12 / 18
12・
しおりを挟む
内戦とならずに事を収めた長州征伐であったが、下関襲撃によって合意された領土割譲を幕府に否定され、賠償金すら得る手立てを無くしたロシアは、長州征伐が平和裏に終結するとすぐさま長州へと交渉団を派遣した。
徹底抗戦を叫ぶ者たちを鎮圧した長州藩庁は、ロシア交渉団を拒否や攻撃する事なく迎え入れて席に着いたのだが、交渉団の口から飛び出した話に飛び上がる事となる。
交渉団曰く、交渉を引き取った幕府が事もあろうに全てを拒否して長州藩へと丸投げしたというのである。
交渉団の言が確かなら、先の降伏内容は反故にされており、ロシアとしては長州と再戦ないしは再交渉が必要だとし、再度彦島の割譲や多額の賠償金を提示し、藩内で意見集約してくれと迫る。帰り際、「幕府は宛にならん、どうせ全てを拒否するだろう」と添え、この件が幕府に伝わることを避けている。
この行動はフランスと結託して行われており、長州が混乱している最中へと、今度はフランス交渉団がやって来てロシア交渉団と同じ様な話を突き付ける。
ただし、ロシアほど強硬な姿勢は見せず、下関租借は取り下げるし、賠償金の金額如何では、ロシアとの交渉も介入して長州に有益な条件を整えると言い添える事を忘れなかった。
もちろん、「もはや幕府は宛にならん」と吐き捨てて帰ったのは当然である。
こうして再び国難を抱えた長州は幕府への怨嗟を強め、口先で長州の重臣を処断させた態度を憎むようになる。
この頃には多くの有能な人士を攘夷失敗や内乱により失っていた長州では、ロシアやフランスの来訪で冷静に状況分析する者が居なくなり、極端な反幕府路線へと急旋回していく事になった。
その原因は三カ国艦隊の襲来や幕府による長州征伐だけではなく、もっと根本的な尊皇攘夷思想にもあった。
この頃の長州では、もはや幕府への忠義は消え失せ、忠義を示すべき対象は天皇であるという考えが席巻する状況だったが、これは何も長州に限った話ではない。
そもそも、禁門の乱に際して長州排除を孝明天皇が命じたとする話を信じておらず、幕府側に脅されていたというのが長州での認識となっていた。
そうなった理由は徳川斉昭にある。
斉昭は1860年、小栗との会談後、その主張を攘夷から大攘夷へと大きく変えた。
大攘夷とは、簡単に言えば殖産興業による富国強兵路線であり、とりも直さす異国との通商を認めるものとなっていた。
斉昭は柔軟な思考の持ち主で、攘夷を訴えながらもその実行に必要な技術は異国からも採り入れる事を否定しておらず、洋式船建造を行い、洋式兵法をも採り入れていた。
そんな斉昭は小栗との会談により、自らが攘夷に抱いていた違和感が何かを突き止め、その解決方法にたどり着く事となった、
水戸藩、かの水戸光圀公が編纂を指揮した大日本史は有名であり、もちろん斉昭も触れている。
大日本史編纂に際して様々な文献が水戸藩に積み上げられており、その史料を紐解けば、家康が海外交易を行い、家臣に異人が存在した事も記されていた。
こうした事が斉昭に対して攘夷への違和感を持たせる事に繋がっていた訳だが、小栗との会談でこの違和感と史料が繫がり、富国強兵という考えへと傾倒させる事となる。
ここまでであれば多くの大名や武士、学者なども到達しているのだが、斉昭は更に踏み込んだ考えを持つようになる。
そう、天皇神化論である。
斉昭がまず注目したのは、昨今広まる尊皇運動と禁中並公家諸法度の在り方であった。
尊皇ならばどうして神君家康公は禁裏を縛る様な法度を定めたのか?
