13 / 19
蛇足の蛇足編
13(蛇足の蛇足3)
しおりを挟む
ルイが連れてきたのは、マーサという女の使用人だった。
マーサは暗いじめじめとした日陰の土のようなブルネットの髪を、白いシニヨンでまとめた少し陰鬱そうな女だった。
ルイがカミルに紹介している間、ずっと唇をきつく閉ざしていた。
使用人としては正しいのだろうが、もう少しにこやかな顔はできないのだろうか、と思ってしまう。
マーサはくすんだ緑色の瞳で、カミルのことをじっと見据えてくる。
まるで、カミルを叱る前のお母様のような目だ。
「な、なんだ。何か言いたいことがあるなら言ってみろ」
「わたくしが、お世話をするべき方は、どちらにいらっしゃいますか」
「と、隣の部屋だ」
「かしこまりました。それでは、お世話をさせていただきます」
礼儀正しく、すっと頭を下げたマーサが寝室に消える。
途端に、部屋の中からばたばたと騒がしい音が聞こえはじめた。
「マーサ、どうした? 何があった」
ルイが何事かと、カミルを庇いながら寝室のドアをノックする。
しばらくばたばたとしていたが、ドアの向こうがしんと静まりかえると僅かな隙間からマーサがちらりと顔を見せた。
「殿方は、くれぐれも中に入られませんようお願い申し上げます。ルイ様、何か女性でも羽織れるものをお持ちいただけますでしょうか」
「彼女に着せるのか? それなら、僕のガウンを使えばいいよ! その部屋にあるものは、なんでも好きに使っていい!」
「かしこまりました。そうさせていただきます」
再び、寝室のドアが閉ざされると、カミルは彼女のためにできることを考えはじめた。
彼女を領都にある本邸へ連れていくには、まず誰よりも領主であるお父様から許しをもらわなくてはいけない。
それに、何も持たない彼女のために、着るものや身に着けるものなども、すべて用意しなければいけないだろう。
それを同時に済ますためには、カミルが急いで領都へと帰り、お父様から許しを得た上で、彼女に相応しいドレスや装飾品を持って帰ってくるのが一番だ。
カミルは、とても悩んだ。
急いで戻るのだとしても、彼女のために別荘には人を残していく必要がある。
だが、別荘にくるのに、カミルは最低限の護衛と使用人しか連れてこなかった。
カミルは自分だけでなく彼女を護るために、苦渋の決断を迫られた。
結局、カミルは最低限しかいない護衛と使用人の中から、少女のためにルイとマーサを残していくことを決めた。
ただひとり残していくならルイ以外の騎士では心許ないし、移動するカミルの護衛は、ルイひとりだけでは務まらないからだ。
それに、カミルはこれ以上、誰かに彼女の存在を知らせたくなかった。
せめて、お父様から婚約の許可をもらうまでは。
「僕が戻るまで、あの子のことを頼む。誰がきても、この邸から出さないで欲しい。必ずここで護ってくれ」
「かしこまりました。この命に代えましても必ずお護りいたします」
カミルは、ルイだけに聞こえるよう小さな声で命令した。
予定よりも早い領都への帰還に誰もが首を傾げたが、カミルは異論を挟ませなかった。
ふたりの人間を置いていくことも、カミルが急いで帰ることにも、もちろん。
だが、カミルはこの日の選択を、生涯悔やみ続けることになる。
領主である父親の説得には、少なくない時間を要した。
貴族であるカミルが、いきなりどこの誰かもわからない少女を妻にしたいと言ったところで、すんなり受け入れてもらえるとは思っていなかったが、それでもカミルは諦めなかった。
早く彼女を迎えに行きたいと願いながら、出される課題に真摯に取り組んだ。
少女と夫婦になるためなら、と苦手な武術や馬術にも挑んだのだ。
領地に戻ってからのカミルは、それまでの怠惰が嘘であるかのように、あらゆる努力をし続けた。
その甲斐もあって、ようやくお父様からの許可が降りた時、カミルは喜びのあまり、少女のための美しい純白のワンピースとそれに相応しい靴などが入った箱を馬にくくりつけ、たったひとりで出立していた。
