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小栗は対馬占拠事件を見事解決したことで幕府に留まらない名声を手にする事になった。
斉昭などは外交による解決と樺太の領有権明確化を諸手を上げて褒めそやし、攘夷派にも彼を評価する者が多数存在した。
しかし、攘夷派人士全てが小栗を評価した訳では無い。
長州藩などは武力を持ちながら開戦せずに口先で解決を図り、敵の首も取らずに金子と直轄領の確認だけに留めた行動を激しく非難している。
これは直接ロシアの脅威を肌で感じて樺太義兵団に身を投じた東日本よりも、脅威が未だ現実的ではない地域に多い意見と言えるだろう。
長崎や対馬で事件が起きているが、必ずしも自らに降り掛かった訳では無い。
樺太義兵団に関わる者が多い東日本の場合、実際に身内や近所から直接話を聞き、場合によっては実際に沖合を航行する洋船を目にして恐怖している。
もちろん、それらの船はロシア軍艦で無い場合がほとんどだが。
こうした危機感の違いが、小栗の評価を分けた。
ただし、長州藩士がすぐに異人排斥に動いた訳ではなかった。
まず問題を起こしたのは、斉彬を排除して巧く国父の座に収まった島津久光であった。
この頃すでに起き上がって屋敷内を歩けるほどに回復していた斉彬を見舞うと称して江戸へ赴いた久光は秋を迎えて国元へ向かう所であった。
当日午後、生麦村に差し掛かった行列に対して4人の外国人が馬に乗ったまま乗り入れ、久光の駕籠付近にまで達した時に周りの状況を察して引き返そうとしたところを共周りに斬りつけられてしまう。
この騒ぎで一人が死亡、二人が負傷している。
この事件を知った幕府は事の次第を薩摩藩に問いただしたが実行者は逃げたとの回答であった。
ただ、幕府側はこの問題を荒立てるつもりは毛頭なく、ただ単に大名の行列に対して認識不足の一行が接触して起きた不幸な事故と認識し、特に実行者の処罰なども求める気はなかったのだが、薩摩側は清の状況などから外国人居留地に駐留する外国軍の報復があるものとして警戒し、その後の幕府による問い合わせにも当事者の差し出しや処罰を拒否する方針から、虚偽の報告を繰り返すことになった。
この事態に小栗は頭を抱えている。
イギリス側も条約に即してこれが日本の国内問題であると認識していたし、どう判断するかも幕府に一任していた。
薩摩藩側が素直に事件のあらましを説明して来れば、話しはそれで終わっていた。イギリス側とて大名、いわば領地持ち貴族の移動に際して庶民が無礼を働いた場合、手打ちになる可能性など考慮の内だったのだから。
だが、薩摩藩側が虚偽報告をするのでは抗議をしない訳にもいかない。幕府側も内政問題にも拘らず、外交折衝をしない訳にはいかない大問題へと発展してしまった。
これを外から見ていた薩摩側からすれば、条約の条文など所詮は紙切れであり、実態は清における欧米の振る舞いと変わらないという認識を持つことになる。
それを煽るかのようにフランス公使や列強軍人が報復を公言してはばからなかったのだから何をかいわんや。
そうした事態から薩摩藩に何の処罰もないのでは収まらなくなり、久光の帰国差し止めが言い渡される事態となった。
事情を知らない庶民や攘夷派武士たちも久光たちを持ち上げ、幕府批判を展開する事になる。
そして、國元へ戻れない久光は京都での滞在を余儀なくされ、その際に孝明天皇や公卿たちから生麦事件を絶賛され、攘夷実行者としてもてはやされる状態になっていた。
ただし、中には事情を冷静に見つめる者たちも居り、攘夷に浮かれる人々の説得に当たったりもしている。
当時の日本には国際法に関する知識は無かったという認識が一般的かもしれないが、全くそんなことは無い。
田沼意次が海禁緩和を行い蘭学ブームが起こった際、蘭法学なる物が興っている。これは今でいう国際法学であり、当時の欧州の法令に関する学問であった。
平賀源内や久米通賢らも、蒸気機関や久米式動力の製作においてその使用法などには蘭法学を基準とするルールを設けていたりする。さらに蒸気船の航行に先立って瀬戸内海における船の安全対策にも参考とされ、瀬戸内航行に関する法度には蘭法学から取り入れられたルールもある。
そうして発展してきた蘭法学を開国派は盛んに学び、その中には阿部正弘も居た。彼は蘭法学を身に着けていたことで、砲艦外交的な交渉姿勢をとり、アメリカ側が何か言う前に日本へ足を踏み入れた者は外交官や軍人以外に治外法権を求めない方針を示したのだった。
だが、これを知らない、良しとしない者たちも居た。その一人が島津久光であり、法がどうあろうと清からもたらされる情報が事実だとして、幕府の政策や条約については信用していなかった結果、事態が悪化したのである。
この事態に憤慨したのが斉彬であった。
彼は薩摩藩への処分が下ると病身をおして薩摩へと戻り、久光の無法を鳴らして茂久に対して久光を隠居させるように迫る。
斉彬の帰国は薩摩藩内を二分する騒動を引き起こし、久光派と斉彬派の対立は内戦も辞さない程に大きくなっていくこととなるが、斉彬自身は薩摩が割れることを良しとせず、自身は江戸へ戻って静養するから刀を納め協力せよと告げるが、それで収まる状況ではなく、西郷隆盛ら斉彬派筆頭の面々は護衛と称して斉彬に従い江戸へと向かう事になった。
こうして斉彬の思いとは裏腹に薩摩は分裂。これ以後の動乱において攘夷薩摩と万国薩摩に分かれて暗闘激闘が繰り広げられることとなる。