そこには明確な史料は存在せず、大凡推測と想像で補うしかなかった。
困り果てた斉昭は欧州の歴史も探り、参考になるものは無いか調べている。
そこである事実に気付く。
欧州諸侯も戦国日本の様に各々が領地を巡る争いを行っているが、キリスト教についてはローマに座す教皇を崇めているではないかと。
確かにいくつかの宗派に分かれて全てが全てではなかったが、現在(1860年代)に至っても教皇打倒や排除などの姿勢を示す者は居ない。
日本に視点を移して考えると、源氏や平氏が実権を握る様になった鎌倉以降、特に徳川の世においては、皇室に実権などなく、勅許問題の様にワザワザ朝廷に判断を委ねる行為が幕府を揺るがしている様に、それこそ神君家康公の「祖法」に背く行為であると思い至る。
それらを論理的に組み上げた斉昭は、先ずは側にいる島津斉彬の説得を試み賛同を得ると、諸大名や旗本に対してもその考えを説いて回る様になった。
多くの者ははじめは驚くが、「通商による殖産興業こそ『祖法』である」との考えを受け入れ、法度や歴史から、天皇は神にして崇め奉る存在であると同時に、常世の雑事に御心を煩わせてはならないという考えにも頷く者が増えていく。
斉昭からこの話を聞かされた小栗は、政策としてその考えを実現させる事を約している。
もちろん、これは幕府ありきの考え方であり、将軍家茂上洛に際しても、朝廷に対し同じような説法を行い、次第に孝明天皇もその考えに賛同するようになっていた。孝明天皇自身、戦国期の京に南蛮寺が置かれた事など知らなかったのだから。しかし、反幕府の姿勢を鮮明にしだした長州には受け入れられず、逆に激高して幕府こそ朝敵と叫ぶ始末であった。
もう一国、完全に藩内分裂の事態が進行していた薩摩においても、斉彬の支持する天皇神化論など久光にとっては論外であり、事あるごとに批判している。
ただ、暗殺を恐れて京から帯同している大久保利通など僅かな手勢以外と親しく接しようとしない久光の態度は、いくら否定しても斉彬暗殺未遂の主犯が自分だと言っているようなモノなのだから、有能な藩士が離反するのも仕方がない。更に反幕府の姿勢を鮮明にしだすと藩主である息子を家茂の偏諱である茂の字を改めさせ、武勇名高い祖先の名前である豊久へと変えさせる。この事で九州諸藩は薩摩に九州制覇の野望アリと警戒感を持たれ、孤立の道へと突き落とすことになってしまった。
そんな久光にもフランスは近付き、長州と組んではどうかと囁いた。
孤立化しつつあった久光も渡りに船と話に乗って薩長は手を結ぶ道へと踏み出していった。
徹底抗戦を叫ぶ者たちを鎮圧した長州藩庁は、ロシア交渉団を拒否や攻撃する事なく迎え入れて席に着いたのだが、交渉団の口から飛び出した話に飛び上がる事となる。
交渉団曰く、交渉を引き取った幕府が事もあろうに全てを拒否して長州藩へと丸投げしたというのである。
交渉団の言が確かなら、先の降伏内容は反故にされており、ロシアとしては長州と再戦ないしは再交渉が必要だとし、再度彦島の割譲や多額の賠償金を提示し、藩内で意見集約してくれと迫る。帰り際、「幕府は宛にならん、どうせ全てを拒否するだろう」と添え、この件が幕府に伝わることを避けている。
この行動はフランスと結託して行われており、長州が混乱している最中へと、今度はフランス交渉団がやって来てロシア交渉団と同じ様な話を突き付ける。
ただし、ロシアほど強硬な姿勢は見せず、下関租借は取り下げるし、賠償金の金額如何では、ロシアとの交渉も介入して長州に有益な条件を整えると言い添える事を忘れなかった。
もちろん、「もはや幕府は宛にならん」と吐き捨てて帰ったのは当然である。
こうして再び国難を抱えた長州は幕府への怨嗟を強め、口先で長州の重臣を処断させた態度を憎むようになる。
この頃には多くの有能な人士を攘夷失敗や内乱により失っていた長州では、ロシアやフランスの来訪で冷静に状況分析する者が居なくなり、極端な反幕府路線へと急旋回していく事になった。
その原因は三カ国艦隊の襲来や幕府による長州征伐だけではなく、もっと根本的な尊皇攘夷思想にもあった。
この頃の長州では、もはや幕府への忠義は消え失せ、忠義を示すべき対象は天皇であるという考えが席巻する状況だったが、これは何も長州に限った話ではない。
そもそも、禁門の乱に際して長州排除を孝明天皇が命じたとする話を信じておらず、幕府側に脅されていたというのが長州での認識となっていた。
そうなった理由は徳川斉昭にある。
斉昭は1860年、小栗との会談後、その主張を攘夷から大攘夷へと大きく変えた。
大攘夷とは、簡単に言えば殖産興業による富国強兵路線であり、とりも直さす異国との通商を認めるものとなっていた。
斉昭は柔軟な思考の持ち主で、攘夷を訴えながらもその実行に必要な技術は異国からも採り入れる事を否定しておらず、洋式船建造を行い、洋式兵法をも採り入れていた。
そんな斉昭は小栗との会談により、自らが攘夷に抱いていた違和感が何かを突き止め、その解決方法にたどり着く事となった、
水戸藩、かの水戸光圀公が編纂を指揮した大日本史は有名であり、もちろん斉昭も触れている。
大日本史編纂に際して様々な文献が水戸藩に積み上げられており、その史料を紐解けば、家康が海外交易を行い、家臣に異人が存在した事も記されていた。
こうした事が斉昭に対して攘夷への違和感を持たせる事に繋がっていた訳だが、小栗との会談でこの違和感と史料が繫がり、富国強兵という考えへと傾倒させる事となる。
ここまでであれば多くの大名や武士、学者なども到達しているのだが、斉昭は更に踏み込んだ考えを持つようになる。
そう、天皇神化論である。
斉昭がまず注目したのは、昨今広まる尊皇運動と禁中並公家諸法度の在り方であった。
尊皇ならばどうして神君家康公は禁裏を縛る様な法度を定めたのか?
