近衛文麿奇譚

高鉢 健太

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節穴外交

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 近衛文麿と言えば、節穴外交という言葉が有名である。

 ある種、このフレーズばかりが有名過ぎて中身があまり知られていない事も多いが、これは近衛が関白となって以後の兵器行政に介入することに必死なあまり、外交を疎かにして全てを外務省に丸投げしていた事を揶揄したモノである。

 とくに有名なのが外相一喝事件である。

 それまで何を説明しても、「そうかそうか、良いようにやっとけ」で済ませた近衛が、1940年7月に日独伊三国同盟の報を受けた際、「何を勝手なことをやっているのだ。アイツは日本に帰らなくてよい。その辺りに捨ててこい」と一喝した事件である。実際、この同盟調印後に外相は解任され、帰国が叶うのは戦後であった。

 なぜ三国同盟までまったく動かず、指示も出さなかったにも関わらず、こうなってしまったのか。近衛はヒトラーについて聞かれ、「アレとキャラが被るだろ。絶対に会うことはない。そもそも、アレは存在してはいけない」と叫んだという。あくまで個人的な問題でヒトラーを嫌っているだけで、政策は概ね似通っている。差異を挙げるなら、ヒトラー嫌いからユダヤ人保護に熱心だったことくらいだろう。そのユダヤ人保護にしても、「極東エルサレム」やら「東方イスラエル」と言った言葉こそ知られているが、具体的な構想があった訳ではない。架空戦記においては、近衛が南樺太やソ連ユダヤ人自治州と隣接した満州北東地域をユダヤ人居住区と発言するが、それらは全てフィクションである。その様な具体的な発言や記述を行った記録は残されていない。
 全てはその場限りの思い付きであったという。

 この様な一貫性の無い外交姿勢はその後も続き、外相解任という事件を起こしていながら、では、三国同盟を否定したかというと、それは行っていない。後に、「外相解任で自動的に解消されると思った」と述べたとされるが、それが事実かどうかは分からない。というのも、その後の行動があまりに不可解だからだ。
 6月中に行われていた仏印に関する日仏予備協議の席上合意された日本の仏印進駐案を、推進する外相を解任したにも拘らずそのまま承認し、9月には進駐が実施されたのだから。
 当初は北部のみであったが、タイとフランスが交戦するに至ると、近衛は率先してタイの支援に回り、1941年5月に締結された東京条約では仏領インドシナの中でカンボジアやラオスの多くがタイへと割譲されるという取り決めが行われている。
 これに先立ち1940年後半には米国が三国同盟締結や北部仏印進駐に対する抗議、批判を行い、屑鉄輸出の停止に始まり、41年初めには米国企業の日本との取引そのものを制限するに至った。
 この頃、世にいうバトルオブブリテンが始まっており、日本ではドイツ優勢との報道が目立っていたが、その中で近衛はひとり、「あれは無理だ。脚の短いメッサーでそんなことが出来るわけない」と語り、周囲から顰蹙を買っている。が、事実はその通りになっており、近衛の分析能力のちぐはぐさは今でも解明されない謎とされている。

 この様に三国同盟と仏印進駐は日米関係を冷え込ませ、1941年に入ると米企業との取引も軒並み停止されてしまい、近衛の実施していた経済政策に大きな支障が出るに至る。が、だからと言って関係改善に動いたかというと、全くそのような動きは見せず、「あの魔王はどうやっても戦争を望むだろう。わざわざ譲歩するだけ無駄だ」と、ルーズベルトの対日制裁を断じ、一切の妥協なく、解除要求のみを訴え続けていた。1937年に始まった近衛に対するネガティブキャンペーンによって米国世論はヒトラーと近衛を同一視しており、もはやどのような言葉を用いようとも、日米関係が改善する道は無かったという、ただ唯一、近衛が米国企業を使ってロビー活動を展開していればと悔やまれるが、衝突が必然であるかのように行動した近衛の不可解な行動によって、日米交渉の糸口すら見いだせずに時だけが過ぎて行った。
 
 そんな1941年6月22日、ドイツはソ連へと侵攻する。日本国内にはこれに呼応すべしという声も上がるが、近衛は首を縦に振ることはなく、対ソ戦主力となる関東軍はノモンハン事件後の粛清によって近衛の忠実な犬と化しており、支那派遣軍や参謀本部の反近衛派がいくら騒ごうとも、動くことは無かった。

 そもそも、日本国内は農地整理に端を発する内需拡大期であり、対外戦争をしようなどと言う空気は薄かった。「そんな金と人があるなら、もっと田んぼと道を作れ」という意見が多数を占めていた。
 何より、当の近衛はここでもドイツ軍の快進撃には懐疑的で「ナポレオン同様に冬将軍という大敵にドイツが打ち勝つことは無い」と明言している。バトルオブブリテンにおけるドイツの敗退があった直後だけに、誰も反論できず、顔を背けるか俯いてやり過ごすしかなかったという。

 この1941年は軍事分野では様々な事があった年であり、戦艦建造を中止した見返りとして建造が決まった大型空母「大龍」型が竣工を開始している。
 大龍型は戦艦計画の中止に伴って、当時計画していた大型空母計画を拡大し、8隻の大型空母を建造する「新八八艦隊計画」と名付けられた大型空母8隻、中型空母8隻からなる計画の一環であった。中型空母は飛龍をベースに量産に適した改正を加えた翔鶴型である。ただ、建造は大龍型が優先したため、翔鶴型の就役は1943年まで待たなければならない。
 搭載機もようやくモノになった新型艦戦、一式艦上戦闘機が搭載されたが、海軍と近衛の要求のミスマッチもあって、速度は280ノット(約519km)に留まっている。近衛は「堀越がヘボなんだ」と言って憚らなかったという。ただ客観的に見て、近衛が機体サイズを細かく規定しすぎて設計の自由度が無かったことが原因であることは論を待たないのだが。
 こうして一式艦戦は何とかF4Fと互角に戦える機体には仕上がったが、それが限界であった。結果として、日本最優秀の戦闘機は中島が開発した一式戦闘機「隼」である。と世界的に言われることになる。
 ただ、もし近衛が高オクタン価ガソリンの有用性に早く気が付き、米国企業から最新の精製設備を導入できたならば、戦時中の日本戦闘機の評価が大きく変わったともいわれている。なにせ、日本軍にはガソリンは十分に存在した。ただし、航空ガソリンとして使うには低品質であったが。これが米軍並みとはいかずともオクタン価94程度のモノが大量供給出来ていたならば、一式艦戦も一式戦ももう10~20km優速となり、米軍機に対して優勢に戦えたとすら言われる。
 だが、現実は残酷であった。

 そして、その惨劇を回避する方策を、近衛は何一つ持ってはいなかった。当時の日本には多くの資源があった。米国から経済制裁を受けようと、優に5年は自給が出来るという余裕があった。
 それがいけなかったともいわれるが、そうはいっても後の祭りである。

 1941年11月になると中国から頻繁に爆撃機が飛来するようになる。初めは台湾に対してであった。それが次第に九州へも飛来し、満州も狙われるようになる。
 そして決定的な事が11月10日に起きた。なんとあろうことかフィリピンから台湾に対する爆撃が行われたのである。
 事態を重く見た近衛が駐日米国大使に詰問したが、なしのつぶて。あろうことか11月18日には米国政府が「中国へ向かう陸軍航空隊に対して日本軍が攻撃を仕掛けた」と、日本側からすれば全くの事実無根のデタラメな声明発表が行われ、12月2日にも再度、フィリピンからの爆撃があり、電探で事前に捕捉していた日本軍は戦闘機を緊急発進させ、6機のB‐17を撃墜し、その事実を公表した。

 しかし、米国はやはり「中国へ向かう編隊に対する騙し討ちを受けた」とし、日本に対し最後通牒を突き付けて来た。世にいう「ハル・ノート」である。その内容は朝鮮北部の鉱山や遼河油田など、米国資本が入ったものはすべて米国に引き渡せと言う内容だった。受け入れる事など不可能であり、最終期限とされた12月8日未明をもって米国に宣戦布告、12月10日には早くも赤城、加賀、蒼龍、飛龍によって編成された第一航空艦隊によるフィリピン空襲が開始され、太平洋戦争の火ぶたが切って落とされることとなった。
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