元より優秀な領主の子であるカミルは、きちんと学べばそのあたりに出没する山賊などの手合いなど容易く退けるだけの実力があった。
ただ、それらのことに興味を持てないだけだったのだ。
カミルは、少女に逢うために、ひたすら馬を走らせた。
最低限の休養と睡眠で、一刻も早くあの美しい少女に告白するために。
そして、カミルは見てしまう。
たどり着いた別荘で、裸体のままの美しい少女を、恋人のように優しく抱き上げるルイの姿を。
カミルにとってそれは、許しがたい光景だった。
護りを任せた騎士が、少女の肌に触れている。
それは、カミルのものなのに。
カミルだけが、手に入れるものなのに、と。
怒りで目の奥が燃え上がるようだった。
それから、カミルは自分が何をしたのか覚えていない。
少女の姿を見た瞬間から、カミルは怒りに飲み込まれ、何もかもがわからなくなってしまった。
ひたすら、少女を求めて彷徨った。
気が付いた時、カミルは崖の上にいた。
遠くへのばした手の中には、何ひとつ残っていない。
代わりに心にぽかりと穴があいたような心地だった。
「……逝ってしまわれたのですね」
いまにも風の音にかき消されそうなその声が、確かに聞こえたのは何故なのか。
動けなくなっているカミルの横を通り抜け、崖へと向かうその背中は、迷いも何も背負っておらず、ただ淡々とするままで。
「永らくお世話になりました。わたくしも、お暇させていただきます」
頭を下げたマーサの風をはらんで膨らむスカートの影から、朝日がすっと射し込んだ。
カミルが、その眩しさに手をかざし、下ろした時にはすべて終わりを迎えていた。
初めて恋心を抱いた少女も、いずれ領地の守りの要になるはずだった優秀な騎士も、誰よりも真面目で領主から信頼されていた使用人も、すべて消えて。
すべてを失ったカミルは、残された地でひとり生きた。
ただひとつ胸にあいた穴だけを手にして。
マーサは暗いじめじめとした日陰の土のようなブルネットの髪を、白いシニヨンでまとめた少し陰鬱そうな女だった。
ルイがカミルに紹介している間、ずっと唇をきつく閉ざしていた。
使用人としては正しいのだろうが、もう少しにこやかな顔はできないのだろうか、と思ってしまう。
マーサはくすんだ緑色の瞳で、カミルのことをじっと見据えてくる。
まるで、カミルを叱る前のお母様のような目だ。
「な、なんだ。何か言いたいことがあるなら言ってみろ」
「わたくしが、お世話をするべき方は、どちらにいらっしゃいますか」
「と、隣の部屋だ」
「かしこまりました。それでは、お世話をさせていただきます」
礼儀正しく、すっと頭を下げたマーサが寝室に消える。
途端に、部屋の中からばたばたと騒がしい音が聞こえはじめた。
「マーサ、どうした? 何があった」
ルイが何事かと、カミルを庇いながら寝室のドアをノックする。
しばらくばたばたとしていたが、ドアの向こうがしんと静まりかえると僅かな隙間からマーサがちらりと顔を見せた。
「殿方は、くれぐれも中に入られませんようお願い申し上げます。ルイ様、何か女性でも羽織れるものをお持ちいただけますでしょうか」
「彼女に着せるのか? それなら、僕のガウンを使えばいいよ! その部屋にあるものは、なんでも好きに使っていい!」
「かしこまりました。そうさせていただきます」
再び、寝室のドアが閉ざされると、カミルは彼女のためにできることを考えはじめた。
彼女を領都にある本邸へ連れていくには、まず誰よりも領主であるお父様から許しをもらわなくてはいけない。
それに、何も持たない彼女のために、着るものや身に着けるものなども、すべて用意しなければいけないだろう。
それを同時に済ますためには、カミルが急いで領都へと帰り、お父様から許しを得た上で、彼女に相応しいドレスや装飾品を持って帰ってくるのが一番だ。
カミルは、とても悩んだ。
