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生麦事件は攘夷を志す者たちに希望を与えることになった。
そして藩として攘夷に動いたのが長州藩である。といっても、いきなり藩兵を押し出して列強の船や居留地へと雪崩れ込んだりはしていない。
と言っても、血気盛んな者たちはそれを望み、横浜居留地襲撃を進言していた。が、それが受け入れられず、建設中のイギリス公使館焼き討ちならばと再度進言し、それが入れられると文久2年12月、西暦ではすでに1863年1月、日本初の洋館として建設中であったイギリス公使館の焼き討ちが決行された。
事前の調査では大した警備もされていなかった建設現場であったが、襲撃当日には俄かに警備が強化されており、襲撃隊は幕兵との交戦となり、高杉晋作と寺島忠三郎、赤禰武人の三人は逃走に成功したが、他の者たちは捕縛されるか討ち取られてしまう。捕縛された伊藤俊輔や松島剛蔵は死罪を覚悟したが、取り調べで火付けの事実を否認し続けたために押し入りの罪で裁かれることとなり、百叩きの上江戸処払いという処分が下されている。
生きて江戸を出るという時、伊藤はなぜ自分が死罪にならなかったのかを問うたが、答えは明快だった。「お前は死罪になるような罪を吐いていない」である。
欧米列強の公使館建設現場を襲撃したのだから、死罪以外に無いと思われたが、あくまで国内問題であり、イギリスの意向ではなく幕府の法度に則った処罰が下されたと説明され、しばらくその場で立ち尽くしたという。
伊藤も、島津久光や襲撃に参加した高杉、久坂などと同様に条約などただのお題目、その様なモノが実効性をもつ訳が無いと考えていた。しかし、自身に下されたのは、条約通りに国内問題としての処罰であった。
この事から長州藩で盛んになっている攘夷運動に疑念を持ち、帰国後にそれを高杉に説いたのだが相手にされず、幕府の密偵と疑われる様になると脱藩して江戸へと舞い戻り、樺太義兵団の門を叩くこととなる。
伊藤が去った長州は本格的に攘夷に乗り出し、関門海峡を通る異国船への砲撃を行う事を決定した。すでに準備を整えていた長州藩は6月にまずはアメリカ商船を砲撃し、攘夷実行に沸いた。
さらにフランス軍艦にも砲撃を加え、交渉のために上陸しようとした水兵にも銃撃を加えて殺害した事で更に勢いを増すことになる。
さらに数日後には立て続けにオランダ軍艦にも砲撃を加えるが、この船には水先案内人として幕府役人も乗り組んでおり、本来なら砲撃対象外とすべき船であった。
この事態にアメリカとフランスは即座に報復措置に出る。
そもそも長州藩の行為は国際法に反するうえ、修好条約とは無縁の行為であったことから幕府は関わろうとすらしなかった。
何なら水先案内人が被害者となっているので幕府もアメリカやフランスの側であったほどだ。
こうしてたまたま横浜に居たアメリカ軍艦が即座に下関へと向かい、長州藩の砲の射程外から長州軍艦へと砲撃、2隻を撃沈して1隻を大破させる。
少し遅れてフランス軍艦も報復にやって来て砲台を破壊、さらに陸戦隊を上陸させて砲の破壊と街に破壊を行い、長州藩の援軍に更なる損害を与えながら悠々と帰還を果たしている。
そうした完全敗北がありながらも長州藩は態度を改めることなく更なる攘夷に向けて軍備増強に力を入れていくことになる。
この時士分以上の農民、町人によって結成されたのが奇兵隊である。
幕府は長州藩に外国船攻撃を止める様に通告し、旗本率いる軍艦を派遣して交渉に当たるが、奇兵隊によって失った長州軍艦の補填として接収され、交渉に訪れていた旗本を殺害してしまう。
これに呼応するように京では島津久光や攘夷派公卿らが孝明天皇を唆して大和行幸を断行し、それに呼応して大和国の攘夷志士が挙兵。京や大和国は一時騒乱状態となるが、京都守護職にあった会津藩と斉彬の名代として京へやって来た西郷隆盛ら万国派勢力が孝明天皇に迫り、攘夷派公卿の失脚、長州藩の京からの排除を断行し、大和国も周辺諸勢力の手によって殲滅が行われ、事態は沈静化した。
こうして孤立化していた攘夷派であったが、翌年夏に長州藩は「藩主の冤罪を帝に訴える」事を口実に京へと進軍、これに呼応して攘夷を唱える薩摩の久光派も「前藩主の乱心によって危機にある国父を救い出す」として長州藩と共同で進軍する事態となった。
こうして京へ向かう長州、薩摩の軍勢を前に、攘夷に同情的な勢力や戦乱の世を危ぶ者たちが長州薩摩にの軍勢に対して融和的な意見を述べているが、尊王攘夷の重鎮であるはずの徳川斉昭は長州や薩摩攘夷派を厳しく非難し、多くの藩がそれに同調、禁裏御守衛の任に就いた徳川慶喜は父の意向と孝明天皇からの排除命令によって御所近傍に迫っていた長州薩摩連合軍の排除を断行、斉彬派である西郷ら万国薩摩陣営も援軍に駆け付けた事で長州薩摩連合軍は敗退、一部薩摩兵別動隊が久光救援を果たしたのち屋敷に火をかけ逃走した事から京の街は二日近く燃え続けることとなってしまった。
禁裏前での戦闘によって長州藩は朝敵として孝明天皇から名指しされ、同じく京を燃やした久光ら攘夷薩摩勢力に対しても討伐の勅が下されることとなり、薩摩の分裂は決定的となった。
そして藩として攘夷に動いたのが長州藩である。といっても、いきなり藩兵を押し出して列強の船や居留地へと雪崩れ込んだりはしていない。
と言っても、血気盛んな者たちはそれを望み、横浜居留地襲撃を進言していた。が、それが受け入れられず、建設中のイギリス公使館焼き討ちならばと再度進言し、それが入れられると文久2年12月、西暦ではすでに1863年1月、日本初の洋館として建設中であったイギリス公使館の焼き討ちが決行された。
事前の調査では大した警備もされていなかった建設現場であったが、襲撃当日には俄かに警備が強化されており、襲撃隊は幕兵との交戦となり、高杉晋作と寺島忠三郎、赤禰武人の三人は逃走に成功したが、他の者たちは捕縛されるか討ち取られてしまう。捕縛された伊藤俊輔や松島剛蔵は死罪を覚悟したが、取り調べで火付けの事実を否認し続けたために押し入りの罪で裁かれることとなり、百叩きの上江戸処払いという処分が下されている。
生きて江戸を出るという時、伊藤はなぜ自分が死罪にならなかったのかを問うたが、答えは明快だった。「お前は死罪になるような罪を吐いていない」である。
欧米列強の公使館建設現場を襲撃したのだから、死罪以外に無いと思われたが、あくまで国内問題であり、イギリスの意向ではなく幕府の法度に則った処罰が下されたと説明され、しばらくその場で立ち尽くしたという。
伊藤も、島津久光や襲撃に参加した高杉、久坂などと同様に条約などただのお題目、その様なモノが実効性をもつ訳が無いと考えていた。しかし、自身に下されたのは、条約通りに国内問題としての処罰であった。
この事から長州藩で盛んになっている攘夷運動に疑念を持ち、帰国後にそれを高杉に説いたのだが相手にされず、幕府の密偵と疑われる様になると脱藩して江戸へと舞い戻り、樺太義兵団の門を叩くこととなる。
伊藤が去った長州は本格的に攘夷に乗り出し、関門海峡を通る異国船への砲撃を行う事を決定した。すでに準備を整えていた長州藩は6月にまずはアメリカ商船を砲撃し、攘夷実行に沸いた。
さらにフランス軍艦にも砲撃を加え、交渉のために上陸しようとした水兵にも銃撃を加えて殺害した事で更に勢いを増すことになる。
さらに数日後には立て続けにオランダ軍艦にも砲撃を加えるが、この船には水先案内人として幕府役人も乗り組んでおり、本来なら砲撃対象外とすべき船であった。
この事態にアメリカとフランスは即座に報復措置に出る。
そもそも長州藩の行為は国際法に反するうえ、修好条約とは無縁の行為であったことから幕府は関わろうとすらしなかった。
何なら水先案内人が被害者となっているので幕府もアメリカやフランスの側であったほどだ。
こうしてたまたま横浜に居たアメリカ軍艦が即座に下関へと向かい、長州藩の砲の射程外から長州軍艦へと砲撃、2隻を撃沈して1隻を大破させる。
少し遅れてフランス軍艦も報復にやって来て砲台を破壊、さらに陸戦隊を上陸させて砲の破壊と街に破壊を行い、長州藩の援軍に更なる損害を与えながら悠々と帰還を果たしている。
そうした完全敗北がありながらも長州藩は態度を改めることなく更なる攘夷に向けて軍備増強に力を入れていくことになる。
この時士分以上の農民、町人によって結成されたのが奇兵隊である。
幕府は長州藩に外国船攻撃を止める様に通告し、旗本率いる軍艦を派遣して交渉に当たるが、奇兵隊によって失った長州軍艦の補填として接収され、交渉に訪れていた旗本を殺害してしまう。
これに呼応するように京では島津久光や攘夷派公卿らが孝明天皇を唆して大和行幸を断行し、それに呼応して大和国の攘夷志士が挙兵。京や大和国は一時騒乱状態となるが、京都守護職にあった会津藩と斉彬の名代として京へやって来た西郷隆盛ら万国派勢力が孝明天皇に迫り、攘夷派公卿の失脚、長州藩の京からの排除を断行し、大和国も周辺諸勢力の手によって殲滅が行われ、事態は沈静化した。
こうして孤立化していた攘夷派であったが、翌年夏に長州藩は「藩主の冤罪を帝に訴える」事を口実に京へと進軍、これに呼応して攘夷を唱える薩摩の久光派も「前藩主の乱心によって危機にある国父を救い出す」として長州藩と共同で進軍する事態となった。
こうして京へ向かう長州、薩摩の軍勢を前に、攘夷に同情的な勢力や戦乱の世を危ぶ者たちが長州薩摩にの軍勢に対して融和的な意見を述べているが、尊王攘夷の重鎮であるはずの徳川斉昭は長州や薩摩攘夷派を厳しく非難し、多くの藩がそれに同調、禁裏御守衛の任に就いた徳川慶喜は父の意向と孝明天皇からの排除命令によって御所近傍に迫っていた長州薩摩連合軍の排除を断行、斉彬派である西郷ら万国薩摩陣営も援軍に駆け付けた事で長州薩摩連合軍は敗退、一部薩摩兵別動隊が久光救援を果たしたのち屋敷に火をかけ逃走した事から京の街は二日近く燃え続けることとなってしまった。
禁裏前での戦闘によって長州藩は朝敵として孝明天皇から名指しされ、同じく京を燃やした久光ら攘夷薩摩勢力に対しても討伐の勅が下されることとなり、薩摩の分裂は決定的となった。
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