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関白宣言の実現
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1945年9月2日、対米戦争は終結した。
しかし、すべてが終わった訳ではなく、英国とは個別に交渉する必要があった。何せ、まだ降伏条件すら固まっておらず、完全制服まで戦うものだという認識だったからだ。しかし、英国にとっても対日戦争などやっている暇はなかった。そんな余剰戦力があるなら、すべてを欧州戦線へ投じたかったのだから。
こうして呆気なく英国との停戦も成立し、何とか戦争を終えるどころではない。
なにせ、8月8日、突如としてソ連が日本へと宣戦布告を行って来たからだ。
しかし、ソ連に対日戦争の余裕などあるはずもなく、ただ既成事実づくりの参戦である。その為、宣戦布告はしたが極東にあった戦力は1939年とさして変わらない旧式兵器を有する二線級部隊である。ウラジオストクに陸揚げされた米国からのレンドリースはすべて対独戦線へと送られ、どうやって満州を攻めるのか、誰もが頭を抱えた。
それでもモスクワからの命令である。従わなければ、極東よりも更に奥地へと送られる運命であったソ連極東軍は、仕方なく満州へと銃口を向けた。
この時、スターリンはソ連が参戦すれば米国も呼応するものだと考えていたが、時代遅れの部隊は、米軍の妨害無く戦闘に臨んだ関東軍に前進を阻まれ、国境を越えることが出来ずに討ち倒されて行く。南樺太や千島侵攻など考えるだけ無意味だった。
ソ連はそれでも戦闘を止めず、米国が対日停戦に踏み切った9月2日以後も戦闘を続ける。
開戦からひと月で日本海やオホーツク海からソ連海軍は消滅し、少しばかりの潜水艦が、何とか稼働するばかりとなってようやく、対日停戦を口にした。
9月24日、東京湾に姿を現したモンタナ艦上において、日米英による降伏文書調印が行われ、正式に戦争が終結を迎えた。
ホッと一息ついたのも束の間。米英は日本の戦争犯罪を問うと宣言し、政府首脳や軍首脳の逮捕を要求してきた。
この頃日本は関白権問題が浮上し、10月3日には近衛が関白を辞し、大権奉還と内閣総辞職によって鈴木内閣が発足したばかりだった。
鈴木内閣は戦争処理として近衛政権に関わった者達を逮捕拘禁し、帝国ホテルに設けられた連合軍戦争処理委員会へと引き渡す。
ソ連との停戦はこの時に成立している。
更に、講和条件であった満州への米軍保証進駐も進められ、日本の敗戦を誰もが実感することになった。
その頃近衛は豹変していた。逮捕まではまだマトモな部分もあったが、逮捕拘禁されると、なぜそこに自分が居るのか理解していなかったし、一応の記憶はあるが、商会の事も、農政改革の事も、自己否定的な事ばかり口にする様になっていた。
誰から見ても異常としか言えなかったが、関白辞任や大権奉還がショックだったのだろうと解釈された。
以後、裁判中も要領を得ない事が多く、それまで支持していた農村からの支持さえ失ってしまった。
こうしてひとつの時代が終わりを迎えたのだが、近衛が遺したモノはもう暫く尾を引く事になる。
その最大のものと言えば、颯飛行隊の欧州派遣であろう。
颯飛行隊の欧州派遣の遠因は、近衛によるイタリアへの75ミリ砲開発に伴って成形炸薬弾と粘着榴弾情報の提供が行われ、さらになぜか行われたガスタービンエンジン情報であった。
成形炸薬弾はМ17/41などが使用し、英軍をカイロまで追い詰める戦果を上げ、より初速があったP26/42では粘着榴弾が採用され、こちらも多くの戦果を挙げている。しばらく興味を示さなかったドイツ軍だが、Ⅳ号戦車であってもIS重戦車を撃破可能な砲弾として粘着榴弾を導入し、1944年からは多くの戦車、対戦車砲によってソ連戦車の撃破が可能となった。
ガスタービンに関しては未だ実用化前ではあったが、ターボジェットは音速のジェット排気を亜音速域で使用するには効率が悪く、動力軸にプロペラを取り付けた方が燃費も良くなるという理論を開陳し、この話が巡り巡ってヒトラーの耳へと入り、政治的に冷遇していたハインケル社に対し、ジェットエンジンではなくターボプロップの開発を命じ、当時開発中であったHe280潰しを行ったという。ただ、これが怪我の功名となってハインケル社は1943年にターボプロップエンジンを完成させ、燃料不足にあえぐHe177への換装用エンジンとして搭載され、好成績を得て多くの機体が換装、性能を維持しながら低質燃料を利用できる機体としてその後も活躍を続けることになる。
さらに、Hs129にも試験的に換装したところ、飛躍的な性能向上を見て、Ju87に代わる対地攻撃機として1944年後半から配備され、Hs129Cに乗り換えたルーデルによる驚異的なソ連軍撃破に代表される活躍によって、東部戦線は一気に膠着状態を迎えることになった。
こうした近衛の負の遺産と共に、ドイツは1945年春以降、Me262に次ぐ第二世代ジェット機の戦力化が行われており、それらは米軍のP80ですら手に余る高速機であった。
それらに対抗できる機体は、ネ20を搭載し、最高速度550ノット(約1020km)という驚異の速度を誇る颯しかなかった。
颯はデルタ翼を採用して堅牢軽量を両立した機体に仕上がっており、近衛の我が儘を具現したたことで幸運にも音速飛行も可能な機体形状を得ることが出来ていた。まさか、「ミラージュなイメージ」が颯を参考として開発されたフランス製戦闘機ミラージュⅢでは無いと思うが。もちろん、その逸話が知られるようになるのは1970年代以後なので、後世の創作である可能性の方が高い。
何はともあれ、その様な事情から颯を欧州へという話が11月には日本政府にあり、12月には早くも第一陣30機が英国の地を踏むことになった。
この迅速さの裏には鈴木内閣が早急な戦後処理を望んだことも影響しており、素直に米国の要求を吞むことで、以後の対応に便宜を図ってもらおうとしたからだという。
そんな颯飛行隊は1946年が明けるとすぐ、戦場に現れる様になり、米英軍を翻弄するHo229やTa183と言った新世代ジェット機と互角に渡り合い、その活躍を世界に示すことになった。
最終的には颯の生産再開によって300機近くが欧州へと渡り、1947年3月のベルリン陥落まで欧州の空を日の丸戦闘機が舞う事になった。
その間、日本国内では陸海軍の整理縮小令が出され、統帥大権を理由にごねる軍部に対し、昭和天皇が勅命をもって従うよう諭す場面もあった。その様な事もあったため、欧州派遣飛行隊に関しては軍部から切り離し、内閣の下に新たに空軍を設けて運用を行い、この空軍組織を母体として戦後日本軍がスタートする事になるが、それは憲法改正以後の話である。
1947年3月にベルリンが陥落したことでようやく戦争が終わり、日本の戦後処理として連合軍戦争処理委員会主導の東京軍事裁判が行われ、近衛をはじめとする戦争指導に関わった政治家、軍人が死刑判決を受け、1948年5月3日、刑が執行された。
これをもって戦争は完全かつ最終的に終結を迎えたのだが、ソ連は満州や南樺太、千島を要求して取り合わず、さらには朝鮮独立にも介入する姿勢を見せる。こうした事もあって、1950年に旧満州国内で国民党系と共産党系による内戦が勃発。中華人民共和国の本格介入に対抗するため、米空軍のF86と共に、新生日本空軍の颯改が翼を並べて戦う姿が見られることになる。
誰もが耳を疑い、そして理解できずに突き放していた関白宣言であるが、5年後、日米は防共同盟国として欧州の北大西洋条約機構と対をなす極東相互防衛機構を発足させ、仲良く満州の戦場で戦友として戦うようになり、その関係は今に至るも続いている。
関白宣言の際、近衛は一体何が見えていたのであろうか。もしかすると21世紀日本がその目に映っていたのかも知れない。
しかし、すべてが終わった訳ではなく、英国とは個別に交渉する必要があった。何せ、まだ降伏条件すら固まっておらず、完全制服まで戦うものだという認識だったからだ。しかし、英国にとっても対日戦争などやっている暇はなかった。そんな余剰戦力があるなら、すべてを欧州戦線へ投じたかったのだから。
こうして呆気なく英国との停戦も成立し、何とか戦争を終えるどころではない。
なにせ、8月8日、突如としてソ連が日本へと宣戦布告を行って来たからだ。
しかし、ソ連に対日戦争の余裕などあるはずもなく、ただ既成事実づくりの参戦である。その為、宣戦布告はしたが極東にあった戦力は1939年とさして変わらない旧式兵器を有する二線級部隊である。ウラジオストクに陸揚げされた米国からのレンドリースはすべて対独戦線へと送られ、どうやって満州を攻めるのか、誰もが頭を抱えた。
それでもモスクワからの命令である。従わなければ、極東よりも更に奥地へと送られる運命であったソ連極東軍は、仕方なく満州へと銃口を向けた。
この時、スターリンはソ連が参戦すれば米国も呼応するものだと考えていたが、時代遅れの部隊は、米軍の妨害無く戦闘に臨んだ関東軍に前進を阻まれ、国境を越えることが出来ずに討ち倒されて行く。南樺太や千島侵攻など考えるだけ無意味だった。
ソ連はそれでも戦闘を止めず、米国が対日停戦に踏み切った9月2日以後も戦闘を続ける。
開戦からひと月で日本海やオホーツク海からソ連海軍は消滅し、少しばかりの潜水艦が、何とか稼働するばかりとなってようやく、対日停戦を口にした。
9月24日、東京湾に姿を現したモンタナ艦上において、日米英による降伏文書調印が行われ、正式に戦争が終結を迎えた。
ホッと一息ついたのも束の間。米英は日本の戦争犯罪を問うと宣言し、政府首脳や軍首脳の逮捕を要求してきた。
この頃日本は関白権問題が浮上し、10月3日には近衛が関白を辞し、大権奉還と内閣総辞職によって鈴木内閣が発足したばかりだった。
鈴木内閣は戦争処理として近衛政権に関わった者達を逮捕拘禁し、帝国ホテルに設けられた連合軍戦争処理委員会へと引き渡す。
ソ連との停戦はこの時に成立している。
更に、講和条件であった満州への米軍保証進駐も進められ、日本の敗戦を誰もが実感することになった。
その頃近衛は豹変していた。逮捕まではまだマトモな部分もあったが、逮捕拘禁されると、なぜそこに自分が居るのか理解していなかったし、一応の記憶はあるが、商会の事も、農政改革の事も、自己否定的な事ばかり口にする様になっていた。
誰から見ても異常としか言えなかったが、関白辞任や大権奉還がショックだったのだろうと解釈された。
以後、裁判中も要領を得ない事が多く、それまで支持していた農村からの支持さえ失ってしまった。
こうしてひとつの時代が終わりを迎えたのだが、近衛が遺したモノはもう暫く尾を引く事になる。
その最大のものと言えば、颯飛行隊の欧州派遣であろう。
颯飛行隊の欧州派遣の遠因は、近衛によるイタリアへの75ミリ砲開発に伴って成形炸薬弾と粘着榴弾情報の提供が行われ、さらになぜか行われたガスタービンエンジン情報であった。
成形炸薬弾はМ17/41などが使用し、英軍をカイロまで追い詰める戦果を上げ、より初速があったP26/42では粘着榴弾が採用され、こちらも多くの戦果を挙げている。しばらく興味を示さなかったドイツ軍だが、Ⅳ号戦車であってもIS重戦車を撃破可能な砲弾として粘着榴弾を導入し、1944年からは多くの戦車、対戦車砲によってソ連戦車の撃破が可能となった。
ガスタービンに関しては未だ実用化前ではあったが、ターボジェットは音速のジェット排気を亜音速域で使用するには効率が悪く、動力軸にプロペラを取り付けた方が燃費も良くなるという理論を開陳し、この話が巡り巡ってヒトラーの耳へと入り、政治的に冷遇していたハインケル社に対し、ジェットエンジンではなくターボプロップの開発を命じ、当時開発中であったHe280潰しを行ったという。ただ、これが怪我の功名となってハインケル社は1943年にターボプロップエンジンを完成させ、燃料不足にあえぐHe177への換装用エンジンとして搭載され、好成績を得て多くの機体が換装、性能を維持しながら低質燃料を利用できる機体としてその後も活躍を続けることになる。
さらに、Hs129にも試験的に換装したところ、飛躍的な性能向上を見て、Ju87に代わる対地攻撃機として1944年後半から配備され、Hs129Cに乗り換えたルーデルによる驚異的なソ連軍撃破に代表される活躍によって、東部戦線は一気に膠着状態を迎えることになった。
こうした近衛の負の遺産と共に、ドイツは1945年春以降、Me262に次ぐ第二世代ジェット機の戦力化が行われており、それらは米軍のP80ですら手に余る高速機であった。
それらに対抗できる機体は、ネ20を搭載し、最高速度550ノット(約1020km)という驚異の速度を誇る颯しかなかった。
颯はデルタ翼を採用して堅牢軽量を両立した機体に仕上がっており、近衛の我が儘を具現したたことで幸運にも音速飛行も可能な機体形状を得ることが出来ていた。まさか、「ミラージュなイメージ」が颯を参考として開発されたフランス製戦闘機ミラージュⅢでは無いと思うが。もちろん、その逸話が知られるようになるのは1970年代以後なので、後世の創作である可能性の方が高い。
何はともあれ、その様な事情から颯を欧州へという話が11月には日本政府にあり、12月には早くも第一陣30機が英国の地を踏むことになった。
この迅速さの裏には鈴木内閣が早急な戦後処理を望んだことも影響しており、素直に米国の要求を吞むことで、以後の対応に便宜を図ってもらおうとしたからだという。
そんな颯飛行隊は1946年が明けるとすぐ、戦場に現れる様になり、米英軍を翻弄するHo229やTa183と言った新世代ジェット機と互角に渡り合い、その活躍を世界に示すことになった。
最終的には颯の生産再開によって300機近くが欧州へと渡り、1947年3月のベルリン陥落まで欧州の空を日の丸戦闘機が舞う事になった。
その間、日本国内では陸海軍の整理縮小令が出され、統帥大権を理由にごねる軍部に対し、昭和天皇が勅命をもって従うよう諭す場面もあった。その様な事もあったため、欧州派遣飛行隊に関しては軍部から切り離し、内閣の下に新たに空軍を設けて運用を行い、この空軍組織を母体として戦後日本軍がスタートする事になるが、それは憲法改正以後の話である。
1947年3月にベルリンが陥落したことでようやく戦争が終わり、日本の戦後処理として連合軍戦争処理委員会主導の東京軍事裁判が行われ、近衛をはじめとする戦争指導に関わった政治家、軍人が死刑判決を受け、1948年5月3日、刑が執行された。
これをもって戦争は完全かつ最終的に終結を迎えたのだが、ソ連は満州や南樺太、千島を要求して取り合わず、さらには朝鮮独立にも介入する姿勢を見せる。こうした事もあって、1950年に旧満州国内で国民党系と共産党系による内戦が勃発。中華人民共和国の本格介入に対抗するため、米空軍のF86と共に、新生日本空軍の颯改が翼を並べて戦う姿が見られることになる。
誰もが耳を疑い、そして理解できずに突き放していた関白宣言であるが、5年後、日米は防共同盟国として欧州の北大西洋条約機構と対をなす極東相互防衛機構を発足させ、仲良く満州の戦場で戦友として戦うようになり、その関係は今に至るも続いている。
関白宣言の際、近衛は一体何が見えていたのであろうか。もしかすると21世紀日本がその目に映っていたのかも知れない。
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