斉昭などは外交による解決と樺太の領有権明確化を諸手を上げて褒めそやし、攘夷派にも彼を評価する者が多数存在した。
しかし、攘夷派人士全てが小栗を評価した訳では無い。
長州藩などは武力を持ちながら開戦せずに口先で解決を図り、敵の首も取らずに金子と直轄領の確認だけに留めた行動を激しく非難している。
これは直接ロシアの脅威を肌で感じて樺太義兵団に身を投じた東日本よりも、脅威が未だ現実的ではない地域に多い意見と言えるだろう。
長崎や対馬で事件が起きているが、必ずしも自らに降り掛かった訳では無い。
樺太義兵団に関わる者が多い東日本の場合、実際に身内や近所から直接話を聞き、場合によっては実際に沖合を航行する洋船を目にして恐怖している。
もちろん、それらの船はロシア軍艦で無い場合がほとんどだが。
こうした危機感の違いが、小栗の評価を分けた。
ただし、長州藩士がすぐに異人排斥に動いた訳ではなかった。
まず問題を起こしたのは、斉彬を排除して巧く国父の座に収まった島津久光であった。
この頃すでに起き上がって屋敷内を歩けるほどに回復していた斉彬を見舞うと称して江戸へ赴いた久光は秋を迎えて国元へ向かう所であった。
当日午後、生麦村に差し掛かった行列に対して4人の外国人が馬に乗ったまま乗り入れ、久光の駕籠付近にまで達した時に周りの状況を察して引き返そうとしたところを共周りに斬りつけられてしまう。
この騒ぎで一人が死亡、二人が負傷している。
この事件を知った幕府は事の次第を薩摩藩に問いただしたが実行者は逃げたとの回答であった。
ただ、幕府側はこの問題を荒立てるつもりは毛頭なく、ただ単に大名の行列に対して認識不足の一行が接触して起きた不幸な事故と認識し、特に実行者の処罰なども求める気はなかったのだが、薩摩側は清の状況などから外国人居留地に駐留する外国軍の報復があるものとして警戒し、その後の幕府による問い合わせにも当事者の差し出しや処罰を拒否する方針から、虚偽の報告を繰り返すことになった。
この事態に小栗は頭を抱えている。
イギリス側も条約に即してこれが日本の国内問題であると認識していたし、どう判断するかも幕府に一任していた。
薩摩藩側が素直に事件のあらましを説明して来れば、話しはそれで終わっていた。イギリス側とて大名、いわば領地持ち貴族の移動に際して庶民が無礼を働いた場合、手打ちになる可能性など考慮の内だったのだから。
だが、薩摩藩側が虚偽報告をするのでは抗議をしない訳にもいかない。幕府側も内政問題にも拘らず、外交折衝をしない訳にはいかない大問題へと発展してしまった。
これを外から見ていた薩摩側からすれば、条約の条文など所詮は紙切れであり、実態は清における欧米の振る舞いと変わらないという認識を持つことになる。
それを煽るかのようにフランス公使や列強軍人が報復を公言してはばからなかったのだから何をかいわんや。
そうした事態から薩摩藩に何の処罰もないのでは収まらなくなり、久光の帰国差し止めが言い渡される事態となった。
事情を知らない庶民や攘夷派武士たちも久光たちを持ち上げ、幕府批判を展開する事になる。
そして、國元へ戻れない久光は京都での滞在を余儀なくされ、その際に孝明天皇や公卿たちから生麦事件を絶賛され、攘夷実行者としてもてはやされる状態になっていた。
ただし、中には事情を冷静に見つめる者たちも居り、攘夷に浮かれる人々の説得に当たったりもしている。
当時の日本には国際法に関する知識は無かったという認識が一般的かもしれないが、全くそんなことは無い。
田沼意次が海禁緩和を行い蘭学ブームが起こった際、蘭法学なる物が興っている。これは今でいう国際法学であり、当時の欧州の法令に関する学問であった。
平賀源内や久米通賢らも、蒸気機関や久米式動力の製作においてその使用法などには蘭法学を基準とするルールを設けていたりする。さらに蒸気船の航行に先立って瀬戸内海における船の安全対策にも参考とされ、瀬戸内航行に関する法度には蘭法学から取り入れられたルールもある。
そうして発展してきた蘭法学を開国派は盛んに学び、その中には阿部正弘も居た。彼は蘭法学を身に着けていたことで、砲艦外交的な交渉姿勢をとり、アメリカ側が何か言う前に日本へ足を踏み入れた者は外交官や軍人以外に治外法権を求めない方針を示したのだった。
だが、これを知らない、良しとしない者たちも居た。その一人が島津久光であり、法がどうあろうと清からもたらされる情報が事実だとして、幕府の政策や条約については信用していなかった結果、事態が悪化したのである。
この事態に憤慨したのが斉彬であった。
彼は薩摩藩への処分が下ると病身をおして薩摩へと戻り、久光の無法を鳴らして茂久に対して久光を隠居させるように迫る。
斉彬の帰国は薩摩藩内を二分する騒動を引き起こし、久光派と斉彬派の対立は内戦も辞さない程に大きくなっていくこととなるが、斉彬自身は薩摩が割れることを良しとせず、自身は江戸へ戻って静養するから刀を納め協力せよと告げるが、それで収まる状況ではなく、西郷隆盛ら斉彬派筆頭の面々は護衛と称して斉彬に従い江戸へと向かう事になった。
こうして斉彬の思いとは裏腹に薩摩は分裂。これ以後の動乱において攘夷薩摩と万国薩摩に分かれて暗闘激闘が繰り広げられることとなる。
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