そこには明確な史料は存在せず、大凡推測と想像で補うしかなかった。
困り果てた斉昭は欧州の歴史も探り、参考になるものは無いか調べている。
そこである事実に気付く。
欧州諸侯も戦国日本の様に各々が領地を巡る争いを行っているが、キリスト教についてはローマに座す教皇を崇めているではないかと。
確かにいくつかの宗派に分かれて全てが全てではなかったが、現在(1860年代)に至っても教皇打倒や排除などの姿勢を示す者は居ない。
日本に視点を移して考えると、源氏や平氏が実権を握る様になった鎌倉以降、特に徳川の世においては、皇室に実権などなく、勅許問題の様にワザワザ朝廷に判断を委ねる行為が幕府を揺るがしている様に、それこそ神君家康公の「祖法」に背く行為であると思い至る。
それらを論理的に組み上げた斉昭は、先ずは側にいる島津斉彬の説得を試み賛同を得ると、諸大名や旗本に対してもその考えを説いて回る様になった。
多くの者ははじめは驚くが、「通商による殖産興業こそ『祖法』である」との考えを受け入れ、法度や歴史から、天皇は神にして崇め奉る存在であると同時に、常世の雑事に御心を煩わせてはならないという考えにも頷く者が増えていく。
斉昭からこの話を聞かされた小栗は、政策としてその考えを実現させる事を約している。
もちろん、これは幕府ありきの考え方であり、将軍家茂上洛に際しても、朝廷に対し同じような説法を行い、次第に孝明天皇もその考えに賛同するようになっていた。孝明天皇自身、戦国期の京に南蛮寺が置かれた事など知らなかったのだから。しかし、反幕府の姿勢を鮮明にしだした長州には受け入れられず、逆に激高して幕府こそ朝敵と叫ぶ始末であった。
もう一国、完全に藩内分裂の事態が進行していた薩摩においても、斉彬の支持する天皇神化論など久光にとっては論外であり、事あるごとに批判している。
ただ、暗殺を恐れて京から帯同している大久保利通など僅かな手勢以外と親しく接しようとしない久光の態度は、いくら否定しても斉彬暗殺未遂の主犯が自分だと言っているようなモノなのだから、有能な藩士が離反するのも仕方がない。更に反幕府の姿勢を鮮明にしだすと藩主である息子を家茂の偏諱である茂の字を改めさせ、武勇名高い祖先の名前である豊久へと変えさせる。この事で九州諸藩は薩摩に九州制覇の野望アリと警戒感を持たれ、孤立の道へと突き落とすことになってしまった。
そんな久光にもフランスは近付き、長州と組んではどうかと囁いた。
孤立化しつつあった久光も渡りに船と話に乗って薩長は手を結ぶ道へと踏み出していった。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【新訳】帝国の海~大日本帝国海軍よ、世界に平和をもたらせ!第一部
山本 双六
歴史・時代
たくさんの人が亡くなった太平洋戦争。では、もし日本が勝てば原爆が落とされず、何万人の人が助かったかもしれないそう思い執筆しました。(一部史実と異なることがあるためご了承ください)初投稿ということで俊也さんの『re:太平洋戦争・大東亜の旭日となれ』を参考にさせて頂きました。
これからどうかよろしくお願い致します!
ちなみに、作品の表紙は、AIで生成しております。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

【架空戦記】蒲生の忠
糸冬
歴史・時代
天正十年六月二日、本能寺にて織田信長、死す――。
明智光秀は、腹心の明智秀満の進言を受けて決起当初の腹案を変更し、ごく少勢による奇襲により信長の命を狙う策を敢行する。
その結果、本能寺の信長、そして妙覚寺の織田信忠は、抵抗の暇もなく首級を挙げられる。
両名の首級を四条河原にさらした光秀は、織田政権の崩壊を満天下に明らかとし、畿内にて急速に地歩を固めていく。
一方、近江国日野の所領にいた蒲生賦秀(のちの氏郷)は、信長の悲報を知るや、亡き信長の家族を伊勢国松ヶ島城の織田信雄の元に送り届けるべく安土城に迎えに走る。
だが、瀬田の唐橋を無傷で確保した明智秀満の軍勢が安土城に急速に迫ったため、女子供を連れての逃避行は不可能となる。
かくなる上は、戦うより他に道はなし。
信長の遺した安土城を舞台に、若き闘将・蒲生賦秀の活躍が始まる。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる