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95、気まずい顔合わせ
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「用意はできたかね?」
「あ、はい!」
ノックと共に、扉の外から掛けられた声に慌てて返事を返す。
ネクタイはしめたし、あとはジャケットを羽織れば準備完了だ。
目の前にある大きな鏡には、いつもよりもきりっとして見える自分がうつっている。
スーツは、できるだけ普段着ているものに似た雰囲気のものを選んだ。
だが、そもそもの素材が違うからなのか、いつも着ているスーツのようなだらしなさがない。
やはり、スーパーの端にあるような紳士服コーナーで、一万円もしないようなセール品の吊るしと一緒にしてはいけないような代物なのだろう。
きっちりとアイロンがけされたかのような綺麗な折り目はもちろん、生地自体に張りのようなものがあり、例え着ているのが平凡な俺であったとしても、格好よさが何割か増して見えるよう整えてくれている。
これが、馬子にも衣装、というやつか。
確かに、なるほど、と思えるできである。
「入るよ」
「あ、はい」
どきどきしないと言えば嘘になる。
昨日、この部屋の前で別れてから、御前崎教授の顔を見るのはこれが初めてなのだ。
そして、ドアを開けて入ってきただけの美丈夫に、俺の目は釘付けになった。
教授はまだジャケットには袖を通しておらず、スリーピースの中のベスト姿だった。
日本人離れしたすらりとした長身と、老いなど微塵も感じさせない姿勢が、まるでどこかのファッションモデルのようで、この人が大学の教授をしているということを忘れてしまいそうになる。
むしろ、何故、この人は大学教授をしているのだろう。
整った顔立ちも、そのスタイルも、俺とは違って、もっと別のことに活かせそうなくらいに格好いい。
しかも、いつもよりもどこか憂いを帯びたように見える表情が、その美しさをさらに際立たせているような気がする。
「嗚呼、ゆうい……いや、数寄屋くん、よく似合っている。だが、ネクタイが……その、少し手直しさせてもらってもいいかね……?」
「……あ、はい」
一瞬、嬉しそうな顔になったが、すぐにいつもの御前崎教授に戻った。
どこか不機嫌そうなしかめ面だ。
その顔も、俺の呼び名も、前の通りに戻されている。
ほんの少し違うのは、その口から以前のように、嫌味な言葉が出てこないということだけだ。
そのことに、ほんの少しもやもやとしてしまうのは、この数日の間に笑顔の教授から名前で呼ばれることに慣れてしまっていたからだろうか。
きっと、そうだ。
そうでなければおかしい。
どうして、と思うものの、その理由を問う勇気はなかった。
きっと、深い意味などない。
適切な距離を取ることにしただけだろう。
深く考えることなく、自分の中で勝手に答えを出し、それを腹の奥にしまいこんだ。
自分がもやもやしてしまう理由を、他の人に聞くことなんてできるわけがない。
ましてや、それを教授に聞く、だなんてこと。
俺がぼうっとしている間にも、教授は近付いてきていて、俺が適当にしめたネクタイを直してくれた。
「さあ、これでいい」
ネクタイをしめたあと、ほこりを払ってくれたのか、肩を軽くぽんぽんと叩いただけで離れていった手に、ほんの少し寂しいと感じてしまうのは、何故なのか。
きっと、色々なことに慣れすぎてしまったせいだと思いたい。
職場の上司と部下の関係として考えれば、これが正しい距離感のはずだ。
はず、なのだ。
それだというのに、どこか物足りなさを感じてしまう。
むしろ、これだって近すぎるくらいだ。
「……ありがとうございます」
「私がしたくてしたことだからね。君は、気にしなくていいよ。それより、そろそろ出発しようか。遅刻をするのはよくないからね」
「……はい」
俺に触れることなく、振り返ってしまった御前崎教授の背中が、少しずつ離れていく。
それを見て、やはり、寂しいと感じてしまうのは、手をさしのべてもらえなかったからなのだろうか。
もやもやとする胸が、少し軋んだような気がした。
【私も、ついていくとしよう】
「え? 教授も?」
俺だけが感じる何ともいえない雰囲気の中、教授の声が響いた。
それはもちろん、御前崎教授のものではなく、俺の使い魔であるスライムの方の教授の声だ。
「……それは、どうしてかな?」
【なに、迷惑をかけようというわけではないよ。ほんの少し、人間の暮らしに興味が出てきたものでね。今後のためにも、ユウのまわりのことを知っておきたいと思ったのだよ。まさか、どこかの誰かのような不届き者が、そう何人もいるとは思えないが、念には念を、と言うだろう?】
驚いて振り返った教授に、スライムの教授が皮肉たっぷりな声で言う。
なんとなく、仲がよくなったように思っていたけれど、どうやらそういうわけでもないようだ。
「……見られて困るようなものはない。好きにするといい。ただし、我々の他に、姿を見られることがないよう気をつけてくれたまえ」
【ああ、もちろんだとも。きちんと隠れていくから、私のことは気にしなくていい】
「そうかね」
「え、あ、本当に、教授も行くのか?」
【そのつもりだが……ユウは、私がついていくと迷惑なのかね?】
「え、いや、そんなことは……きょ、あ、いや、えっと、お、御前崎教授、許可してくださり、ありがとうございます」
「……かまわないよ。しっかり隠しておきなさい」
「は、はい!」
なんとなく、教授とひとまとめにすることはできなくて、名字を入れて呼び掛ければ、御前崎教授は優しく忠告をしてくれる。
たしかに、使い魔スライムの一般的な使い道を知っているものに見られたりしたら、俺がどんなオナニーをしているのかばらすようなものだし、ましてや、俺のスライムは、貴重なカラースライムなだけでなく、性的性能特化なピンク色だ。
絶対に、人に見られてはならない。
「しっかり隠れてくれよな」
もう一度、スライムの教授に念押しをしてから、先に歩きはじめてしまった御前崎教授のあとを追う。
そんなわけで、俺の使い魔による職場見学が確定したのだった。
「あ、はい!」
ノックと共に、扉の外から掛けられた声に慌てて返事を返す。
ネクタイはしめたし、あとはジャケットを羽織れば準備完了だ。
目の前にある大きな鏡には、いつもよりもきりっとして見える自分がうつっている。
スーツは、できるだけ普段着ているものに似た雰囲気のものを選んだ。
だが、そもそもの素材が違うからなのか、いつも着ているスーツのようなだらしなさがない。
やはり、スーパーの端にあるような紳士服コーナーで、一万円もしないようなセール品の吊るしと一緒にしてはいけないような代物なのだろう。
きっちりとアイロンがけされたかのような綺麗な折り目はもちろん、生地自体に張りのようなものがあり、例え着ているのが平凡な俺であったとしても、格好よさが何割か増して見えるよう整えてくれている。
これが、馬子にも衣装、というやつか。
確かに、なるほど、と思えるできである。
「入るよ」
「あ、はい」
どきどきしないと言えば嘘になる。
昨日、この部屋の前で別れてから、御前崎教授の顔を見るのはこれが初めてなのだ。
そして、ドアを開けて入ってきただけの美丈夫に、俺の目は釘付けになった。
教授はまだジャケットには袖を通しておらず、スリーピースの中のベスト姿だった。
日本人離れしたすらりとした長身と、老いなど微塵も感じさせない姿勢が、まるでどこかのファッションモデルのようで、この人が大学の教授をしているということを忘れてしまいそうになる。
むしろ、何故、この人は大学教授をしているのだろう。
整った顔立ちも、そのスタイルも、俺とは違って、もっと別のことに活かせそうなくらいに格好いい。
しかも、いつもよりもどこか憂いを帯びたように見える表情が、その美しさをさらに際立たせているような気がする。
「嗚呼、ゆうい……いや、数寄屋くん、よく似合っている。だが、ネクタイが……その、少し手直しさせてもらってもいいかね……?」
「……あ、はい」
一瞬、嬉しそうな顔になったが、すぐにいつもの御前崎教授に戻った。
どこか不機嫌そうなしかめ面だ。
その顔も、俺の呼び名も、前の通りに戻されている。
ほんの少し違うのは、その口から以前のように、嫌味な言葉が出てこないということだけだ。
そのことに、ほんの少しもやもやとしてしまうのは、この数日の間に笑顔の教授から名前で呼ばれることに慣れてしまっていたからだろうか。
きっと、そうだ。
そうでなければおかしい。
どうして、と思うものの、その理由を問う勇気はなかった。
きっと、深い意味などない。
適切な距離を取ることにしただけだろう。
深く考えることなく、自分の中で勝手に答えを出し、それを腹の奥にしまいこんだ。
自分がもやもやしてしまう理由を、他の人に聞くことなんてできるわけがない。
ましてや、それを教授に聞く、だなんてこと。
俺がぼうっとしている間にも、教授は近付いてきていて、俺が適当にしめたネクタイを直してくれた。
「さあ、これでいい」
ネクタイをしめたあと、ほこりを払ってくれたのか、肩を軽くぽんぽんと叩いただけで離れていった手に、ほんの少し寂しいと感じてしまうのは、何故なのか。
きっと、色々なことに慣れすぎてしまったせいだと思いたい。
職場の上司と部下の関係として考えれば、これが正しい距離感のはずだ。
はず、なのだ。
それだというのに、どこか物足りなさを感じてしまう。
むしろ、これだって近すぎるくらいだ。
「……ありがとうございます」
「私がしたくてしたことだからね。君は、気にしなくていいよ。それより、そろそろ出発しようか。遅刻をするのはよくないからね」
「……はい」
俺に触れることなく、振り返ってしまった御前崎教授の背中が、少しずつ離れていく。
それを見て、やはり、寂しいと感じてしまうのは、手をさしのべてもらえなかったからなのだろうか。
もやもやとする胸が、少し軋んだような気がした。
【私も、ついていくとしよう】
「え? 教授も?」
俺だけが感じる何ともいえない雰囲気の中、教授の声が響いた。
それはもちろん、御前崎教授のものではなく、俺の使い魔であるスライムの方の教授の声だ。
「……それは、どうしてかな?」
【なに、迷惑をかけようというわけではないよ。ほんの少し、人間の暮らしに興味が出てきたものでね。今後のためにも、ユウのまわりのことを知っておきたいと思ったのだよ。まさか、どこかの誰かのような不届き者が、そう何人もいるとは思えないが、念には念を、と言うだろう?】
驚いて振り返った教授に、スライムの教授が皮肉たっぷりな声で言う。
なんとなく、仲がよくなったように思っていたけれど、どうやらそういうわけでもないようだ。
「……見られて困るようなものはない。好きにするといい。ただし、我々の他に、姿を見られることがないよう気をつけてくれたまえ」
【ああ、もちろんだとも。きちんと隠れていくから、私のことは気にしなくていい】
「そうかね」
「え、あ、本当に、教授も行くのか?」
【そのつもりだが……ユウは、私がついていくと迷惑なのかね?】
「え、いや、そんなことは……きょ、あ、いや、えっと、お、御前崎教授、許可してくださり、ありがとうございます」
「……かまわないよ。しっかり隠しておきなさい」
「は、はい!」
なんとなく、教授とひとまとめにすることはできなくて、名字を入れて呼び掛ければ、御前崎教授は優しく忠告をしてくれる。
たしかに、使い魔スライムの一般的な使い道を知っているものに見られたりしたら、俺がどんなオナニーをしているのかばらすようなものだし、ましてや、俺のスライムは、貴重なカラースライムなだけでなく、性的性能特化なピンク色だ。
絶対に、人に見られてはならない。
「しっかり隠れてくれよな」
もう一度、スライムの教授に念押しをしてから、先に歩きはじめてしまった御前崎教授のあとを追う。
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