急いで戻るのだとしても、彼女のために別荘には人を残していく必要がある。
だが、別荘にくるのに、カミルは最低限の護衛と使用人しか連れてこなかった。
カミルは自分だけでなく彼女を護るために、苦渋の決断を迫られた。
結局、カミルは最低限しかいない護衛と使用人の中から、少女のためにルイとマーサを残していくことを決めた。
ただひとり残していくならルイ以外の騎士では心許ないし、移動するカミルの護衛は、ルイひとりだけでは務まらないからだ。
それに、カミルはこれ以上、誰かに彼女の存在を知らせたくなかった。
せめて、お父様から婚約の許可をもらうまでは。
「僕が戻るまで、あの子のことを頼む。誰がきても、この邸から出さないで欲しい。必ずここで護ってくれ」
「かしこまりました。この命に代えましても必ずお護りいたします」
カミルは、ルイだけに聞こえるよう小さな声で命令した。
予定よりも早い領都への帰還に誰もが首を傾げたが、カミルは異論を挟ませなかった。
ふたりの人間を置いていくことも、カミルが急いで帰ることにも、もちろん。
だが、カミルはこの日の選択を、生涯悔やみ続けることになる。
領主である父親の説得には、少なくない時間を要した。
貴族であるカミルが、いきなりどこの誰かもわからない少女を妻にしたいと言ったところで、すんなり受け入れてもらえるとは思っていなかったが、それでもカミルは諦めなかった。
早く彼女を迎えに行きたいと願いながら、出される課題に真摯に取り組んだ。
少女と夫婦になるためなら、と苦手な武術や馬術にも挑んだのだ。
領地に戻ってからのカミルは、それまでの怠惰が嘘であるかのように、あらゆる努力をし続けた。
その甲斐もあって、ようやくお父様からの許可が降りた時、カミルは喜びのあまり、少女のための美しい純白のワンピースとそれに相応しい靴などが入った箱を馬にくくりつけ、たったひとりで出立していた。
元より優秀な領主の子であるカミルは、きちんと学べばそのあたりに出没する山賊などの手合いなど容易く退けるだけの実力があった。
ただ、それらのことに興味を持てないだけだったのだ。
カミルは、少女に逢うために、ひたすら馬を走らせた。
最低限の休養と睡眠で、一刻も早くあの美しい少女に告白するために。
そして、カミルは見てしまう。
たどり着いた別荘で、裸体のままの美しい少女を、恋人のように優しく抱き上げるルイの姿を。
カミルにとってそれは、許しがたい光景だった。
護りを任せた騎士が、少女の肌に触れている。
それは、カミルのものなのに。
カミルだけが、手に入れるものなのに、と。
怒りで目の奥が燃え上がるようだった。
それから、カミルは自分が何をしたのか覚えていない。
少女の姿を見た瞬間から、カミルは怒りに飲み込まれ、何もかもがわからなくなってしまった。
ひたすら、少女を求めて彷徨った。
気が付いた時、カミルは崖の上にいた。
遠くへのばした手の中には、何ひとつ残っていない。
代わりに心にぽかりと穴があいたような心地だった。
「……逝ってしまわれたのですね」
いまにも風の音にかき消されそうなその声が、確かに聞こえたのは何故なのか。
動けなくなっているカミルの横を通り抜け、崖へと向かうその背中は、迷いも何も背負っておらず、ただ淡々とするままで。
「永らくお世話になりました。わたくしも、お暇させていただきます」
頭を下げたマーサの風をはらんで膨らむスカートの影から、朝日がすっと射し込んだ。
カミルが、その眩しさに手をかざし、下ろした時にはすべて終わりを迎えていた。
初めて恋心を抱いた少女も、いずれ領地の守りの要になるはずだった優秀な騎士も、誰よりも真面目で領主から信頼されていた使用人も、すべて消えて。
すべてを失ったカミルは、残された地でひとり生きた。
ただひとつ胸にあいた穴だけを手にして。
0
お気に入りに追加
60
あなたにおすすめの小説

腐男子ですが何か?
みーやん
BL
俺は田中玲央。何処にでもいる一般人。
ただ少し趣味が特殊で男と男がイチャコラしているのをみるのが大好きだってこと以外はね。
そんな俺は中学一年生の頃から密かに企んでいた計画がある。青藍学園。そう全寮制男子校へ入学することだ。しかし定番ながら学費がバカみたい高額だ。そこで特待生を狙うべく勉強に励んだ。
幸いにも俺にはすこぶる頭のいい姉がいたため、中学一年生からの成績は常にトップ。そのまま三年間走り切ったのだ。
そしてついに高校入試の試験。
見事特待生と首席をもぎとったのだ。
「さぁ!ここからが俺の人生の始まりだ!
って。え?
首席って…めっちゃ目立つくねぇ?!
やっちまったぁ!!」
この作品はごく普通の顔をした一般人に思えた田中玲央が実は隠れ美少年だということを知らずに腐男子を隠しながら学園生活を送る物語である。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

完結·助けた犬は騎士団長でした
禅
BL
母を亡くしたクレムは王都を見下ろす丘の森に一人で暮らしていた。
ある日、森の中で傷を負った犬を見つけて介抱する。犬との生活は穏やかで温かく、クレムの孤独を癒していった。
しかし、犬は突然いなくなり、ふたたび孤独な日々に寂しさを覚えていると、城から迎えが現れた。
強引に連れて行かれた王城でクレムの出生の秘密が明かされ……
※完結まで毎日投稿します
【完結】冷血孤高と噂に聞く竜人は、俺の前じゃどうも言動が伴わない様子。
N2O
BL
愛想皆無の竜人 × 竜の言葉がわかる人間
ファンタジーしてます。
攻めが出てくるのは中盤から。
結局執着を抑えられなくなっちゃう竜人の話です。
表紙絵
⇨ろくずやこ 様 X(@Us4kBPHU0m63101)
挿絵『0 琥』
⇨からさね 様 X (@karasane03)
挿絵『34 森』
⇨くすなし 様 X(@cuth_masi)
◎独自設定、ご都合主義、素人作品です。

ふつつかものですが鬼上司に溺愛されてます
松本尚生
BL
「お早うございます!」
「何だ、その斬新な髪型は!」
翔太の席の向こうから鋭い声が飛んできた。係長の西川行人だ。
慌てん坊でうっかりミスの多い「俺」は、今日も時間ギリギリに職場に滑り込むと、寝グセが跳ねているのを鬼上司に厳しく叱責されてーー。新人営業をビシビシしごき倒す係長は、ひと足先に事務所を出ると、俺の部屋で飯を作って俺の帰りを待っている。鬼上司に甘々に溺愛される日々。「俺」は幸せになれるのか!?
俺―翔太と、鬼上司―ユキさんと、彼らを取り巻くクセの強い面々。斜陽企業の生き残りを賭けて駆け回る、「俺」たちの働きぶりにも注目してください。
精霊の港 飛ばされたリーマン、体格のいい男たちに囲まれる
風見鶏ーKazamidoriー
BL
秋津ミナトは、うだつのあがらないサラリーマン。これといった特徴もなく、体力の衰えを感じてスポーツジムへ通うお年ごろ。
ある日帰り道で奇妙な精霊と出会い、追いかけた先は見たこともない場所。湊(ミナト)の前へ現れたのは黄金色にかがやく瞳をした美しい男だった。ロマス帝国という古代ローマに似た巨大な国が支配する世界で妖精に出会い、帝国の片鱗に触れてさらにはドラゴンまで、サラリーマンだった湊の人生は激変し異なる世界の動乱へ巻きこまれてゆく物語。
※この物語に登場する人物、名、団体、場所はすべてフィクションです。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる