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二人目の賢人として名を上げるとすると、塩田開発に飛躍的な進歩をもたらした久米通賢と言うのが相応しいだろう。
彼も讃岐高松藩の生まれで、幼少期より優れた才能を示し、大阪で算学や暦学を学んでいる。そんな彼が蒸気機関に巡り合ったのは大阪でのことだったという。
琵琶湖運河計画こそ実現しなかったものの、瀬田川遡上の試みが潰えた訳ではなく、蒸気機関による牽引で遡上させる試みがこの頃試されていたと言われ、彼はそれを目撃し、蒸気機関の有用性に触れたとされる。
彼は1802年に父の逝去のために高松へと帰郷したが、勉学に励み折からの外国船の脅威などもあり、西洋砲術や兵法、造船を学んだと言われる。
そうした折に郷里出身の平賀源内の研究にも大いに触れ、彼が手掛けていた内燃機関の存在も知る事となった。
当時の内燃機関研究は停滞しており、グローエンジンと焼玉機関の折衷の様な模型が何とか稼働しているだけの状態であった。
それを知った通賢は実際に現物を取り寄せ研究を行い、後に久米式動力として普及する焼玉式機関へと繋がる事になる。
ただ、内燃機関はガスや石油を燃料とするため瀬戸内では入手が難しく、石炭を燃料とする蒸気機関の方が実用的であったため、あくまで趣味の域を出ることはなく、彼はもっぱら蒸気機関を用いた機械の発明にウウェイトを置いていた。
そうして生まれた発明が、当時高松藩の依頼を受けて行っていた塩田開発であり、彼は新式の揚水ポンプを開発し、それを用いた流下式塩田の実用化によって藩の財政再建を成し遂げることになる。
燃料となる石炭は筑豊炭田からもたらされており、炭田における排水や石炭、人員の昇降にも蒸気機関が大いに活躍し、採炭量は蒸気機関の導入で大幅に増大したと言われている。
さらに開墾に伴う灌漑設備にも蒸気機関を用いた揚水ポンプの利用を構想したが、さすがに費用と見合わず断念する事となったようである。
また、揚水ポンプの発想転換から送風機の実用化も行われ、別子銅山から産する銅鉱石の精錬に導入され、同時期各地で始まっていた洋式製鉄にも導入されていくことになった。
1830年頃には各地に反射炉や高炉が建ちはじめ、そこで蒸気機関も盛んに稼働するようになり、それまでの鍛冶は工業製鉄へと大きく変貌を遂げようとしていた。
さて、通賢の業績は蒸気機関だけではなく、石炭運搬船の開発にも向けられていた。
元々は西洋砲術や兵法と共に学んだ洋式造船であったが、彼はそれを蒸気船と言う形で実現しようとしていた。
何といっても瀬戸内海は交通の難所であり、関門、尾道、来島、備讃、明石、鳴門と潮の流れが速く当時の和船では潮の流れを見て運航が行われ、ちょっとした気象の変化で大きく廻船が遅れることは日常茶飯事だった。
その対策として洋式船を取り入れ、そこに蒸気機関を載せ、スクリューによって航行する現在の動力船の形を構想し、藩に建造を願い出ていた。
藩としても運搬船の定時運行が可能になれば利益が大きいとみて幕府へと陳情、折からの外国船対策の一環として許可が下りる事となった。
こうして1816年、蒸気船の開発が始まり、試行錯誤の末に1832年には実用可能な蒸気船が瀬戸内海を走り抜ける事となった。
この蒸気船開発と並行して瀬戸内海の正確な航路図の作成にも乗り出した通賢は伊能図とは別に、詳細な瀬戸内の地図を作り、それにさらに岩礁や浅瀬の位置を加えて瀬戸内の航路を目に見える形で初めて図に書き起こす事となった。
本来であれば多数の藩にまたがる政策は困難であったはずだが、幕府の後押しもあり、さらに高松藩が親藩であったことから、瀬戸内諸藩を巻き込んだ事業を見事完遂するに至ったと言われる。
この蒸気船開発の中で、蒸気船が出港までに長い時間を要する難点に着目し、その難点を解消できる一手として内燃機関に再着目し、片手間で行っていた研究を加速させ、容易に製造、可動可能な焼棒機関の開発に成功している。
中身は源内が考案した4ストロークグローエンジンを基本としてグローに当たる焼き棒を挿し込み式として源内の師弟が難儀していた燃料供給装置を実用化し、安定して作動するエンジンとして完成させている。
考え方はほぼ焼玉機関であり、焼玉機関では内臓式である焼玉の代わりに焼き棒(グロー)を取り外して熱し、焼けた棒を予燃室へと装着してそこへ燃料を噴射して気化、燃焼させる仕組みとなっていた。
こうして開発された久米式動力は非常に小型で船の動力として蒸気機関より適していたことから、通賢の亡くなる1840年頃には中、小型船での実用化が試みられていくことになる。
そんな忙しい日々を送る通賢であったが、彼の発想力はそれでは飽き足らず、塩田で使用されるポンプの腐食に対して腐食に強い金属の研究も行い、これが日本の冶金技術発展のカギとなったのはよく知られている事だろう。
そうした研究の副産物として彼は銃の改良にも手を出し、雷汞を用いた銃器を開発。国友においてパーカッションマスケットである国友筒として生産されるが、通賢はさらに進めて元込め式銃を開発、後のスナイドル銃とほぼ同じ構造の久米筒を開発、世界でも最初期の元込め式銃として幕府で採用される事となった。
彼も讃岐高松藩の生まれで、幼少期より優れた才能を示し、大阪で算学や暦学を学んでいる。そんな彼が蒸気機関に巡り合ったのは大阪でのことだったという。
琵琶湖運河計画こそ実現しなかったものの、瀬田川遡上の試みが潰えた訳ではなく、蒸気機関による牽引で遡上させる試みがこの頃試されていたと言われ、彼はそれを目撃し、蒸気機関の有用性に触れたとされる。
彼は1802年に父の逝去のために高松へと帰郷したが、勉学に励み折からの外国船の脅威などもあり、西洋砲術や兵法、造船を学んだと言われる。
そうした折に郷里出身の平賀源内の研究にも大いに触れ、彼が手掛けていた内燃機関の存在も知る事となった。
当時の内燃機関研究は停滞しており、グローエンジンと焼玉機関の折衷の様な模型が何とか稼働しているだけの状態であった。
それを知った通賢は実際に現物を取り寄せ研究を行い、後に久米式動力として普及する焼玉式機関へと繋がる事になる。
ただ、内燃機関はガスや石油を燃料とするため瀬戸内では入手が難しく、石炭を燃料とする蒸気機関の方が実用的であったため、あくまで趣味の域を出ることはなく、彼はもっぱら蒸気機関を用いた機械の発明にウウェイトを置いていた。
そうして生まれた発明が、当時高松藩の依頼を受けて行っていた塩田開発であり、彼は新式の揚水ポンプを開発し、それを用いた流下式塩田の実用化によって藩の財政再建を成し遂げることになる。
燃料となる石炭は筑豊炭田からもたらされており、炭田における排水や石炭、人員の昇降にも蒸気機関が大いに活躍し、採炭量は蒸気機関の導入で大幅に増大したと言われている。
さらに開墾に伴う灌漑設備にも蒸気機関を用いた揚水ポンプの利用を構想したが、さすがに費用と見合わず断念する事となったようである。
また、揚水ポンプの発想転換から送風機の実用化も行われ、別子銅山から産する銅鉱石の精錬に導入され、同時期各地で始まっていた洋式製鉄にも導入されていくことになった。
1830年頃には各地に反射炉や高炉が建ちはじめ、そこで蒸気機関も盛んに稼働するようになり、それまでの鍛冶は工業製鉄へと大きく変貌を遂げようとしていた。
さて、通賢の業績は蒸気機関だけではなく、石炭運搬船の開発にも向けられていた。
元々は西洋砲術や兵法と共に学んだ洋式造船であったが、彼はそれを蒸気船と言う形で実現しようとしていた。
何といっても瀬戸内海は交通の難所であり、関門、尾道、来島、備讃、明石、鳴門と潮の流れが速く当時の和船では潮の流れを見て運航が行われ、ちょっとした気象の変化で大きく廻船が遅れることは日常茶飯事だった。
その対策として洋式船を取り入れ、そこに蒸気機関を載せ、スクリューによって航行する現在の動力船の形を構想し、藩に建造を願い出ていた。
藩としても運搬船の定時運行が可能になれば利益が大きいとみて幕府へと陳情、折からの外国船対策の一環として許可が下りる事となった。
こうして1816年、蒸気船の開発が始まり、試行錯誤の末に1832年には実用可能な蒸気船が瀬戸内海を走り抜ける事となった。
この蒸気船開発と並行して瀬戸内海の正確な航路図の作成にも乗り出した通賢は伊能図とは別に、詳細な瀬戸内の地図を作り、それにさらに岩礁や浅瀬の位置を加えて瀬戸内の航路を目に見える形で初めて図に書き起こす事となった。
本来であれば多数の藩にまたがる政策は困難であったはずだが、幕府の後押しもあり、さらに高松藩が親藩であったことから、瀬戸内諸藩を巻き込んだ事業を見事完遂するに至ったと言われる。
この蒸気船開発の中で、蒸気船が出港までに長い時間を要する難点に着目し、その難点を解消できる一手として内燃機関に再着目し、片手間で行っていた研究を加速させ、容易に製造、可動可能な焼棒機関の開発に成功している。
中身は源内が考案した4ストロークグローエンジンを基本としてグローに当たる焼き棒を挿し込み式として源内の師弟が難儀していた燃料供給装置を実用化し、安定して作動するエンジンとして完成させている。
考え方はほぼ焼玉機関であり、焼玉機関では内臓式である焼玉の代わりに焼き棒(グロー)を取り外して熱し、焼けた棒を予燃室へと装着してそこへ燃料を噴射して気化、燃焼させる仕組みとなっていた。
こうして開発された久米式動力は非常に小型で船の動力として蒸気機関より適していたことから、通賢の亡くなる1840年頃には中、小型船での実用化が試みられていくことになる。
そんな忙しい日々を送る通賢であったが、彼の発想力はそれでは飽き足らず、塩田で使用されるポンプの腐食に対して腐食に強い金属の研究も行い、これが日本の冶金技術発展のカギとなったのはよく知られている事だろう。
そうした研究の副産物として彼は銃の改良にも手を出し、雷汞を用いた銃器を開発。国友においてパーカッションマスケットである国友筒として生産されるが、通賢はさらに進めて元込め式銃を開発、後のスナイドル銃とほぼ同じ構造の久米筒を開発、世界でも最初期の元込め式銃として幕府で採用される事となった。
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