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さて、ここで一度三賢人には入っていないが、賢人に列された一人の話をしようと思う。
谷田部に生まれ、数々の業績を残し、奇抜な発明でも有名なイイズカ伊賀七である。
彼は1762年、谷田部に生まれ、少年期から青年期にかけて幾度も飢饉を経験している。
そんな彼は名主の家に生まれ、20代半ばには名主を継いだと思われる。名主を継ぐ以前から算学や蘭学に明るく、裕福な名主であったことをうかがわせるが、飢饉を幾度も目にした伊賀七は農法の改良や農具の改良にも乗り出していくことになった。
記録によると、ある時収穫を終えた稲穂から落ちた籾が水の中で浮く物と沈む物があるある事に気付き、その違いを観察を行い、水に沈んだ籾の方が収量が多くなることを突き止めた。
そこからさらに洋書の知識を実践し、浮力の大きな塩水を用いて選別によってさらに優秀な籾を選抜すれば多収な稲が得られると考え、実験を繰り返していく。
その結果、1790年頃にはそれまでよりも収量が2割近く増加する成果を出したとされ、さらに実験圃場において多収、倒伏耐性、病害耐性のある物を選抜する事まで行ったとされる。もしそれが事実ならメンデルの実験より60年以上早い出来事であり、植物学の歴史を塗り替えるものとされるが、伊賀七の詳細な研究記録は残されておらず、あくまで日記や口伝からその様子を類推する事しかできないと言われる。
ただ、彼が育種に励み、農法開発を行った事実は間違いなく、1820年頃には伊賀七が選抜した籾を更に掛け合わせて多収な品種が谷田部では栽培されるようになっていた。
さらに「からくり伊賀七」の名を知らしめるように農具の改良にも尽力し、「夫婦田植え」と呼ばれるものを開発している。
これは専用の苗代を用いて育苗した苗を用いた田植え機で、一人が機械を引っ張り、もう一人が方向を操作する人力田植え機であったという。後にさらに改良がくわえられた手押し式田植え機が普及する事になるが、伊賀七の田植え機が実際にどのような形であったかは、いくつかの絵が残るのみで正確な事は分かっていない。
ただ、この専用苗を育てる育苗法は油紙による保温苗代であり、田植え機の有無に関わらず、伊賀七が考案した塩水選や保温育苗は天保の大飢饉を経て関東各地に広まり籾の選抜と相まってコメの安定的な生産に繋がったと評価されている。
さらに伊賀七は農具の開発も積極的に行い、両返し犂なる物も考案している。後に全金属製の双用すきとして普及する事になるが、伊賀七の考案した犂は大部分が木製であり、実用性が高かったとは言えない。
それでも当時の犂耕を一変させる画期的な道具であり、日本の犂の歴史に残る物だが、一般的な犂に比して脆弱で高価であったことから普及するには至らなかった。
さらに根張りをよくするための深耕を行うための鍵爪犂なるものも開発しているが、こちらもけん引力が必要で多頭曳きが普及していない日本の畜耕には適しておらず、谷田部で細々と利用される程度であった。
当時すでに関東ではいくつか稼働する蒸気機関が存在したため、それを用いた機械もいくつか発案している。
さすがに当時の伊賀七には実現できなかったがトラクターを構想した事はよく知られており、その動力を用いて脱穀や藁の裁断を行う機械も考えていた。
しかし蒸気機関は移動可能なほど小型では無かったためにこれら構想はあくまで紙の上に留まる事になった。
さらにより小型で移動が可能とされた焼き棒機関を用いたテイラーなども構想しているが、残念ながら実物の入手にまでは至らず、こちらも紙の上の構想に留まっている。
中にはエンジンさえ入手していれば世界初の自動車が完成したとする向きもあるが、彼は革紐で車軸を駆動させる構造の図面しか残してはおらず、変速機が描かれていない為、仮に制作できたとしても成功は怪しかったというのが大勢の見方となっている。
ただ、彼は人力飛行機を制作する過程で自転車を生み出し乗り回していたとの逸話が存在し、もしかするとその自転車から変速機の必要性を思い付き、何らかの解決策を考えていたのかもしれない。
ただ、伊賀七の遺した書物にはしっかりテイラーらしき機械の絵図面が残されているのだが、その図は明らかに久米式動力や源内が試作していたグローエンジンとは似ても似つかない代物で、一般に彼が内燃機関の実物がどの様なもの理解していなかった事を示している。
とは言え、その図面を子細に観察すると不思議な事に気付かされるのも事実で、そこには現代のグローエンジンと同じような空冷シリンダーが描かれ、一方には排気管らしき管が、もう一方には気化器らしき箱が接続されているのが分かる。
実際の久米式動力や源内のグローエンジンは焼玉機関同様に燃料を棒に吹きかけて気化、燃焼させる仕組みであったことから、吸気側には何ら取り付けられてはいない。一般には伊賀七の絵図が伝聞で知り得た久米式動力であり、箱はエアクリーナだと解釈されているのだが、よくよく見ると現代の小型農機がそうであるように、エンジンの上に燃料タンクを備えた重力式気化器の配置である事から、伊賀七は転生者であり、源内や通賢も転生者だと考えて現代のエンジンをそこに描いたのだというオカルト界隈の意見も存在する。
谷田部に生まれ、数々の業績を残し、奇抜な発明でも有名なイイズカ伊賀七である。
彼は1762年、谷田部に生まれ、少年期から青年期にかけて幾度も飢饉を経験している。
そんな彼は名主の家に生まれ、20代半ばには名主を継いだと思われる。名主を継ぐ以前から算学や蘭学に明るく、裕福な名主であったことをうかがわせるが、飢饉を幾度も目にした伊賀七は農法の改良や農具の改良にも乗り出していくことになった。
記録によると、ある時収穫を終えた稲穂から落ちた籾が水の中で浮く物と沈む物があるある事に気付き、その違いを観察を行い、水に沈んだ籾の方が収量が多くなることを突き止めた。
そこからさらに洋書の知識を実践し、浮力の大きな塩水を用いて選別によってさらに優秀な籾を選抜すれば多収な稲が得られると考え、実験を繰り返していく。
その結果、1790年頃にはそれまでよりも収量が2割近く増加する成果を出したとされ、さらに実験圃場において多収、倒伏耐性、病害耐性のある物を選抜する事まで行ったとされる。もしそれが事実ならメンデルの実験より60年以上早い出来事であり、植物学の歴史を塗り替えるものとされるが、伊賀七の詳細な研究記録は残されておらず、あくまで日記や口伝からその様子を類推する事しかできないと言われる。
ただ、彼が育種に励み、農法開発を行った事実は間違いなく、1820年頃には伊賀七が選抜した籾を更に掛け合わせて多収な品種が谷田部では栽培されるようになっていた。
さらに「からくり伊賀七」の名を知らしめるように農具の改良にも尽力し、「夫婦田植え」と呼ばれるものを開発している。
これは専用の苗代を用いて育苗した苗を用いた田植え機で、一人が機械を引っ張り、もう一人が方向を操作する人力田植え機であったという。後にさらに改良がくわえられた手押し式田植え機が普及する事になるが、伊賀七の田植え機が実際にどのような形であったかは、いくつかの絵が残るのみで正確な事は分かっていない。
ただ、この専用苗を育てる育苗法は油紙による保温苗代であり、田植え機の有無に関わらず、伊賀七が考案した塩水選や保温育苗は天保の大飢饉を経て関東各地に広まり籾の選抜と相まってコメの安定的な生産に繋がったと評価されている。
さらに伊賀七は農具の開発も積極的に行い、両返し犂なる物も考案している。後に全金属製の双用すきとして普及する事になるが、伊賀七の考案した犂は大部分が木製であり、実用性が高かったとは言えない。
それでも当時の犂耕を一変させる画期的な道具であり、日本の犂の歴史に残る物だが、一般的な犂に比して脆弱で高価であったことから普及するには至らなかった。
さらに根張りをよくするための深耕を行うための鍵爪犂なるものも開発しているが、こちらもけん引力が必要で多頭曳きが普及していない日本の畜耕には適しておらず、谷田部で細々と利用される程度であった。
当時すでに関東ではいくつか稼働する蒸気機関が存在したため、それを用いた機械もいくつか発案している。
さすがに当時の伊賀七には実現できなかったがトラクターを構想した事はよく知られており、その動力を用いて脱穀や藁の裁断を行う機械も考えていた。
しかし蒸気機関は移動可能なほど小型では無かったためにこれら構想はあくまで紙の上に留まる事になった。
さらにより小型で移動が可能とされた焼き棒機関を用いたテイラーなども構想しているが、残念ながら実物の入手にまでは至らず、こちらも紙の上の構想に留まっている。
中にはエンジンさえ入手していれば世界初の自動車が完成したとする向きもあるが、彼は革紐で車軸を駆動させる構造の図面しか残してはおらず、変速機が描かれていない為、仮に制作できたとしても成功は怪しかったというのが大勢の見方となっている。
ただ、彼は人力飛行機を制作する過程で自転車を生み出し乗り回していたとの逸話が存在し、もしかするとその自転車から変速機の必要性を思い付き、何らかの解決策を考えていたのかもしれない。
ただ、伊賀七の遺した書物にはしっかりテイラーらしき機械の絵図面が残されているのだが、その図は明らかに久米式動力や源内が試作していたグローエンジンとは似ても似つかない代物で、一般に彼が内燃機関の実物がどの様なもの理解していなかった事を示している。
とは言え、その図面を子細に観察すると不思議な事に気付かされるのも事実で、そこには現代のグローエンジンと同じような空冷シリンダーが描かれ、一方には排気管らしき管が、もう一方には気化器らしき箱が接続されているのが分かる。
実際の久米式動力や源内のグローエンジンは焼玉機関同様に燃料を棒に吹きかけて気化、燃焼させる仕組みであったことから、吸気側には何ら取り付けられてはいない。一般には伊賀七の絵図が伝聞で知り得た久米式動力であり、箱はエアクリーナだと解釈されているのだが、よくよく見ると現代の小型農機がそうであるように、エンジンの上に燃料タンクを備えた重力式気化器の配置である事から、伊賀七は転生者であり、源内や通賢も転生者だと考えて現代のエンジンをそこに描いたのだというオカルト界隈の意見も存在する。
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