奉行などの役所を担う事になる。
こうした幕政改革によって近代的な国家体制が曲がりなりにも姿を現し、新たな日本のはじまりとなる。
こうした動きに対して薩摩はようやく内紛を収める事に成功し、本格的に倒幕を目指す動きを見せるが、支援を行うフランスはその動きを制止する。
当時、フランスが薩摩に輸出や供与した武器は旧式であり、万博で見た久米筒や関口大筒に対抗するには不安が残るものであり、南北戦争においてプロイセンでも弾薬量産が始まった事を非常に警戒していた。
しかしこの頃、薩摩には新たな朗報が訪れ、アメリカ合衆国が武器供与を申し出てきたのである。
その中には最新鋭の装甲艦まで存在し、倒幕を思い留まる理由がなくなった。
1868年1月、薩長は京を追放されていた公卿と図り、錦の御旗を掲げて行動を開始した。
後に第一次薩長蜂起と呼ばれるこの行動は九州では効果絶大であり、南九州を席巻する事に成功した。
長州も安芸へと攻め入り、見事広島まで奪取する快進撃を見せたが、そこまでだった。
幕府側は十分な準備が整わない中での蜂起とあって後手に回り、3ヶ月近く各地の支援を個別に行うだけで防戦一方となっていた。
ここで活躍したのが、瀬戸内の塩生産を担い、蒸気船や動力船の運用に長けた讃岐高松藩だった。
一時は全国の8割近い塩を生産し、西日本でもかなり裕福な藩でもあった事から、幕府の支援を受けずとも自ら久米筒や彼の後進達が開発した絡繰筒を有し、小規模ながら有力な軍事力を手にしていた。
この機動戦力と筑豊炭田からの航路上に位置する友好藩が協力して薩長への反撃を開始すると戦局は幕府側優勢へとひっくり返る。
1868年10月、薩長の劣勢を知ったフランスは幕府に対してロシアと共に圧力をかけ、即時の停戦を要求して来た。
幕府への警戒心を抱いていたイギリスは積極的に動かず、自分の事に忙しいプロイセンは宛に出来ない。そのため、泣く泣く停戦を受け入れ、安芸や石見、肥後や日向の大半を薩長に奪われた状態で停戦する事となった。
この時点で万国薩摩勢はまだ江戸で錬成が終わっていない状態だった。
もちろん、これで全てが解決するはずも無く、薩長が錦の御旗を掲げた事は大問題となった。
孝明天皇は事態を知ると激怒し、その後の日本の方向性すら決める皇室神化の勅を発布。これは皇室はあくまで神との対話の為に存在しており、今後の政治に対して口出しはしないという内容であった。
孝明天皇がその様な勅を出したのは、禁門の乱頃から斉昭の進言を受けてそれまでの認識を大きく変えていたからだった。
この勅によって皇室は日本の大神となり、公卿は祭祀を執り行う役職へと大きく変貌していく。
後に京に集中していてはあまりに手狭という事で伊勢ヘ下向し、伊勢神宮を取り仕切る伊勢宮家が建てられ、秩父宮家は秩父へ下向するなど、皇族は全国へと下向し、公卿も祭祀の為に道々した事で今の日本の姿が形作られる事となった。
閑話休題
さて、この勅を薩長はどう聞いたか。
もちろん大反発である。そもそも尊皇思想の大家であった水戸家がその考えを棄て、訳の分からない世迷い言を天皇に吹き込んだ姿勢を特に糾弾。斉昭、慶喜は彼らにとって朝敵であった。
皇室神化の勅を聞くやいなや、攘夷公卿らと組んで水戸家非難を声高に叫び、とりあえずフランスの圧力で停戦合意に署名こそしたものの、止まるつもりは毛頭なかった。
それでも情勢不利な事は明白であり、フランスやアメリカ合衆国と組んで倒幕へ新たな動きを始める。
その薩摩の動きを察知した小栗は、すぐさまフランスとの戦争が現実味を帯びるプロイセンと話を進め、南部連合に対しても合衆国との対峙を求めて走り回った。
南部連合は幕府とプロイセンによって命脈を繋いだ国であり、小栗の要請を無下にはできなかった。
そして1869年、幕府にとって決定的な事件が起こる。
ロシアは何度も李氏朝鮮に対して開国要求を繰り返していた。もはや対馬が盗れない。樺太など攻めるリスクが高過ぎる。そんな中で見つけた対馬対岸の李氏朝鮮を開国させ、出来れば海峡に面した港湾割譲を考えていたが、6月にとうとう巨済島を占領下において李氏朝鮮へ割譲を迫る事件を起こし、更には釜山へ軍艦を並べて租借まで迫っていた。
この状況にイギリスが動き、漢城を急襲し、強引に和親条約を締結させロシアと対峙する。
こうなっては日本は危険な新興国などと突き放してはいられない。イギリス寄りの友好国として遇してロシアの力を削ぐ道を取る他ない。
そんな中、実際に欧州に渡る機会を得た徳川慶喜にはそれまでと違う考えが生まれ、対立していた斉昭と和解する事になる。もちろん、すでに徳川宗家を相続して将軍となる事は確実だったが、彼は今まさに統一へと動くプロイセンを見て、日本のあるべき未来について斉昭の考え方に共感していたらしい。
