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うしお

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第12弾『恋しい人の手のひらで』

第12弾『恋しい人の手のひらで』

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「何故、逃げた。俺がお前を手放すと思ったのか」

何もかもを捨てて逃げたはずなのに、気が付けば囚われていた。
しっかりと腕を掴む手のあたたかさよりも、心の奥まで貫きそうな視線の熱さに眩暈がする。

「……もう、飽きてしまったんです」

初めから、終わることが決まっていた関係だった。
わたしは彼の気まぐれで選ばれた『遊び相手』のひとりでしかない。
血筋を何よりも重視する家系において、誰よりも優秀な跡継ぎとして産まれた彼に求められているのは、今代の繁栄と優秀な血筋を次代へしっかり繋げて残し続けること。
繋ぐための相手が決まるまでの間、家から宛がわれることになる『遊び相手』には、優秀な血を余計なところへばらまかないよう『男』が選ばれてきた。
時代錯誤も甚だしいが、彼の家はそれを叶えることができるだけの権力と財力を兼ね備えた家なのだ。

それは、逆らうことのできない主家筋からの命令だった。
七歳も年下の男に引き合わされ、いきなり明日から『男妾』として仕えるようにと命じられたときには、いっそこの子どもを殺して逃げてやろうかと思ったものだったが、いまとなっては逃げることさえままならない。
心を殺して相手を見つめる。

「飽きた、だと? それなら何故、お前はピアスをつけたままでいる? 知っているはずだ。そのピアスには、GPSが仕込まれている。お前がそれをつけている限り、俺からは決して逃げられないのだと、俺がじっくり教えてやっただろう?」

夜の森よりも暗い深緑の瞳は、いつだってわたしの心を簡単に絡め取ってしまう。
鏡に映るピアスを見る度、初めてピアスホールを開けた日のことや、初めて体を重ねた日のことばかりを思い出した。
じっくりと焦らされて、念入りすぎるほど念入りに蕩かされたわたしの中に、深く深く入り込んできた熱杭の熱さは目を閉じるだけでも思い出される。
それは、どれだけ心を凍らせ、すべてを忘れようとしても消えない記憶だ。

「……捨てるのを、忘れただけです」

わたしを見つめる彼の耳には、いまも同じ色のピアスが輝いている。
捨てられるわけがない。
お揃いがいいと彼がねだり、それならこれをと自分がねだった。
彼の瞳によく似た宝石いしは、ずらりと並んだどの宝石よりも輝いていた。
いまとなっては、彼との繋がりはもはやこれだけになってしまったのだから。

「相変わらず、嘘が下手だな」

深緑の瞳が優しく細められるだけで、わたしの心は囚われてしまう。
ささやかな抵抗とばかりにかけていた眼鏡のレンズは、ただの硝子だった。
その視線を歪ませることもなく、わたしの元に届けてしまう。
心を殺さなくてはいけないのに。

「嘘では」

嘘ではないと言いかけた唇を塞がれ、引き寄せられる。
たっぷりと口の中を犯され、蕩かされた体がたくましい腕の中におさめられた。

「帰ってこい」

その一言で、全身が歓喜に震える。
この腕の中こそが、自分のいるべき場所だと訴えているのだ。
もうここは、別の人のものになってしまったというのに。

「……ここは、わたしの場所じゃない……遊びは、もう終わったんですよ」

なけなしの理性を振り絞って、腕の中から逃れようと必死にもがく。
この腕を知る他の誰かに嫉妬して、狂いそうになるのはもう嫌なのだ。
ひとりで寝るには広すぎるベッドで帰ってこない彼を待つのも、彼と夜を共にしたと自慢してくる他の『遊び相手』の自慢を聞くのもうんざりだった。

「そうだな、遊びは終わりだ。だが、お前の居場所は、この腕の中だけだ。他のところになど行かせない」

「……新婚の癖に、まさか愛人ごっこを続けるとでも……?」

見上げた深緑の瞳は、その奥底に燃え盛るマグマのような炎を宿していた。
凍らせたはずの心がどんどん溶かされていく。

「愛人ごっこではない。俺が愛するのはお前だけだ」

「……そんなこと、許されるはずがありません」

「わかっている。あいつらは、頭が固いからな。どうしても、俺に子どもを作らせたいらしい。だからな、俺の願いを叶えてくれるなら、ちゃんと種馬としての役目も果たしてやると約束している」

「……でしょう、ね。きっと、きちんと奥方様を迎えられて、お家のために」

僅かな希望を打ち砕かれた気分だった。
子どもを成すと言うことは、彼が妻を迎えるということだ。
この腕の中に、わたしよりも大切にするべき人を迎え入れるということなのだ。

「話は最後まで聞け。その奥方だが、ただ迎えたところで俺に子どもは産まれない。俺の問題を解決しなければ、一生だって産まれはしない」

「何故ですか? 種なしというわけではないのでしょう? どうして、産まれないなんて……?」

「ああ、種ならあるだろうな」

「それならどうして?」

「種はあるが、俺はお前にしか勃たない。お前がいなければ、俺は種馬にすらなれない男なんだ。可哀想だと思わないか?」

「…………はぁ?」

わたしは、彼の前に出ると自分の感情をうまくコントロールできなくなる。
真面目な顔で、わたしにしか勃たないと豪語する相手をまじまじと見つめた。
それならば、いまわたしの太ももに押しつけられているものはなんなのだろうか。
火傷しそうなほどに熱くてみっしりとした存在感は、どう考えてもあれでしかないと思うのに。

「とにかく、お前は俺に捕まったんだ。鬼ごっこは終わりだろう? 溜まりに溜まったこの愛を、たっぷりお前に注ぎ込んでやる。もう二度と、逃げようなんて思わないほど愛してやるから、お前の愛を俺にくれ」

「……あの、本当に、わたしにしか勃たないんですか……?」

「ああ、お前だけだ。そのせいで、もう半年も禁欲生活を送らされている。こんなにも元気なのに、可哀想だと思わないか?」

「それ、告白としては最低ですよ。わたしの体だけが目当てなんですか?」

「いや、そうだな……これは、失礼だったな。俺に愛を教えてくれた人。貴方だけが、俺の唯一だ。どうか、この手を取って欲しい。一生、貴方だけを愛させてくれ」

「そんなことしたら、一生結婚できませんよ?」

「知らないのか? 男同士で結婚できる国もあるぞ。そう、例えばこの国とかな?」

ぴらりと見せつけられたのは、彼の名前が書かれた婚姻届。
相手の枠は空白だったが、差し出された万年筆が名前を書けとわたしに囁く。

「さあ、早く書いて役所に行くぞ。それから今度は、揃いの指輪を選びに行こう」

「これって、そんなに軽いものではないと思うんですけどね」

「さっさと出して、俺を既婚者にしてくれ。俺が既婚者になれば、自動的に次の当主は弟になる。可哀想な婚約者殿も、その方が幸せになれる妙案なんだ」

「あなたはまた、そういうことばかりが得意になって」

他人ひとの心の方が、自分のものよりわかりやすいってだけだ。お前も、この婚姻を喜んでくれているだろう? この国に逃げることを選んだのはお前なのだから」

「……ええ、悔しいですが、その通りですよ」

「それなら、俺がこれを持ってくることだってわかりきっていたことだろう。なあ、どこまでわかっていたんだ? 俺が、お前の手のひらで踊らされていると思うのは間違いか?」

「さあ、わたしにはわかりかねます」

「お前にわからなければ、誰にもわからないだろう?」

「さあ、わたしには。一体、どちらなのでしょうね……?」
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