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1800年頃の日本は田沼意次による北方探索令に端を発する北方探索が盛んにおこなわれ、そこでロシア人と接触する事になった。
千島列島を北上していくとすでに得撫島以北にはロシア人が活動し、松前藩や幕府はここまでを日本領として扱う慣例出来上がっていた。
そして樺太探検が行われ、1811年には間宮林蔵が樺太探索をまとめた資料と地図を幕府に提出している。
当時はそれほど注目されていなかったが、1840年代になると相良油田だけでは将来的に久米式動力の燃料が不足する事態が懸念され、越後の臭水の精製と開発が始まり、樺太北端にも油田の可能性が指摘されている事が注目されるようになっていた。
そんな最中の1845年、阿部正弘が老中首座に就任する。
北方においては田沼意次の北方探索令以降、ロシアとの接触が続き、文化露寇やゴローニン事件などによって両国関係は険悪化に向かっている所だった。
前任である水野忠邦の時代、ロシアとの関係は鎖国を理由にした拒否を前提に無視や先送りが行われ、モリソン号事件でもその対応は変わることなく、蛮社の獄などが引き起こされることとなった。
老中首座に就いた阿部がまず行ったのは、田沼時代同様に積極的に海外と関わる鎖国緩和策であった。
その政策を実現するために水野忠邦の側近や鎖国維持派の排除を行う「弘化の政変」を画策した程だった。
折しもアヘン戦争の情報が刻々と届けられている最中でもあり、瀬戸内で始まっていた蒸気船実用化や洋式船建造をさらに推し進め、未だ確認されていなかった小笠原諸島の確認のための南方探査令を発している。
この発令に際して反発する勢力も存在したが、翌1846年、アメリカ艦隊が浦賀に来航して開国を求める事件が後押しとなって大船禁止令は大幅に緩和され、幕府御用船を蒸気船に転換する事も決まる。外洋船についてはオランダを介して最新の帆船技術を導入する事として浦賀に造船所を建設し、すでに各地で始まっていた洋式製鉄をも糾合、幕府が主導する興業政策へと拡大していくこととなった。
この大きな流れの中で細々と蒸気機関の研究開発や久米式動力の改良に取り組んでいた平賀塾への資金提供もあり、資金難から実験レベルの域を出なかった圧力鋳造法の実用化が加速、1849年には最初の鋳造施設が幕府造船所として開業した浦賀に設置される事となった。
浦賀を任された江川英龍は反射炉と圧力鋳造装置を用いて日本初のライフル砲の製造に成功している。更に久米通賢が開発途上であった信管開発も引き継ぎ、1853年には実用化、ペリー来航の際には少数の炸裂弾を来航したペリー艦隊の警戒に当たる動力船に実戦配備していたほどだった。
ペリー来航はオランダ商館を通じてすでに予告されていた為、阿部は久米筒を揃えた幕兵を出迎えに並ばせ、完成していた蒸気船や久米式動力船を艦隊の周りへと配し、米国とそん色ない実力を有する事を見せつけている。
当時、すでに日本が産業革命の初端についている事は幾人かの書籍によって欧米にも伝えられていたが、ほとんどの者たちは信じていなかった。ペリーもその一人であり、外輪船を押し出して威圧するハズが、明らかにスクリュー船然とした蒸気コルベットや帆や櫂を持たないより小型の動力船に度肝を抜くこととなった。
とくに動力船は漁船程度の小型の船にもかかわらず当時としては高速で走り回り、旋回式の小砲を備えていた。観察した米軍人はそれが前装式ながらライフル砲であることを発見し、戦慄した事が日記などに書き記されている。
そして、上陸したペリー一行を迎えた儀仗隊が手元で動作しただけで二度の空包射撃を行い、それがどう見ても疑いなく元込め式銃であることに、もはや言葉も出なくなっていた。
こうした演出は全て阿部が計算して行われたものであり、交渉において米側は何ら圧力を掛けるでもなく親書を手渡し、適当な雑談と礼儀的な会話を交わしてそそくさと船へと戻っていった。
これを目にした諸藩の対応は大きく分かれ、攘夷盛んな者たちは「異国恐るるに足らず」と気炎を吐いたが、産業振興に触れた多くの者たちは何とか間に合った最新装備が異国では普通の装備であることを認識し、日本もより一層の産業振興が必要であると確信するに至るのだった。
阿部は江戸の在する諸藩主や江戸家老に対してペリー来航に掛かる経緯の書類を送付し、より一層の軍備拡張と共に、対等な関係での開国は必至であることを説いている。
諸藩も既に幕軍が有する蒸気船や動力船、元込め式の久米筒との格差を痛感し、幕府の意向に従う旨を多くの藩が示す事となった。
さらに長崎では後にプチャーチン事件と命名されるフェートン号事件の再来の様な事件が発生してしまう。
長崎を訪れ通商を求めたロシアのプチャーチン艦隊であったが、11月18日、日本側の外交団が長崎に到着する前にイギリス艦隊が長崎近海に現れてしまう。
この時、日露は北方を巡って微妙な関係にあり、プチャーチンは日本が時間稼ぎしている間にイギリスに自分たちの存在を通報したのだと考え、長崎を砲撃して逃走を図る事態となった。
日本側は予期せぬロシア艦隊による砲撃に混乱し、イギリス艦隊もたまたま不確かな情報を基に日本へやって来ただけであったため、ロシア艦隊は逃走に成功したものの、長崎では死傷者を出す被害によって対外感情が悪化、偵察にやって来たイギリス艦船へ攻撃を仕掛けるほどの混乱ぶりだったが、事態の鎮静化後にイギリスがクリミア戦争に参戦し、太平洋でも作戦が行われていると知った阿部は砲撃の対価を得るために樺太、千島の完全日本領化を決断、イギリス艦隊に対して日本も部分的に参戦する旨を伝達する事態となっていく。
こうして、後にクリミア戦争の事を第零次世界大戦と呼ぶ状況が出現するのだった。
千島列島を北上していくとすでに得撫島以北にはロシア人が活動し、松前藩や幕府はここまでを日本領として扱う慣例出来上がっていた。
そして樺太探検が行われ、1811年には間宮林蔵が樺太探索をまとめた資料と地図を幕府に提出している。
当時はそれほど注目されていなかったが、1840年代になると相良油田だけでは将来的に久米式動力の燃料が不足する事態が懸念され、越後の臭水の精製と開発が始まり、樺太北端にも油田の可能性が指摘されている事が注目されるようになっていた。
そんな最中の1845年、阿部正弘が老中首座に就任する。
北方においては田沼意次の北方探索令以降、ロシアとの接触が続き、文化露寇やゴローニン事件などによって両国関係は険悪化に向かっている所だった。
前任である水野忠邦の時代、ロシアとの関係は鎖国を理由にした拒否を前提に無視や先送りが行われ、モリソン号事件でもその対応は変わることなく、蛮社の獄などが引き起こされることとなった。
老中首座に就いた阿部がまず行ったのは、田沼時代同様に積極的に海外と関わる鎖国緩和策であった。
その政策を実現するために水野忠邦の側近や鎖国維持派の排除を行う「弘化の政変」を画策した程だった。
折しもアヘン戦争の情報が刻々と届けられている最中でもあり、瀬戸内で始まっていた蒸気船実用化や洋式船建造をさらに推し進め、未だ確認されていなかった小笠原諸島の確認のための南方探査令を発している。
この発令に際して反発する勢力も存在したが、翌1846年、アメリカ艦隊が浦賀に来航して開国を求める事件が後押しとなって大船禁止令は大幅に緩和され、幕府御用船を蒸気船に転換する事も決まる。外洋船についてはオランダを介して最新の帆船技術を導入する事として浦賀に造船所を建設し、すでに各地で始まっていた洋式製鉄をも糾合、幕府が主導する興業政策へと拡大していくこととなった。
この大きな流れの中で細々と蒸気機関の研究開発や久米式動力の改良に取り組んでいた平賀塾への資金提供もあり、資金難から実験レベルの域を出なかった圧力鋳造法の実用化が加速、1849年には最初の鋳造施設が幕府造船所として開業した浦賀に設置される事となった。
浦賀を任された江川英龍は反射炉と圧力鋳造装置を用いて日本初のライフル砲の製造に成功している。更に久米通賢が開発途上であった信管開発も引き継ぎ、1853年には実用化、ペリー来航の際には少数の炸裂弾を来航したペリー艦隊の警戒に当たる動力船に実戦配備していたほどだった。
ペリー来航はオランダ商館を通じてすでに予告されていた為、阿部は久米筒を揃えた幕兵を出迎えに並ばせ、完成していた蒸気船や久米式動力船を艦隊の周りへと配し、米国とそん色ない実力を有する事を見せつけている。
当時、すでに日本が産業革命の初端についている事は幾人かの書籍によって欧米にも伝えられていたが、ほとんどの者たちは信じていなかった。ペリーもその一人であり、外輪船を押し出して威圧するハズが、明らかにスクリュー船然とした蒸気コルベットや帆や櫂を持たないより小型の動力船に度肝を抜くこととなった。
とくに動力船は漁船程度の小型の船にもかかわらず当時としては高速で走り回り、旋回式の小砲を備えていた。観察した米軍人はそれが前装式ながらライフル砲であることを発見し、戦慄した事が日記などに書き記されている。
そして、上陸したペリー一行を迎えた儀仗隊が手元で動作しただけで二度の空包射撃を行い、それがどう見ても疑いなく元込め式銃であることに、もはや言葉も出なくなっていた。
こうした演出は全て阿部が計算して行われたものであり、交渉において米側は何ら圧力を掛けるでもなく親書を手渡し、適当な雑談と礼儀的な会話を交わしてそそくさと船へと戻っていった。
これを目にした諸藩の対応は大きく分かれ、攘夷盛んな者たちは「異国恐るるに足らず」と気炎を吐いたが、産業振興に触れた多くの者たちは何とか間に合った最新装備が異国では普通の装備であることを認識し、日本もより一層の産業振興が必要であると確信するに至るのだった。
阿部は江戸の在する諸藩主や江戸家老に対してペリー来航に掛かる経緯の書類を送付し、より一層の軍備拡張と共に、対等な関係での開国は必至であることを説いている。
諸藩も既に幕軍が有する蒸気船や動力船、元込め式の久米筒との格差を痛感し、幕府の意向に従う旨を多くの藩が示す事となった。
さらに長崎では後にプチャーチン事件と命名されるフェートン号事件の再来の様な事件が発生してしまう。
長崎を訪れ通商を求めたロシアのプチャーチン艦隊であったが、11月18日、日本側の外交団が長崎に到着する前にイギリス艦隊が長崎近海に現れてしまう。
この時、日露は北方を巡って微妙な関係にあり、プチャーチンは日本が時間稼ぎしている間にイギリスに自分たちの存在を通報したのだと考え、長崎を砲撃して逃走を図る事態となった。
日本側は予期せぬロシア艦隊による砲撃に混乱し、イギリス艦隊もたまたま不確かな情報を基に日本へやって来ただけであったため、ロシア艦隊は逃走に成功したものの、長崎では死傷者を出す被害によって対外感情が悪化、偵察にやって来たイギリス艦船へ攻撃を仕掛けるほどの混乱ぶりだったが、事態の鎮静化後にイギリスがクリミア戦争に参戦し、太平洋でも作戦が行われていると知った阿部は砲撃の対価を得るために樺太、千島の完全日本領化を決断、イギリス艦隊に対して日本も部分的に参戦する旨を伝達する事態となっていく。
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