そんな慶喜は将軍就任と共に、幕政改革を断行するお触れを出し、人事一新を図ることにした。
一番の目玉は何と言っても小栗忠順を新たに設ける首相の座に据えた事だろう。
首相はこれまでの幕政体制で言えば老中首座ないし、大老に当たる。
更に諸侯議会を設け、島津斉彬や松平春嶽などがそこに名を連ねる事となった。
この諸侯議会は阿部正弘がはじめた雄藩合議制から一新され、100の雄藩、譜代、外様から成る列藩議会とされ、旗本や小藩は議会ではなく、幕府が新たに設ける省庁、それまでの奉行などの役所を担う事になる。
こうした幕政改革によって近代的な国家体制が曲がりなりにも姿を現し、新たな日本のはじまりとなる。
こうした動きに対して薩摩はようやく内紛を収める事に成功し、本格的に倒幕を目指す動きを見せるが、支援を行うフランスはその動きを制止する。
当時、フランスが薩摩に輸出や供与した武器は旧式であり、万博で見た久米筒や関口大筒に対抗するには不安が残るものであり、南北戦争においてプロイセンでも弾薬量産が始まった事を非常に警戒していた。
しかしこの頃、薩摩には新たな朗報が訪れ、アメリカ合衆国が武器供与を申し出てきたのである。
その中には最新鋭の装甲艦まで存在し、倒幕を思い留まる理由がなくなった。
1868年1月、薩長は京を追放されていた公卿と図り、錦の御旗を掲げて行動を開始した。
後に第一次薩長蜂起と呼ばれるこの行動は九州では効果絶大であり、南九州を席巻する事に成功した。
長州も安芸へと攻め入り、見事広島まで奪取する快進撃を見せたが、そこまでだった。
幕府側は十分な準備が整わない中での蜂起とあって後手に回り、3ヶ月近く各地の支援を個別に行うだけで防戦一方となっていた。
ここで活躍したのが、瀬戸内の塩生産を担い、蒸気船や動力船の運用に長けた讃岐高松藩だった。
一時は全国の8割近い塩を生産し、西日本でもかなり裕福な藩でもあった事から、幕府の支援を受けずとも自ら久米筒や彼の後進達が開発した絡繰筒を有し、小規模ながら有力な軍事力を手にしていた。
この機動戦力と筑豊炭田からの航路上に位置する友好藩が協力して薩長への反撃を開始すると戦局は幕府側優勢へとひっくり返る。
1868年10月、薩長の劣勢を知ったフランスは幕府に対してロシアと共に圧力をかけ、即時の停戦を要求して来た。
幕府への警戒心を抱いていたイギリスは積極的に動かず、自分の事に忙しいプロイセンは宛に出来ない。そのため、泣く泣く停戦を受け入れ、安芸や石見、肥後や日向の大半を薩長に奪われた状態で停戦する事となった。
この時点で万国薩摩勢はまだ江戸で錬成が終わっていない状態だった。
もちろん、これで全てが解決するはずも無く、薩長が錦の御旗を掲げた事は大問題となった。
孝明天皇は事態を知ると激怒し、その後の日本の方向性すら決める皇室神化の勅を発布。これは皇室はあくまで神との対話の為に存在しており、今後の政治に対して口出しはしないという内容であった。
孝明天皇がその様な勅を出したのは、禁門の乱頃から斉昭の進言を受けてそれまでの認識を大きく変えていたからだった。
この勅によって皇室は日本の大神となり、公卿は祭祀を執り行う役職へと大きく変貌していく。
後に京に集中していてはあまりに手狭という事で伊勢ヘ下向し、伊勢神宮を取り仕切る伊勢宮家が建てられ、秩父宮家は秩父へ下向するなど、皇族は全国へと下向し、公卿も祭祀の為に道々した事で今の日本の姿が形作られる事となった。
閑話休題
さて、この勅を薩長はどう聞いたか。
もちろん大反発である。そもそも尊皇思想の大家であった水戸家がその考えを棄て、訳の分からない世迷い言を天皇に吹き込んだ姿勢を特に糾弾。斉昭、慶喜は彼らにとって朝敵であった。
皇室神化の勅を聞くやいなや、攘夷公卿らと組んで水戸家非難を声高に叫び、とりあえずフランスの圧力で停戦合意に署名こそしたものの、止まるつもりは毛頭なかった。
それでも情勢不利な事は明白であり、フランスやアメリカ合衆国と組んで倒幕へ新たな動きを始める。
その薩摩の動きを察知した小栗は、すぐさまフランスとの戦争が現実味を帯びるプロイセンと話を進め、南部連合に対しても合衆国との対峙を求めて走り回った。
南部連合は幕府とプロイセンによって命脈を繋いだ国であり、小栗の要請を無下にはできなかった。
そして1869年、幕府にとって決定的な事件が起こる。
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この状況にイギリスが動き、漢城を急襲し、強引に和親条約を締結させロシアと対峙する。
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